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現実の騎士の姿③【騎士の戦い方 後編】騎士から軍人へ


 騎士は重騎兵として戦場では長い間、騎馬突撃に邁進(まいしん)していましたが、時代が進むとそれ一辺倒では済まなくなっていきました。


 イングランドではウェールズ征服の過程で長弓(ロングボウ)に苦しめられた経験から、よく訓練された長弓隊が揃えられ騎士と共に行動するようになります。

 しかし、スコットランドとの戦争で密集陣形(シルトロン)やゲリラ戦に苦い思いをした経験や、騎兵としての騎士と長弓隊の連携は上手くいかないとの戦訓から、長弓隊の動きに合わせるために騎士が()()()()()ようになりました。


 騎士が重騎兵から重歩兵となったのです。


 元から状況によって騎士が下馬することもありましたが、それは各個人の判断に過ぎませんでした。が、イングランドでは正式な部隊運用として定められたのです。

 長弓(ロングボウ)を放つ射手を下馬騎士が守るという編成は、有名な“クレシーの戦い”(1346年)にてフランス騎士を完膚なきまでに叩きのめしました。地形や陣地の効果も大きかったですが、歩兵が騎馬を完全に打ち負かした好事例と言ってよいでしょう。


 対するフランスも“クレシーの戦い”以降、下馬騎士運用を真剣に検討し、“ポワティエの戦い”(1356年)で下馬騎士を投入する(これは失敗に終わった)など試行錯誤を繰り返します。


 戦場の変化に、最早騎士はただ突撃すれば良いというわけにもいかなくなりました。


 またこの頃になると、コート・オブ・プレートの普及や板金鎧(プレートアーマー)隆盛(りゅうせい)によって、盾の必要性が低下するほど鎧の防御力が向上し始めています。

 するとその防御を打ち破るべく(もしくは鎧に防御を任せて自身は攻撃に全振りするべく)両手武器や鈍器が広く使用されるようになりました。


 かつて高価だった鉄を多く使用することから古くより権威の象徴とされた両手剣は、より実戦的に活用されるべく剣術の体系化が深化していきます。

 よく「ヨーロッパの剣は力任せに振るわれる鈍器として使われた」と言われますがこれは全くの誤解だそうで、実際ヨーロッパ剣術を見ると相手の動きを利用して隙を突くものや組手込みの物が多く、かなり技術的(テクニック)な運用だったと推察できます。

 そして重量のある両手剣は大振りな一撃のイメージが強いですが、実際には相手に反撃の隙を与えぬよう剣の勢いを止めずかつ小さく動き続ける事が基本でした。


 長柄武器(ポールウェポン)は主に歩兵の武器でしたが、騎士が下馬するようになると騎士もこれを多用するようになります。

 この場合は柄の長い戦槌(ウォーハンマー)長柄斧(ポールアックス)である事が多く、こういった武器には大抵鎧に穴を空けるための尖った(くちばし)が付いており、一撃必殺を狙っていたであろうことがビンビンに伝わります。


 鎧でがっちり固めた相手を倒すのに両手武器だけでなく、鎧の隙間に突き刺す短剣も活用されました。


 ミゼリコルドやロンデル・ダガーといった鎧の隙間にねじ込んで攻撃する短剣は古くから存在していましたが、鎧の防御力が上がるに連れてこれら短剣の使用頻度も上がっていきます。

 組み敷いた、或いは倒れた相手の兜の目の隙間や脇などの比較的防御の薄い部分に突き刺して仕留めたり、時には助かる見込みのない重傷者を楽にする「慈悲の一撃」を加える事に使われたようです。(ちなみに日本にも鎧の隙間を突く「鎧通し」という刃の厚い短刀がある。「厚藤四郎」が有名)


 そして、意外に思う方もいると思いますが、斧も騎士の伝統ある武器で、剣より安上がりかつ斬撃と打撃を両立させた武器だとして身分の上下問わず重用され※、中世後期になっても重武装の相手に依然有効だったので使用され続けています。

 (※スコットランド王ロバート1世は“バノックバーンの戦い”における一騎打ちの際、片手斧で相手を倒している)



 英仏百年戦争という大戦争によって騎士の戦い方が改められる中、騎士の戦いへの見方そのものにも変化が起こり始めます。


 騎士の戦いといえば正々堂々正面からというイメージがありますが、これは間違っていません。寧ろ中世盛期においては正解です。


 “マルヒフェルトの戦い”(1278年)で老獪(ろうかい)なルドルフ1世がボヘミア軍相手に伏兵による側面奇襲を行っていますが、当時待ち伏せや奇襲は不名誉なものとされていました。(にも関わらず伏兵を置いたのは、当時の後が全くない彼の状況を思えば、何が何でも勝ちたかったと思われる)

 二万を超える大軍同士の戦いに乱入したこの時の伏兵は、百人足らずの小勢でしかなかったにも関わらず、ボヘミア軍の動揺は激しく壊乱してしまいます。それほど当時の常識から外れていたのです。


 このように正々堂々がセオリーだった状況も、中世後期にはすっかり変わっていきました。(ただし敵の補給線を襲う、寝返り工作を仕掛ける、焦土作戦といった(からめ)め手の戦術も昔から行われています)


 百年戦争の大英雄ベルトラン・デュ・ゲクラン。

 「フランス最高の騎士」にして「鎧を着た豚」、フランス史上最も理想的でなおかつ「レンヌからデュナンまでで最も(おぞ)ましい」と評された騎士です。


 決して裕福とは言えない騎士の家の長男として生まれた彼は、恵まれなかった容姿を理由に美人母から十分に愛されず、それが原因でグレた手の付けられない悪ガキでした。(両親どころか弟や妹、世間に暴力を振るった事も)

 ですが、若いころから既に優れたリーダーシップを持っていたようです。


 馬上槍試合(トーナメント)で実力を父親に認められて態度を改めた後は、領内のやんちゃ少年達と(つる)んだ経験からか、弱者に斟酌(しんしゃく)できるという当時の騎士が理想としつつも中々実践できなかった美徳を備えたといいます。(多くの騎士が弱者に寄り添えなかったのは身分の違い以外に、略奪が騎士の重要な収入源だったことも大きい)


 具体的な一例としては、ブルゴーニュ継承戦争(1341~1365年)において彼の最初の主君である、北フランスの高潔なる貴族シャルル・ド・フロワからの「貧しき民を愛し、その者たちが略奪されたり、不当な扱いを受けたりすることのないように」との言い付けを、()して富が得られずとも忠実に守り続けたことがあります。(※シャルルの高潔な態度は継承問題を有利に進めるイメージ戦略だったかも)

 ……裕福な商人や高位の聖職者などには態度を一変させ、たっぷり(しぼ)り上げたようですが。


 一方で、軍事においては奇襲や夜襲など奇策も(いと)わない傭兵隊長(コンドッティエーレ)のように狡猾(こうかつ)な面もありました。

 ブルターニュ継承戦争で初陣を飾った青年期に至っては、母親の宝飾品1ペニー(ペンス)分を失敬して軍資金とし、イングランド軍の現金輸送兵3人を殺害して奪った金貨20シリング(12ペンスで1シリング)で返済するという強盗紛いの事までしてます。


 フジェレの城を落とした際には、地元民の協力を得て兵に城へ薪を運ぶ農民に変装をさせ(中には婦人姿になってスカートに武器を隠す者までいたという)、城門に入った途端、外に伏せていた騎兵と共に襲い掛かるというゲリラ的戦術を実行しました。

 少数故に城を維持することはできず、すぐに奪還されてしまいましたが、ベルトランの名は周囲に知れ渡り、まだ従騎士に過ぎなかった彼を見込んで任官を希望する()()すらいたとか。


 騎士に叙任(じょにん)されてからも「フランスの大部隊が接近中」とのデマを広げて、居もしないフランス軍への迎撃に向かったイングランド軍(ランカスター公)の空っぽになった陣営を襲って、戦利品を頂くという奇策をやっています。

 しかも奪った相手であるランカスター公に「晩餐(ばんさん)用のワインをいくらか返そうか」と(あお)……伝言を送っています。

 送る方も送る方ですが返信するランカスター公も大概で、なんと「晩餐会でそのワインを一緒に飲もう」とベルトランを招待し、ベルトランもそれに応じてしまいます。


 ここらへんの感覚はまさに中世の騎士といったところでしょう。ただベルトランもずる賢いだけでなく、その晩餐会で開かれた即興馬上槍試合(トーナメント)での決闘に勝利するなど、武の実力も確かでした。


 ベルトラン・デュ・ゲクランは、中世的な名誉を重視する騎士道精神と後のルネサンス期で活躍する傭兵隊長(コンドッティエーレ)らのような合理性を併せ持った過渡期的人物でしたが、このような騎士は彼一人だけではありませんでした。


 【中世ヨーロッパの騎士】ではベルトランの後ろに並ぶ代表として15世紀初頭の騎士サー・ジョン・ファストルフを紹介しています。

 彼の家は本来貴族ではなく中産階級に過ぎませんでしたが、父が地方領主の未亡人と結婚したことで家は下級貴族となり英国王エドワード3世一家の従者となりました。

 このような身分の繰上げは、前例は少なくないものの、身分の固定化が進んだ中世後期において珍しい事ではあったようです。


 また、14世紀後期の騎士であるベルトランを始め15世紀以前の多くの騎士と違って、ファストルフは読み書きが堪能な教養人であり数字にも明るかったそうです。この事は彼の人生に大きな影響を与えました。


 そんなファストルフは従騎士の立場にも関わらず、重騎兵10名と30名の弓兵を率いる部隊長となります。


 かつてなら身分不相応以外の何物でもないことが成り立った背景には、イングランドの「契約書(インデンチュア)」という制度がありました。これはいわば傭兵制度です。


 元来傭兵は自ら売り込みに来た外国人を雇うのが常でしたが、それとは違ってこれはエドワード1世が12世紀後半にウェールズを征服する際に導入した「自国民を傭兵として雇う制度」でした。現代的に言えば“職業軍人化”です。


 中世における封建軍は『しぶしぶ支払われる軍役免除税と、いやいや果たされる軍役』(【中世ヨーロッパの騎士】253P)で成り立っていましたが、インデンチュア制によって給料支払い元である王家に忠実な自国民傭兵が揃えられ、ファストルフの頃には頼りにならない封建軍からすっかり一新されていました。


 ファンタジーでよく見られる「全く封建的ではなく、国に仕え給料を受け取る軍人としての騎士」は、フィクションの存在ではなくここに実在していたのです。といってもインデンチュア制の軍人達はあくまで契約社員と同じく期間限定で、恒常的雇用ではありませんでしたが。

 (よりファンタジーの軍人的騎士に近いのは、インデンチュア式軍隊に対抗する改革の中で創設されたフランスの「勅令隊」。ただし見た目の装備は騎士でもその中身は常雇の傭兵ばかりだった)


 「税としての軍役」(無償の義務)から「仕事としての戦争」(報酬を前提とした雇用)に切り替えていったインデンチュアでしたが、当初は王の直臣(バロン)と口頭で結ばれ、直臣達は軍務の一部を雇った兵に下請けさせました。

 そして下請け先の軍人達の損害は雇い主が補填してくれたそうです。


 戦闘で被害を受けてもしっかり補填してくれるとなれば、軍人達は装備や馬の消耗をなんら気にすることなく勇猛に戦うことができました。(補償無しだと損耗による出費を恐れて真面目に戦わなくなり、損害の補填を保証した途端勇敢になることは、第一回十字軍の騎士でも確認されている)


 その後、補償内容や構成部隊の員数、その地位、任務期間や賃金と報奨などなど細かく書かれた契約書が標準となります。


 ファストルフはそんなインデンチュア制に基づく契約によって従騎士という立場でありながら部隊長となり、1375年の休戦を挟んだ後の百年戦争後半に参加しました。

 彼は緒戦で戦士としても指揮官としても管理者としても尊敬するに値する事を示し、高名な決戦“アジャンクールの戦い”(1415年)において頭角を現します。


 その後も活躍し続けた彼は、1428年10月にフランスの重要拠点オルレアンを包囲する友軍へ「ニシンと四旬節用の食材」(四旬節では肉食が禁じられていたので魚が頼りだった)を届けるべく大規模な輸送隊を率いていましたが、オルレアン北のジャンヴィユ付近で敵勢接近を知り戦闘の用意をします。

 この時、興味深い事にファストルフは荷車に円陣を組ませて即席の砦を作っているのです。


 荷車で急造の防御陣地を作る事は、野営地造営に限っては古代から行われており、実戦においては“カルカ河畔の戦い”(1223年)などで既に見られています。しかし、ヨーロッパの騎士がこのような防御戦術を自ら取ったのは珍しい事でしょう。

 加えて荷車陣地の外側には長槍(パイク)を馬防柵代わりに突き刺していました。これは“アジャンクールの戦い”でも使用された戦術で、騎馬相手に高い効果を発揮したそうです。


 荷車の円陣はフランス軍の小型大砲によって多少の被害が出たものの(砲撃はフランス軍指揮官の待機命令を無視して突撃を開始した部隊のせいで早々に中止された)、迫りくる騎兵隊は長弓隊によって撃退され、逆にファストルフが繰り出した騎馬の反撃で敵軍を完全に粉砕しました。


 砲撃によって積荷のニシンが戦場一帯に散らばった事から“ニシンの戦い”という締まらない名が付けられたこの戦闘は、小競り合いながらもファストルフの名声を高め、包囲下にあったオルレアンの士気を降伏を考慮するまでに下げました。

 一方でかの“ジャンヌ・ダルク”が歴史の表舞台に上がるきっかけともなります。


『「バタール殿、神の名にかけて、ファストルフの到着を耳にしたら、すぐに私に知らせるように。知らないうちにあの男がすり抜けていくようなことがあれば、そなたの首をはねることになると思え」』(【中世ヨーロッパの騎士】267P)とはオルレアン解放を前にジャンヌが叫んだという言葉です。


 ※バタール(フランス貴族ジャン・ド・デュノワのこと。オルレアン公の私生児(バタール)だったため「オルレアンの私生児(バタール・ドルレアン)」と呼ばれた。“ニシンの戦い”では先発部隊を率い、矢を受けて負傷している)


 フランス軍の反撃によりオルレアン包囲戦が失敗に終わって以降、ファストルフはツキに見放されました。

 退却する友軍の救援部隊の一将としてファストルフは戦力の少なさを理由に慎重論を唱えましたが、他の騎士たちからの賛同を全く得られず、その後のパテーでの戦闘でも、前衛の味方と合流しようとした彼の行動が退却の合図と誤解されて前衛が敗走するという不運による失態を演じてしまいます。


 彼はそれ以前の騎士達に比べて多様な戦術を扱う柔軟性がありましたが、一方で旧態依然な騎士から抜けきらなかった部分もありました。


 百年戦争の趨勢(すうせい)がほぼ決したアラスの和約(1435年)後、彼はヘンリー6世の軍事顧問として覚書を提出しました。

 「征服地域の拡大を一時放棄し防御に専念する事」と「焦土作戦」の二つがその覚書の要点でしたが、結局のところ大まかには『伝統的中世の戦争をその一般的な姿において述べたもの』(【中世ヨーロッパの騎士】276P)でしかなく、当時確実に存在感を増しつつあった火薬兵器への理解が明らかに欠けて「攻城戦は人と金、時間の無駄」と誤った主張をしていました。


 イングランドの重視する敵戦力撃滅を目的とした“野戦”が百年戦争後期の戦況に大きな影響を及ぼさず、不慣れながら大砲を使用するフランスの要所奪還を目的とした“攻城戦”に敗北していった事実をファストルフは理解できていなかったのです。



 最後に、指揮官の命令を度々無視するほど誇り高く、武勇を(たっと)び名誉に固執し、略奪に精を出す自分勝手な騎士の認識へメスが入っていった話を。


 14世紀頃オノレ・ボネという聖職者は、イタリアの聖職者レニャーノの論文を下敷きに【戦の木】(和訳に振れがあり、【戦闘の木】ともいう)という軍事論書を執筆しました。この本は15世紀には騎士の間でも広く読まれています。


 これは数世紀に渡る騎士などの「武器を取る者」による不文律を題材に話を進めるもので、「戦争は必ず起きるもの」と認めつつ『「武装兵が女性を(はずかし)め傷付けたり、教会に火を放ったりという(よこしま)な戦い方」によって不正や害悪が生じる』(【大聖堂・製鉄・水車】322P)と説き、「戦争は正しく行われなければならない」と主張しました。

 更に、ボネの生きた時代から400年も前の「神の平和」(民間人や教会を襲うことなどを禁じた教会決議)について何度も言及し、戦争で一般人が襲われることを強く非難しています。


『……貧しい労働者は、すべての戦争で、安全に、平和のうちに放置されるべきなのだ。ところが、最近の戦争の矛先はすべて、貧しい労働者階級の人々とその持ち物や財産に向けられている。それは戦争ではなく、略奪あるいは強盗ではないか。さらに、そうした戦争の戦い方は、崇高な騎士道のしきたりに従うものでもなければ、正義、未亡人、孤児、貧者を守ったいにしえの気高い騎士の慣習に沿うものでもない。』【中世ヨーロッパの騎士】278P


 結局のところ400年前の「神の平和」(及び「神の休戦」)と同じように、彼の主張は現実に敗北しました。(そもそも彼の言う「いにしえの気高い騎士」自体がほぼ理想上の存在でしかなかった)

 しかしながら、それの一構成を成していたもうひとつの主張は騎士達の間でも受け入れられ始めます。

 

 衝動的に行動せず、上官の命令にはちゃんと従うという指揮統制です。


 「命令通りに待機するより、勝手に攻撃して勇気を示す方が称賛を受けている」ことは明らかな事実とした上で、「騎士は命令無しに攻撃してはならない」としたのです。そして上官と部下の関係を認識させ、軍人としての自覚を持たせようとしました。


 騎士が忠義を尽くすべき相手は、まず当然ながら国王、次に自身の領主、そして「国王や領主の代理として自らを指揮する上官」であると定め、彼らの許可なしに一騎討ちなど武勇を示そうと戦列から離れるようなことがあってはならない。

 また自分は武芸試合に臨む遍歴(へんれき)騎士などではなく、雇い主である王や領主の代理として戦い行動する職業軍人として衝動的な行動を(つつし)み、命令に従い、訓練に(いそ)しまなくてはならないのだ、と。


 キリスト教と円卓の騎士的理想を強調しつつも近代的軍隊に必ず求められる規律を教え込む【戦の木】は、個人主義な戦士であった騎士を「軍人」へ変化させる大きな一助だったことでしょう。


 一方でそれは封建的な昔ながらの騎士が姿を消していくことも意味しました。百年戦争は騎士の時代の終わりが目に見えて始まることを告げたのです。


主な参考資料


【中世ヨーロッパの騎士】フランシス・ギース


【大聖堂・製鉄・水車】ジョセフ・ギース、フランシス・ギース


【ヨーロッパ史における戦争】マイケル・ハワード


【用兵思想史入門】田村尚也


【ゲームシナリオのための戦闘・戦略事典: ファンタジーに使える兵科・作戦・お約束110】山北篤


Wikipedia


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