二章 (1/5)
初恋は何の味?という問題があると仮定しよう。大概にして多くの人は甘酸っぱいものだったという記憶が漠然と脳裏にあるのではないだろうか?しかし、恋愛という現象において、味覚という五感が働くのかについては甚だ疑問が残る。
そもそも初恋の記憶を思い返したとき、それ自体が本当に甘酸っぱい体験と表現されるべきではない。多くの人が甘酸っぱいと言うから、薄れゆきながら、美化される記憶の中で漠然とした「甘酸っぱい」という大衆論が形成されたのが真実なのではないだろうか。
ところで俺の体験を例にとってみよう。俺の初恋はおそらく小学1年生の頃だった。姉の親友でよく家に遊びにきていた女の子だ。姉の親友らしい、身長が高くて性格の明るい女の子だった。
年上好きと言えばマセガキの戯言と聞こえるだろうが、俺の年上、高身長好きはなるべくしてなったのだと思う。家の中でかくれんぼをしたり、ゲームをしたり、ハムスターの飼い方にアドバイスを受けたりと、それ以外の理由も相まって随分仲が良かった気がする。
この子が姉だったらよかったのになどと、子供心に本気で思っていたことは姉には秘密だ。色黒でショートヘアのボーイッシュで活発だった気もするが、色白でセミロングの明るい女の子だったかもしれない。容姿はまるでモヤがかかったように記憶の中ではっきりしないが、好きだったという漠然とした感情はいまだに心の中に残っている。
思えば、かくれんぼでトイレの中に一緒に隠れてるときに用を足したり、家でアヒルを飼っていたりと他人の目を気にしない堂々で奇々とした性格でありながら、動物にやけに詳しかったり、トイレ中は「耳塞いでね」と注意してきたり、わりと抜け目のない子でもあった。
当時は内向的で大雑把だった俺にとって、そんな自分と対照的な存在である彼女に憧れを抱いて恋をしていたのかもしれない。勿論、当時の俺には知り得ない感情だったわけだが。
まあ結局、彼女はすぐに引っ越してしまい、風の噂で「綺麗な女性に育った」と聞いて胸がチクリとした程度だ。その時になって、ああ好きだったのかなあなんて思ってしまった。
しかし、記憶というのは往々にして捏造、虚妄。本当は体格の大きい彼女にいじめられると恐怖してドキドキしていたのを、思春期にあれは恋だったのだと錯覚してしまっただけかもしれない。幼少時の記憶っていうのは、時が経つにつれて美化されていくものだ。
そもそも言われてみれば、甘酸っぱい気がしなくもないが…そもそも甘酸っぱいってなんだ?はちみつレモンって甘酸っぱそうで甘いだけだよね?いや、それにしても…。
…それにしても、やはりこれは恋なのかもしれない…。
「は?」
行儀悪くソファーに寝っ転がりながらテレビを楽しそうに見ていた姉がこちらに振り向く。雑誌を片手にバームクーヘンをくわえながらテレビを見ている姉が「頭大丈夫か?」と不可解そうな表情で聞いてきた。お前の栄養管理のが大丈夫なのか心配だ。
「寝ながら食べてると牛みたいに太るぞ」
やれやれと呆れ気味に忠告した弟の優しき心遣いが心に響かないのか、はたまた反抗期なのか、姉は思慮を挟まずにクッションを投げつけて「うるさい」と一言。行動の順序が逆である。全くいつからこんな悪い子になってしまったのか、あの頃はまだ優しかったのに…。
「そんな乱暴な子に育てた覚えはありません!」と叫びながらリビングを走り去り、俺は自分の部屋のベッドにジャンプインした。高校に入って水玉模様からシックなストライプ模様に変えた、新品の枕にボーッとした脳ごと顔が埋まる。
そもそも恋愛とは何なのか、質量はどのくらいで体積はいかほどなのか。熱量の計算も必要だな。俺は恋をしているのか、それとも恋に恋しているのか、もしくは恋に恋することに恋しているのか、いやそれとも実は、恋に恋することの恋することに恋して…(略)。
「ぬぬぬー」とキャラに似合わず、子供みたいに呻きながら俺は枕に顔を沈めてバタ足をした。いや…一度やってみたかっただけだ。とにかくもかくにもだ!仮に俺が恋しているとして、恋している相手は一体何なのか?この答えを導き出すのが大切だ、うん。まあなんだ。事の発端は今日の出来事だろう、なんだろう。登校中、学校案内、生徒会…帰宅。ダメだ、全く思い当たる節がない。
ふと、首を傾げた不可解そうな表情の宮木が脳裏をよぎった。…ないないない、断じてないぞ。いやないね、それはない。ちょっとドキッとしただけで恋とかない、それはないわ。
宮木のことなんて全然好きじゃない。
絶対好きじゃない。
別に…ちょっと好きなだけだ…。
いやそれが恋なのか?そうなのか?そうなんですか?教えて誰かさん!
起き上がって頭を掻きむしる。ベッドの上で正座しながら部屋を眺めると、綺麗に整頓された本棚に並べられた白い本に目が写った。
恋の名言集。タイトルが赤い文字で記されている。まるで狙ったかのようなタイミングで発掘されたその本は、長い時を本棚に埋蔵されて過ごしたとは思えないほどに新品のような輝かしさを纏っていた。そっとしおりの挟まれたページを開く。
「恋は気がつかないうちに訪れてくる。われわれはただ、それが去っていくのを見るだけである。-ドブソン」
そんなフレーズが視界に入る。すると不意にドアノブを捻る音がした。反射的に本を布団の下に隠し、ドアを見上げると姉が立っていた。
「お、エロ本?」
そう聞いてニヤニヤしている姉に対し、俺は首を横に大きく振って否定した。
「じゃあ、見せろよ」
いたずらに成功した子供のように目を光らせてほくそ笑む姉に、躊躇しながらも本を布団の下から取り出した。
「ほほおー。恋の名言集ですかー。恋してるのかねー少年」
幼い悪戯っ子のような表情で、やや赤面する俺をからかいながら姉は机の前の回転椅子に腰掛けた。フランス語特有の鼻母音で鼻歌を奏でながらゆっくり一回転する。
「始業式なのに遅帰りとは不謹慎なことでー、相手は同じく新入生かな?」
「ち、ちげーし、別に…サッカーやってただけだし」
フフフと相変わらず意地悪い笑みを浮かべる姉に弁明する。尚も「サッカーねえー」と意味深に呟く姉に証拠を突きつけた。偉大なる松島先輩の体操着である。
「…まあつまり、サッカー部のマネージャーちゃんに恋しちゃったわけねえ、少年」
「ちげーよ、ちょっと好きなだけな」
近況報告を聞いて早くも結論づける姉の言葉を少し訂正する。一目惚れなんてしちゃう頭軽な弟に育てた覚えはないんですけどねー、と天を仰ぐ姉を尻目に、「はあー」と深いため息をついてベッドに倒れ込んだ。そっと目を閉じると、頭の中に今日の記憶が駆け巡っていく。
どのくらい過ぎただろうか…、しばらくして玄関からガチャガチャと鍵を開ける音がしたかと思うと、「ただいまー」という声が廊下に響いた。どうやら母親が買い物から帰ってきたようだ。今日の晩御飯はステーキがいいなー、などと呑気にも姉は呟くのだった。