第十話 闇夜の糾弾者
静かな寝息が聞こえた。
歩は目覚めてから暫くの間、ぼうっと天井を眺めていた。室内は薄暗く、閉じられたカーテンの隙間から射し込む明かりが唯一の光源であった。澄んだ空気が鼻を撫でる。体にかけられた柔らかい毛布が、歩をベットと一体化させていた。模様の書き込まれた天井は、いつぞやの無機質なそれとは違い、歩の眼前に迫ることはなかった。歩は三度瞬きをした。やはり近付いてこない。耳を澄ました。遠く喧騒が聞こえた。
歩は、自身の呼吸音とは違うもう一つの音に意識をむけた。ベットの縁、そちらに顔を向ければ、少女が肩を上下させている。床に敷かれたカーペットに座って、ベットに体重をかけている彼女には見覚えがある。笑顔が魅力的だった、抱きしめた体温を忘れるはずがない。真白は、歩の手を握っていた。
歩は体を起こして真白を眺めた。意識は未だ微睡の中にあるのか不鮮明である。記憶を探り深緑色の女を思い出すが、感情が追い付かず、歩は目の前の真白の横顔に視線を落とした。目元にうっすらと何かが流れた後がある。空いた手で拭うと、スベスベした頬の感触がこそばゆかった。薄暗い室内で、真白の横顔が眩しい。健康的な血色に赤い唇。歩は真白の笑顔をもう一度見たかった。見ることが出来るのだ、ということに遅れて驚いた。
真白に手を握られたまま歩は周囲を見回した。装飾の凝らされた部屋である。ここはどこだ、と疑問を得、しかし危機感というものを感じないのは、傍にいる真白の存在が大きい。彼女がこうしているのなら、ここは危険があるところではないのだろうと、歩は一片の疑いもなく信じることが出来た。故に、歩はここがどこなのか知るためにベットから出た。真白は寝かしたままに、情報を得ることを第一とした。真白の手に名残惜しさを感じた。そっと離して、その体に毛布を掛けた。かけるときに気が付いたが、歩も真白も服が違う。ゆったりとした服装に着替えていた。石鹸のにおいが鼻孔をついた。ソファの上に見覚えのあるバックパックとトートバックが置かれていた。
足の裏をカーペットに沈ませながら、歩はドアに近付いた。ドアノブに手をかけ、不意に振り返り、細やかな光に照らされた真白を見た。守ることが出来たのだと、歩は数秒その後姿を眺め、ドアノブを引いた。
長い廊下はヒンヤリとした空気に包まれている。所々に配置された照明は落とされ、ここでも光源は窓の外の光のみであった。窓から外を見ると、高い視線はここが建物の二階以上であることを示していた。窓の外、地上には無数の星々が瞬いていた。天上の星を押しやるほど街は光に溢れ、その下にはやはり溢れんばかりの人がいた。人がいる。望んでいた光景は、しかし無感動だ。歩は冷えた胸の内を探ろうと、胸板に手を当てた。探っても答えは出てこない。求めていたものも忘れなかったものも、全部が空っぽだった。少女の顔だけ思い出すことが出来た。
歩は長い廊下を歩きだした。ひたひたと、冷たい床に足の裏がついては離れる音が反響する。どれ程歩いただろうか。唐突に歩は、目の前を白い何かが流れていくような感覚に捉われた。後ろ髪を引く様な感覚は窓の外、街の光景ではなくもっと手前、すぐ下にある庭へと落ちていった。導かれるような感覚に、歩は既視感を得た。窓際に寄って外を見下ろした。
白だった。
長い髪だ。白い髪が、闇色に染まる芝生の中において一際目を引いて離さない。それ自体が光っているように思えた。女性だろうか。彼女は靴も履かず、芝生の上に腰を下ろしている。何をするということもなく、彼女は闇の中央にいた。美しい光景に引き付けられつつも、歩は彼女の纏う闇に寒気を覚えた。
そんな時だ。歩にかけられた声があった。
「アレは彼女の癖じゃよ。何かがあるとこうして外に出ては、暫く帰ってこん。昔から緑が好きな子じゃったからのぉ」
不意の声に歩はそちらを見た。老人がいる。白髪を後ろで結え、長い髭をぶら下げた背の低い老人。背中を曲げたその人は、薄闇の中でまるで縁取られたかのように浮いていた。老人は白かった。
「おぬし等のことは調べさせてもらったよ」
突然の登場に呆気に取られている歩を置き去りに、老人は言葉を紡ぐ。柔らかくのんびりとした口調だった。
「わし等にはその権利がある。またおぬし等にはその義務がある。名とは己の存在を定義するものじゃ、わし等の為にも、おぬし等の為にも、またアレの為にも、知らねばならなかった」
そこで老人は笑った。口を覆う髭の中で声はくぐもった。
「……霧島歩、でよかったかの。連れは名を拒んでおったから、真白ということ以外はわからんかったがの」
老人が歩をジッと見つめた。微かに開いた瞼の奥に、赤い瞳が見える。歩はその瞳に見つめられ、目を逸らすことが出来ない。
「おぬしは名を持っておる。わし等とは違った名じゃ。しかしそれはトワイライトを意味するものではない。一体おぬし等は何者なのかの?」
その声の柔らかさとは裏腹に、こちらの胸の内その全てを見透かそうとする目が、歩を見ている。ゾッとするほど冷ややかなその赤を、歩は見続けることが出来なくて、逃げるように再び窓の外の彼女に視線をうつした。
「何者って……僕は僕ですよ」
委縮している。歩は手に浮かんだ汗をズボンで拭った。この質問をされたのはこれで二回目だろうか。歩は何者と訊かれて、パッと思い浮かぶものがなかった。
「そうか……」
老人は短く答えた。それ以上追及はしなかった。
「まぁ安心せい。おぬし等はトワイライトの方から来たが、ノアを迎えに来たということではないことはわかったのじゃ。きっとロクもおぬし等を見て、殺気立つことももうないじゃろうて」
老人は笑った。くぐもった笑い声から緊張が抜けていた。歩は生唾を呑みつつ、疑問を得た。
「トワイライト、って……一体何なんです?」
歩はその言葉の意味を知っている。その理由は単純だ。何度も聞いたことがあるから。しかし、その単語は歩の知っている意味以上の何かを持っているような気がした。
「離せば長くなる。今日は休みなさい」
老人は歩の隣を通り過ぎ、廊下のむこうに歩き出した。はぐらかされたような気がして、歩は老人の背中にむかってこう言った。
「トワイライト……ノア、って、一体何なんです!?」
老人は振り向かない。連れが心配しておるよ。そう返し、それ以降口を開かなかった。
歩は、その後姿が廊下の角を曲がるまでずっと老人を目で追っていた。消えて、もう一度眼下を見やる。彼女は相変わらず闇の中にいた。
歩は廊下を歩きつつ、自身の前髪に触る。黒色の髪。深緑色の女は、この髪と目の色を見て、トワイライトとあの単語を口にした。真白にとって、トワイライトがどういう意味を持っているものなのかはわからないが、歩にとってそれは単なる言葉でしかない。また、黒髪と黒い瞳に特別な何かを見出したこともない。しかし、ここでは、歩が飛び込んだこの場所では、三つの要素が何かとんでもない意味をもっているかのように思えた。だが歩はそれを知らない。知らないままに特殊な攻撃を受けて、気が付けばこんな所にいる。ここに来て最も聞いたであろう言葉の意味を自分だけが知らず、けれど周囲はさも当たり前といった体で行動を起こしている。歩は、得体のしれない何かに無意識のうちにのみこまれているような気がした。
新月の夜は、しかし街の明かりに照らされていた。しかしながら、こちらに届く光は闇と交じり、足元は暗い。歩は剥き出しになっている自身の足を眺めるが、そこにあるはずの指先の輪郭をつかめないでいた。顔を上げる。目の前には歩と真白が眠っていた部屋のドアがあった。
歩はドアノブに触れた。ヒンヤリとした球体を回そうとした時、しかし歩が手指に力を入れる前にそれは回り始めた。ガチャリと音を立て内側に開いたドアは、その開け手を歩の前にあらわにした。
真白がいる。酷く焦っているのか、目を見開いた彼女は、歩の存在に一瞬気が付かなかったようで、走りだそうとかけた加速の勢いのまま歩の体にぶつかった。遅れて驚きの声が両者の口から漏れ、次いで歩は衝撃にバランスを崩し、真白と一緒になって倒れた。背中を打ち付け、歩は痛みを覚える。
「いたた……」
倒れて苦痛に顔を歪めている歩とは対照的に、真白はがばっと体を起こした。どうしたの、と口を開きかけた歩は、それより早く真白に頬を引っ叩かた。声になりきらなかった言葉を歩が捕らえる前に、真白の荒々しい感情がもう一度歩の逆の頬をぶった。
「馬鹿野郎!!」
怒号は潤んでいる。静かだった廊下に響く真白の感情は、怒りの様相を呈していながらも奥に湛えた悲しみを隠そうとしていない。ひりついて熱を持った頬に、冷たい滴がぽつぽつと落ちてきた。
「アンタがいなくなったらアタシは、アタシはどうしたらいいんだよ!!勝手な自己満足を押し付けるなよ!!」
歩は真白を見上げた。瞳を潤ませて叫ぶ真白は、あの白シャツを着ていた。急いで着たのか裏表が逆だ。歩は森の中のやりとりを思い出した。歩は彼女から離れるつもりはなかった。だからパーカーを返した。ならば真白は。暑いからとパーカーをバックの中にしまって、それでもシャツを着ていた真白は。
真白は歩の胸倉を掴んだ。力強さは、あの石橋の上と同じだ。離すまいというのか、真白は一向に力を緩めない。
「馬鹿なことをするなって言ったのはアンタだろ!だったら馬鹿な事しようとしてんじゃねぇよ!!このッ……馬鹿野郎!!」
最後は言葉になりきっていなかった。涙が邪魔をしたのか、真白は綺麗な顔をくしゃりと歪めて、歩の胸板に飛び込んだ。声を上げて泣きながら、何度も歩の肩口付近を両手で叩く。怒りを吐き出しながらも、どこか安堵が伝わってきて、歩は胸をチクリと刺す痛みを感じた。罪悪感は、歩に過去を振り向かせる。とんでもないことをしてしまったのではないのかと。
「し、仕方ないだろ。真白を守るために、ああするのが一番だったんだ」
歯切れの悪さは尻すぼみになって、歩は誰が見ているというわけでもないのに顔を逸らした。だから震える華奢な肩に触れることができない。
「嘘をつくな。アンタ、アタシを言い訳にして自分を正当化しようとして、この嘘つき」
肺の裏側辺りが焼け焦がれている。チリチリと熱があって、歩は居心地が悪い。誤魔化そうという気はない。そう思っているのに、真白の言葉がそうさせるのか、或いは別のものがそうさせるのか、歩はバツの悪さを得た。
「……俺は自分に正直になっただけだよ。嘘なんかついて、ない」
「嘘に、するな」
間髪入れない真白の糾弾に歩は息をのんだ。真白は歩の願いを知っているのだ。知って歩はその願いに準じた。だが真白は知っていて嘘だと唾棄した。途端に願いのもう一つの顔が見えてきた。それは逃げだった。
「アンタは言った。諦めたら過去のことを全部自分で否定するって。アンタ諦めてた。アンタが諦めたらさ、アタシはどうすればいいんだよ」
だが逃げずに立ち向かったところでどうなるというのだ。歩は擦り切れて潰れそうだった。それでも意地を張ってどうにかと考えていたが、それが虚しいことだと知ったのだ。だからやめたのだ。諦めるのが一番だと。
「アンタが、歩が今までどうだったのかとかそんなことは知らない。でも歩はアタシの手を握ってくれた。アタシをちゃんと見てくれた。勝手なのはわかってる。だけどアタシをこうさせたのは歩、アンタなんだ。だから……」
頬にじわじわと痛みが蘇る。真白に与えられたものではない。しかしそれが起因であることは確かだ。歩はこの痛みを知っている。忘れていたつもりだった。忘れたつもりだった。だがこれはいつも歩について離れていなかった。前には真白の顔がある。縋りつくような、子供のような顔。寄る辺を失くすまいと必死でしがみつくその表情を、だから歩は正面に捉えて見ることが出来ている。
「馬鹿なことは考えないでくれ。お願いだから、アタシを一人にしないでくれ」
思い出した。歩は自身を掴んで離さない痛みと怒りを思い出した。手が震える。今更だと思った。逃げであったとしても、歩は自分の本当の願いを知ったのだ。自覚して、それでも諦めるなと言われても、歩はどうすればいいのかわからないのだ。もう心は諦めてしまっている。なのに痛みがそれを許さない。押し潰されそうな圧迫感がある。
「……だったら、俺はどうすればいいんだ。どうしろってんだ」
「知らねぇよ。どうにか踏ん張ってきた自分が一番知ってんだろ」
それこそ勝手だ。そう思い、しかしシャツを握る真白を見て言葉を失った。縋りつく彼女に、歩は問いただすことが出来なかった。答えは自分の中に。歩はそんなものが自身のうちにあるとは思わなかった。だがもう、死ねない。まるで呪いだった。
「……お二人さん?」
歩が自分の頬に触れた時だ。真白ではない、全く聞き覚えのない声を聞いた。そちらを見ると二つの白い人影、そして揺れる金髪と禿げ上がった頭部があった。先の背の低い老人とは違い、ひょろりとして姿勢のいい老爺。肉が削ぎ落ちしわくちゃの顔の老婆。豊かな髭を蓄えたがたいの良い中年男性に、サラリと艶やかなロングヘアーの中年女性。彼等は廊下の角からこちらを窺っていたようで、半身を乗り出している。茶目っ気の混ざった表情の中年女性が、ほうれい線を持ち上げている。
「ちょっと大きい声にこうして様子を見に来たわけだけど……いいかしら?」
歩は呆然と女性の顔を眺めていた。真白は、歩の胸板の上で肩を震わせている。シャツが涙で濡れている。




