中世ヨーロッパの城 土、木、そして石
※2024年1月28日 一部追記
中世ヨーロッパの城といえば、一般的に石造りの城砦や煌びやかな宮殿が想像される事でしょう。
しかし、一般イメージと現実の乖離は歴史に付き物。これは城でも同じです。
【シンデレラ】の城や“ヴェルサイユ宮殿”などを基準に想像する人も少なくないでしょうが、シンデレラ城のモデルとなった“ノイシュヴァンシュタイン城”は19世紀にルートヴィヒ2世の命令で建てられたメルヘン趣味建築であり、とても中世的な城とは言えませんし、“ヴェルサイユ宮殿”も17世紀末の建設でこちらも中世ではありません。(そもそも「宮殿」であって「城」ではない)
確かにヨーロッパで現存する中世の城は石造りの物がほとんどですが、日本の城が全て天守閣を持つ石垣の城ではなかったのと同様に、ヨーロッパにも土と木で作られた城は数え切れない程ありました。
本エッセイにて何度か説明した通り、中世前期のヨーロッパはヴァイキングなどの襲撃に悩まされており、その対処に追われていました。
カール大帝が最大版図を成した西ヨーロッパの大国フランク王国は、大帝の死後の9世紀に分割されて国力を落としており、この時に折り悪く、もしくは狙いすましてか、ヴァイキングによる西ヨーロッパ襲撃開始が重なります。
おまけにフランク王国内の王位継承争いなどの不安定な情勢を反映して領主同士の争いも激化。
統一された大国が存在せず(ローマの生き残りである東ローマ帝国も伸張著しいアラブやトルコの対応に精一杯だった)、頼るべき相手が見当たらない状況で、ヨーロッパ中に自己防衛の動きが広がるのも当然だったでしょう。
『ヴァイキングやサラセン人が退くと、地方の領主たちは互いに敵愾心をもやし新規の軍事技術を競い合ったため、無秩序が馬に乗ってヨーロッパ中を駆けめぐり、「強い者は城を築き、弱い者は農奴となった」(ジェームズ・ブライス)』(【大聖堂・製鉄・水車】110P)
しかし、古代から繁栄していた都市 (パリなど)、旧ローマ時代の都市や軍駐屯地の跡を再利用した人口密集地 (代表的な例はロンドンやウィーン)などはともかく、豊かでない地域は金や手間の掛かる城を作る余裕はありませんでした。当然、低コストの城が求められます。
『人口の少ない地方で石造りの建物を建てるのは、無駄遣いというものだった。新しい要塞は木と土でできていた――「土塁と囲い地 (モット・アンド・ベイリー)」様式である。』(【大聖堂・製鉄・水車】83P)
「土塁と囲い地」はその名の通り、自然或いは人工的な丘(土塁)とその麓を空堀と柵で囲った城です。
土塁の上に主塔(天守とも訳される。城主の居住区であり最終防衛線)を築き、囲い地には兵士や使用人及び小作人、彼らの家族、更には武具の修繕を行う職人などの住まいがありました。
堀を掘った時に出る土と近場から確保できる木で作られるシンプルな構造だったので、専門技術は必要なく領民を労役として駆り出すだけで事足りるという、まっこと低コストな城です。
このため短期間での築城が可能で、8日間で完成した事例もあるのだとか。
敵が来襲した際には、囲い地の住人が主塔に逃げ込んで籠城するのが基本でした。
こんな簡単な城で防衛は大丈夫なのかと思われるでしょうが、これでも当時では十分軍事的に有効だったそうです。
実際に急斜面の土手などを見て想像すると分かりやすいのですが、弓矢を射られながら駆け上がらなければならない(しかも四つん這いに近い格好になるので盾を構えるのが難しい)となると、中々に攻め辛い筈。
おまけに柵や城壁(木製)があるので、登り切ってもすぐ中に飛び込めず、柵を壊すか壁を乗り越えようともたもたしている間に槍で突き殺されてしまいます。単純な土盛りでも意外に防御効果は高いのです。
中世、特に中世初期は成熟していない社会制度や経済、兵站事情の関係で大軍を揃えるのが難しく小規模な戦いが主流の時代では、土と木の城でも十分堅固な要塞として機能できたのでした。12世紀まで投石器も使用される事はほとんどなかったですし。
このように手頃でありながら中々に有効な城である「土塁と囲い地」ですが、何よりの特色はそれまでの守備隊が置かれた国の城ではなく“個人の城”だった点にありました。
築城にコストが掛からないから王侯貴族でなくとも、豪族レベルの権力があれば建造できるというわけです。
カロリング朝のフランク王国において、城は国から任じられた将軍の軍指揮所として一族や配下と共に住む場所でしたが、次第に国家の物から世襲で受け継がれる所有物となり、周辺地域を支配する拠点となります。
(国の管理下から離れて、実効支配している領主のものとなってしまう辺りは、日本の武士とも似ている)
旧来の城が軍指揮官から、独立した世襲領主に変化した有力者の物となり支配域を確立していく一方で、新たに力を付けて領主となった者も、「土塁と囲い地」を築く事で防衛及び出撃の拠点とすると同時に、城によって領域内の住民を効果的に支配しました。
城は戦時において住民の避難所として頼りにされ、当然領主も自分達を守ってくれる存在として人々は頼りにします。
また、このような防衛機能による人心支配だけでなく、一段高い場所から支配域を見下ろす城はそこに存在するだけで、否応なく住民に支配者の権威と力を見せつけ、権力者の支配下にあることを自覚させました。
城は軍事施設としてだけでなく、権力者の力の象徴でもあったのです。
ローマ様式を復古させた少数派な石造りの城と多数派を成した「土塁と囲い地」は13世紀まで共存していましたが、西ヨーロッパでは1000年代の11世紀に早くも石造りの主塔が登場し、周囲を囲う柵も石をモルタルで接着した城壁へと変化し始めました。
こういった城は「シェル・キープ」とも呼ばれます。
都市の城壁もそれまで木造が基本でしたが、この頃か少し後には石造りに移行し始めたと思われます。とはいえ石造りの市壁は中世の後半まで一般的ではなかったようですが。
『すべての都市がはじめから堅固な市壁を築いていたわけではない。十一世紀と十二世紀には、土塁を築いてその上に防御柵をめぐらすだけで満足していることが多かった。ベルリンは一二五一年にはまだ、土と木の防御設備しか持たなかった。しかし大都市はすでに十二世紀末以降、市壁をめぐらすことに努めた。中世後期には、小都市をも含めて、それがあたりまえになった。しかし市壁建造が重い財政的負担になった自治体もあったようで、そういうところでは、税金や道路通行料を重くしてその穴を埋めようとした』(【中世への旅 都市と庶民】50P)
※(11~12世紀は、いわゆる源平時代の頃)
しかし、木造から石造りへの移行の初めは、意外にも軍事的理由より別の理由が強かったようです。それでは何なのかというと、象徴的意味が大きいのだとか。
石造りとなると石材は勿論、それを繋ぎ合わせる石灰モルタルが建材として必要になり、大変なコストが掛かります。
更に石工などの専門的技術者も居なければならない上に、モルタルの工程も複雑かつ時間を要するもの。加えて石材の運搬、城壁の建築も骨が折れる大仕事。
当然ながら全体的に膨大な経費と時間が必要でした。
それほど手間の掛かる石造りの城はその分、見る者に領主の権勢をまざまざと見せつけました。
エジプトのピラミッドのように巨大な石造りの建造物は、強大な権力を一眼で理解させるのに打って付けだったのです。
この権威の視覚化を目的とした石造への移行は、日本の古墳とも似ていると感じたのは筆者だけでしょうか?
元々土を盛って作られていた古墳は巨大化すると同時に、やがて大量の埴輪を並べたり表面に石を葺いたりと装飾が施されていきますが、どれも儀式的意味だけでなく権威を強調する意味合いがあったと考えられています。
見た目を洗練させると同時に、建築に掛かったであろう労力を想像させて、それほどの事ができるのだと権威を知らしめる。
その部分は初期の石造りの城と古墳に共通していたのではないでしょうか。
西ヨーロッパでは当初権威付けの意味が大きかった石造りの城ですが、攻城兵器の発展や十字軍によって中東の優れた建築様式がヨーロッパに持ち込まれた事もあって、軍事的にも大きく強化されるようになりました。
城壁の死角を減らすと同時に投石器に対する強度を高めるため城壁や塔が多角的或いは円形になり、侵入してきた敵を分断する落とし格子を備えた門楼やぎざぎざとした胸壁(城壁の天辺に並ぶ歯の様なアレ)、城壁内から射手が攻撃できる狭間といった防衛設備が追加され、城の防御力は飛躍的に向上します。
二重三重の城壁を持つ城(集中式城郭と呼ばれる)が登場するようになったのもこの頃でした。
【大聖堂・製鉄・水車】で12世紀の城の中で最も有名であろうと紹介されている、シリアに建造された(元は現地勢力ミルダース朝の城)聖ヨハネ騎士団の「騎士の砦」は、マムルーク朝のバイバルスの偽手紙作戦に引っかかるまで12回もの攻城戦に耐えたといいます。(偽の手紙に騙された城兵は寛大にも安全に退避する事が許された)
この城の特徴の一つとして城壁上の風車があり、これは守備隊のために穀物を挽く物だったそうです。わざわざ外部で挽かれた小麦粉を運び入れずとも、麦さえあれば自前でまともな食事を用意できるというのは、長期の籠城において城兵の士気に大きく影響した事でしょう。
一方、東ヨーロッパの方では依然土壁や木造城壁がほとんどで、石造りの城壁はハンガリー、ポーランドの西部にある大都市など一部を除いて中々現れませんでした。
バルト地域でもドイツ騎士団などによる“北方十字軍”に伴って煉瓦や石造りの城塞が登場したものの、あくまで外から入ってきた物に過ぎず、東欧の人々が自ら高コストな石造りの城を作ることはほとんどなかったようです。
この状況が変わったのはモンゴル帝国が来襲してからでした。(バトゥの征西。1236~1242年)
中国人やペルシア人などの技術者を雇って強力な攻城兵器を揃えていたモンゴル軍は、大兵力もあって東欧の木造要塞を次々に陥落させていきました。(チェルニゴフ包囲戦のロシア語wikiによるとモンゴル軍の投石器から「投げられた石は、4人の男性によってさえ持ち上げることができず、これらの石は、通常の矢の射程の1.5倍の距離を飛んでいた」とか)
“リャザン包囲戦”(1237年)においては10mにもなる高さの土塁に総長3.5㎞もの木造城壁を持つ都市リャザンが、事前の野戦(ヴォロネジ川の戦い)で兵を消耗していたとはいえ僅か6日間で落とされています。
モンゴル軍に散々な目に合わされたルーシ諸国(現在のロシア及びウクライナ)とハンガリー、ポーランドでは、純粋に軍事的目的によって木造から石造りの城壁へ移行していきました。(ただし全てではなく、スモレンスクのように火薬時代の1500年代になっても木造の市壁のままな都市もあった)
時代が進み封建制の成熟や経済の成長などによって、数千から数万規模(物資を運ぶ人夫など非戦闘員を含む数字)の軍隊を用意できるようになると、攻城戦も激しさを増し、城壁も向上した技術をふんだんに使用してより高く頑丈に築かれるようになります。
しかし、火薬兵器“大砲”によって城壁は大きな変化を迫られていきました。
ヨーロッパでは14世紀にその姿を現した大砲は、当初大して使える兵器ではありませんでした(初期の大砲は石や矢を撃ちだす物で、射程も威力も投石器より遥かに劣る代物だった)が、数十年の間に砲そのものと火薬の改良が進み、投石器と競合するまでに至ります。
まだ石の砲弾を撃ちだす「射石砲」の段階でしたが、砲身と砲弾の巨大化によって投石器を上回る攻撃力を手にした大砲から放たれる強力な一撃は、砲身強度の関係上一日に数発だけというあまりに低い連射力ながらも石の城壁に十分な損害を与えました。
とはいっても、巨大化し過ぎた大砲は碌に使えないことが分かると、鉄製砲弾の誕生もあって、やがては小型軽量化へシフトしていきますが。
“コンスタンティノープルの陥落”(1453年)で有名な巨砲「ウルバン砲」も、装填時間や砲身強度の問題であんまり活躍出来なかったと言われています。
『その中でも最大のものは、「マホメッタ」と名付けられ、四五〇キロの石の砲弾を発射できた。兵士が一〇〇人がかりで操作したという。この大砲の爆発は流産を引き起こすといわれたが、そんな噂も長続きしなかった。「マホメッタ」は戦闘二日目にしてひびが入り、使い物にならなかったからだ』(【大聖堂・製鉄・水車】318P)
中世末期の15世紀になると、ナポリ王位を請求するフランス国王シャルル8世によるイタリア侵攻(第一次イタリア戦争。1494~95年)において、城の設計思想が大きく変化する事態となります。
この戦争はフランスの外交的敗北に終わりましたが、この時シャルル8世は『ヨーロッパがいまだ見たこともない最良の軍隊』(【ヨーロッパ史における戦争】44P)を率いており、その陣容には車輪の付いた砲架(砲身を支える台)を持つ移動式の新型大砲もありました。
地面に据え付ける固定式ばかりだった旧式の大砲と違って比較的軽快に運べる先進的な大砲群は、ナポリ王国の城塞に打撃を与え陥落を大いに助けました。
これをきっかけとしてか、「稜堡式城郭」通称「星形要塞」と呼ばれる新式の城塞がイタリアで誕生します。日本の“五稜郭”も「稜堡式城郭」です。(函館の物があまりにも有名だが、長野県佐久市にもある。ただし藩庁としてであって“要塞”とは言えない)
大砲に対抗するため、城壁の前に壕と土塁を築いて大砲が城壁に近付けないようにしたのを始まりとし、外側へ先端が伸びる堡塁で中心部を囲う新しい形が生まれました。
加えてそれまで高さが重視されていた城壁が、砲撃に耐えられるよう低くかつ分厚くなっていきます。そうして「稜堡式城郭」という新型の要塞が登場し、数世紀の間にヨーロッパ中へ普及しました。
丁度中世が終わる頃にかつてのような城は旧式化してしまい、そのまま廃墟となるか貴人用の牢獄ぐらいにしか使われなくなりました。
近世から城は、安全な場所に築かれた王侯貴族の装飾性の高い住居と化し(一般的な城のイメージはここからきている)、軍事施設としては銃兵と大砲がずらりと並ぶ“要塞”にすっかり取って代わられてしまったのです。
主な参考資料
【大聖堂・製鉄・水車】ジョセフ・ギース、フランシス・ギース
【ヨーロッパ史における戦争】マイケル・ハワード
【図解 中世の生活】池上正太
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