噛み締めるように.
夫視点です。
本当は出勤なんてしたくない。こんな緊急事態だからこそ、俺は妻を守りたい。こんな事を思ってはいけないのは百も承知だけど、それでも一番守りたいのは妻だけだ。
身も心も引き裂かれるようだ。先程までの唇にあった熱を失いたくない、という強い思いを噛み締めながら、涙を拭いつつ走って署へ向かうとまるで戦場のようだった。自分の配属先の交通課でさえ、右から左に怒声が飛んでいる。嫌な予感しかしないが、急いでロッカーに私物を片付けると、妻が作ってくれた弁当を大切に抱えて自分のデスクに座った。
「柿崎、お前遅いぞ。もっと早く来られるだろうが。」
直属の上司である松村課長が、座ったそばから苛立ちを隠さずに言う。腹が立つけど表面上は「すみません。」と謝ると、溜息をつきながら現状を分かる範囲で説明し始めた。
「今のところは、ショッピングモールの近くで感染者が数体出ているらしい。徐々にこの辺にも出てくるだろう。」
そこで一旦言葉を切ると、苛立たしげに加熱式煙草の電源を入れている。ここは禁煙のはずだが、そんな事もどうでもいい程に気が立って仕方がないようだ。
「当たり前だが拳銃が足りない。だから我々は、警棒で対応するしかないのが腹立たしい。ライオットシールドさえ足りないとの事だ。バカバカしい。だったらそれをせしめている刑事課が、全てにおいて対応すべき話だろうが。なあ?」
こんな田舎の警察署には、武器や防具の数が多くないのは当たり前だ。無駄に人数が多いのに足りないから支給されないが、その身で対応せよなど、横暴だというのは確かにその通りである。だから曖昧に頷いて、次の話を促す。すると深く煙を吸い込み、長くゆっくり吐き出してから不満を隠さずに言った。
「この場に避難してきた民間人を保護するのは本来なら難しいが、今回の場合はやむを得ない。だから一旦会議室に待機させ、状況を見てこの近くの避難場所である集会所に連れて行くという流れになる。」
基本的に警察署内に避難場所は無い。だから保護するのは大変だろう。しかしこの100m程先にある集会所になら、確かに状況によっては案内する事も可能かもしれない。
「集会所の警備はどうなっていますか?」
胸ポケットから取り出したメモ帳に書き留めながら、課長に目を向けて質問する。集会所に民間人を連れて行っても、警備が甘いままなら意味が無い。それどころか、犠牲者が大勢出てしまう。
「その辺は刑事課の担当だが、配置されているという事だ。我々交通課の蛇腹式バリケードを取り急ぎ持って行ったのに加え、他にも強度を増すために動いているらしい。」
蛇腹式バリケードは交通規制時に緊急で使用するものであり、あまり期待出来ない。しかし強度なバリケードを作成するための時間稼ぎには使えるだろう。「なるほど。」と言いつつメモを終わらせ、普段身に着けている小型の警棒をデスクに置いてから、課内のロッカーにある大きめの警棒を腰に佩く。対人間にならば威力を発揮する頼もしい武器だが、それが通用しないとなると心もとない。しかし無いよりマシなのは確かである。
「これも着ろ。絶対に寄越せとそれだけは確保してきた。」
吸い終わったらしい加熱式煙草を胸ポケットに仕舞いながら、別のロッカーを指さす。見ると防刃ベストが数着あり、ありがたく着用した。他の同僚たちも同じように装備が完了したタイミングで、署内放送がされた。
『緊急事態につき混乱を極めているが、落ち着いて行動せよ。全員スマートフォンを課内の一箇所に集め、無線機のみを持ち出すように。これは厳令である。』
最後にそう締めくくると、放送は終了した。この状況でスマホを所持出来ないとはありえないだろう。そう思って全員が目だけで訴えるように課長を見ると、苦虫を噛み潰したような顔をしつつも「黙って従え。」と言って鍵付きロッカーを開けた。
全員がしぶしぶ仕舞う中、必死にスマホの壁紙を見る。そこには弾けるような笑顔で抱っこされた愛犬と、それを本当に愛おしそうにしている妻が写っている。何気ない日常のほんの一瞬にすぎない。でもこれこそが、すごく幸せで尊いものなのだと改めて実感させられた。じっと妻の顔を目に焼きつけるために、瞬きも惜しい程に見つめる。もう既に妻に会いたい。会いたくてたまらない。強く抱きしめたい。
「おい柿崎、早くしろ。俺が叱責されるだろうが。」
苛立たしげにそう言われ、つい舌打ちをしながらもロッカーにいれた。課長に睨まれたが知った事ではないと、むしろ睨み返してデスクに戻る。課内全員が休めの姿勢で立つと、ゆったりとした動作でようやく自分のデスクに戻ってきた課長が口を開く。その顔は本当に嫌そうで、不本意極まりないという事があからさまだ。
「これは箝口令がしかれている。当然外部に漏らした者は、厳罰が与えられるからそのつもりで。そしてこれは、警視庁本部におられる警視総監直々に下された絶対命令である。断る事は出来ない事を覚悟しろ。」
もったいぶるように、しかし語気を強めてそこまで言うと、バンッと音を立ててデスクに両手をついた。
「俺達はこの地区の給水場に配置される。そこで水道管理、及び警備する事になった。護送車を一台確保済である。速やかに移動し乗り込むように。質問は受け付けない、俺には分からないからな。ちなみに、外側の警備は自衛隊が配置される。」
全員が呆然と課長を見つめるが、言われた事しか分からないという顔をしている。確かにこれは大変な緊急事態であるが、それにしても我々が配置されるとは何事か。とにかく気になる事だらけだが、無線機を確認すると、妻の弁当を持って裏口からすぐの駐車場に停めてある護送車に乗り込んだ。
海辺にある給水上に向かう道中、思ったよりまだ荒れてはいないようである。交通課は全員で6人だが誰も口を開かず、ただ静かに窓から外を眺めながら、課長の運転する護送車が到着するのを待っていた。もう食べられないかもしれない、そう思いながら、急ぎつつも味わって弁当を食べる。一口一口しっかり噛み締めて、愛しい妻の作る美味しいおかずにじわりと涙が出そうになるが、なんとか我慢して食べきった。
そうして30分程で工場の入口に到着すると、既に自衛隊がバリケードを組んで待機しており、更に見慣れない制服を着た人も数人みられる。我々が整列した事に気付くと代表者が2名、前に出てきた。
「お待ちしておりました。私はここを緊急ではありますが、担当として配属された加藤です。皆さんに勤務していただく前に質問があります。この2日間でシリアルを食べた方は?」
課長を含めた全員がよく分からない質問に戸惑いつつも、俺を含めた2人が手を上げる。すると、「何のシリアルですか?」と更に不思議な質問をされたため、「ドライフルーツ入りのものを今朝食べました。」と答える。そしてもう一人の女性巡査部長が、「朝食に試供品でもらったシリアルを。」と言うと、担当者の加藤が、「あなたはこちらへ。そちら方は、そのまま勤務していただいて構いません。」そう言って女性巡査部長をどこかへ連れて行く。どういう事かともう一人の職員へ目を向けると、鋭く睨みつけられた。これは答えてもらえないという事だろう。
「では、こちらへお願いします。皆さんの業務は給水が問題なく行われるように、交代で管理して下さい。食料はこちらで配給します。」
そう言うと、自己紹介も無しに説明して誘導してくる。とりあえず休憩室と仮眠室、それからトイレやシャワー室を案内され、最後にモニターのある仕事部屋へ来ると、そのまま再度休憩室へ連れて行った。
「他のライフライン施設には、別の署や消防隊員等が配置されて管理しています。緊急事態ですから、民間の方々にせめてもの生活を送ってもらうための処置です。」
鋭い目付きをそのままに説明だけして、「あとは皆さんで当番を決めて下さい。基本的に24時間勤務です。絶対に施設から出ないように。安全が保証されていませんので。」と言って出ていった。
とにかく分からない、の一言に尽きる。緊急事態だからという事はよく分かるが、だからと言ってもともとの職員ではないなんて。それに、いつまでここでの勤務が続くのか分からないのが一番つらい事だと思った。
「とりあえず2人と3人にわけるか。あいつが戻ったら2組とも3人体制にしよう。」
戸惑いは残しつつも課長が組み分けをし、俺は数年先輩の西野と2人組になった。どちらかと言えば堅物の彼は、仕事面において信頼が置けるのでとりあえず安心して業務につけそうである。課長は権力を使って3人組に入ったが、仕事はしないだろうから同じ組でなくて良かったと思う。
こうしてこれから始まる長い長い、妻に連絡する事も、もちろん会う事も出来ない、ただ管理するだけの日々が幕を開けたのだった。
仕事内容等については、フワッとしています。




