◆十五 歯車の街のねじまき ②
「――世界って、不思議だと思わない?」
望遠鏡から顔を離し、夜空に瞬く星々を見上げながら、そいつは興奮を抑えた声でそう言った。
雲ひとつなく澄み渡った夜空だ。
ベランダに出てみると月や数知れない星々がよく見える。
大きい星も小さい星も、どれも凛々しく誇らしげに光を放っている。
この街の上にはこんなにもたくさんの星々があったのかと、今更ながらに驚く。
そいつは珍しくうきうきした様子で望遠鏡をベランダに持ち出している。
「あの空のずっと向こうには宇宙という空間があって、そこにいろんな星々があって……でも今いるここは太陽系というひとつの宇宙にしか過ぎなくて、太陽系を抜けたその先には、外宇宙なる世界がある……そんなことがこの細長い筒でわかっちゃうんだから、なんか不思議」
細く小さい手で、そっと望遠鏡を撫でる。
かつて僕が誕生日にプレゼントしたものだ。
「――でも、そんなのって本当にあるのかな」
ふとそいつはそう言って、僕をどきりとさせる。
「行ったこともないし、自分の目で確かめたこともないのに、宇宙のことを知ってるなんて」
そうは言うものの、そいつは実際のところ望遠鏡よりもずっと遠くを見ているんだろうな、と僕は思っている。
いや――遠いかどうかはともかく、望遠鏡では見えない何かを見ているような。
「宇宙って、本当にあるのかな。この世界のはるかには、本当は何があるのか。この世界は、実は幻なんじゃないか――いつも、疑問に思う」
「うーん……でも、ずっと昔から望遠鏡はあるし、宇宙飛行士だって何人もいるけど」
と僕は返してみる。
するとそいつはふふっと悪戯っぽく、けれど切なげに笑う。
「でもさ、本当は宇宙なんてものはなくて、実際はそれっぽく見える幕が空のずっと向こうに張られているだけなんじゃないかって、そう思うときがある。宇宙飛行士だって騙されちゃうような、ね」
「……いまがそう思うとき?」
「まあ、うん」
「それってどういう感じなの?」
「どういう感じ? うーん……」
そいつは首を傾げて、伏し目がちにしばらく考えた。
自分のなかにあるものを味わおうとするかのように。
睫毛が長いな――真面目に考えているそいつには悪いが、僕はそんなことを思っている。
「寂しい、かな」
ややあって、そいつは答えを出した。
「寂しい……お前はいま、寂しいのか?」
ここに僕がいるというのに――。
「うん、寂しい。いつからかはわからないけど、もうずっと長いこと、胸にぽっかりと穴が空いてる。何か大事なものをなくしてしまった。そしてそれを、どうしてか忘れてしまっているような……」
そいつは胸に手を当て、何かを偲ぶかのように目を伏せる。
「――星ってさ、光ですら届くのに時間がかかるような遠くにあるわけじゃない? いまこうして光って見えているずっと遠くの星も、本当はもうすでになくなっているのかもしれない。そういうこと、地上で生きていたらほとんど意識しないけど」
「うん……」
「望遠鏡はずっと遠くを見ることができるけど、それは過去を遡ることでもあって……ここに届く星の光は、そのずっと遠い過去から発されたもの。何光年もかかってようやく見える。過去に戻ることができないように、いま光っているあの星にも辿り着くことができない。辿り着けないくらい遠くの場所が見えることに、いったい何の意味があるのか……」
「意味……」
そいつの言うことは相変わらず僕には少し難しくて、よくわからない。
もうちょっと僕に知性があれば、もっとましな受け答えができるのかなと思う。
「こっちが望遠鏡で宇宙の向こうを見ているように、向こうの誰かもこっちを望遠鏡で見ているのかも。そしてその誰かはもう、いないのかもしれない。自分たちはお互いの過去しか見えなくて、"いま"という瞬間には永遠に立ち会えないのかもしれない。そう考えると……ね」
「それでも……」
僕はなんだか胸が切なくなって、つい、わからないなりに口を出す。
「いま目の前にあるものは、いまだけでも、信じてもいいんじゃないか」
そう言って、僕はそいつを抱き寄せようとした。
「あたっ」
「あ、ごめん」
僕の首からぶら下げた巻き鍵のペンダントがふと躍り出て、そいつの小さな頬に当たった。
「もー、なにー?」
「ちょっと、ねじまきがな」
それで今度こそ僕は、そいつとしっかり抱き合うのだった。
『歯車の街のねじまき』完
本作品はこれで完結です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
本作品には、たくさんの個人的な想い出があります。
前作『恐竜の声をきけ』は恩師Aの還暦お祝いのために、
本作『歯車の街のねじまき』は恩師Bの送別会のために、
それぞれ生まれた小説です。
恩師Bとお別れをしないといけない。それがわかってから、何か記念に残したい、そしてこれに乗じて長編小説を書いてみたいという欲望がわたしのなかに動き出しました。ああ、そういえば恩師Bと二人であんな話をしたな、その続きを書いてみようかな……とか思いつつ、この物語を書き始めたのです。せっかくなので、あれもこれもとおもちゃ箱のようにいろいろな思いつきを詰め込んで、風呂敷を広げられるだけ広げてみようとしました。畳めなくても、それはそれで自分の限界を知るいい機会になると思いながら。
執筆当時は息切れ気味だったのですが、とても充実していました。プロモーションビデオも作ったので余計に余裕がなくなってしまい、送別会の日の朝に慌てて印刷・製本する羽目になったのも、想い出深いです。
恩師Bにお渡ししてお別れを済ませてからは、出版社への応募用に結末を含めて大幅に変更を加え、この形になりました。
ちなみに、恩師Bからは本作品の感想は頂いていません。
ただ、わたし自身の課題について、とても痛い言葉を最後にグサッと残されました。それが次回作へのモチベーションになっていたりします。「なにくそ!」という感じに。
本作品を通して、わたしには足りない点がたくさんあることに気づかされました。次回作で、その埋め合わせを少しでもできればいいなと思っています。
今、人類は新型コロナウイルスとの戦いの真最中。ウイルスもウイルスで自分の遺伝子を残すために変異を繰り返しているのだと見れば、この戦いはどこへ向かっていくのか……スピンカなら夜空の向こうにいろいろな空想を巡らせそうです。
遺伝子の残し方にも、いろいろあるのだと思います。
たとえばホッキョクグマは地球温暖化の影響でアザラシが獲れず絶滅の危機にあるのですが、南下してハイイログマ(グリズリー)と交雑することで、己の遺伝子を残しているのだとか。いつの日か再び発現するために、遺伝子を冬眠させているのでしょうか。
いわゆる生殖によるものとは別に、誰かの記憶に残る、魂の人になる……そんな遺伝子の残し方もありでしょう。
ねじまきが、メウにしたように。
人類の古層に生きる昔話やイメージのように……。
わたしも、いつかどこかにはそんなふうに遺伝子を残せたらいいなと思いつつ、次回作に向けて船を漕いでいるところです。
長くなりましたが、ひとまずはこれで。
またご縁があればお会いしましょう。
奇村兆子




