出立。
あれから数日だった。表向きはいつも通りに生活が出来ているため、毎日変わらず愛犬と過ごせる事が本当に奇跡である。
だけど時折、電子音が脳内を支配しようとする事があり、その度に強い頭痛が襲ってくる。この痛みのせいで負けそうになる時が何度もあるが、心配そうな愛犬の顔と、そして夫の顔を思い浮かべて必死に抵抗して耐え続けていた。
今日も何度目かの激痛と電子音に打ち勝ち、痛みのせいで流れた生理的な涙を拭きながら、心配そうにしている愛犬を抱っこして「お母さんは大丈夫よ、絶対に負けないからね。」そう言うと、魅惑の香りの後頭部を満足するまで吸わせてもらった。
そんな時に耳を劈くような悲鳴が聞こえ、慌てて愛犬をケージに入れると、メインウェポンを握り窓に近寄ってカーテンの隙間から外を見た。そこには逃げる40代ぐらいの女性と、それを追う男性の感染者がおり、今にも追いつかれる、という絶体絶命の状況だった。
「ああ…!どうしよう…!!助けられないよ!!」
思わず目を逸らし、ギュッとメインウェポンを胸に抱えながらしゃがんだ時。突然心臓が強くドクンと音を立てた。それは徐々に早くなり、まるで全力で100m走った後のようだ、いやそれ以上の強さに感じる。そうして同時に、脳内に浮かんだ言葉は。これは。
《自害せよ。》
迷ったのは一瞬。立ち上がって外の感染者を目で捉えると、そのまま声に出した。するとチラリとこちらを見てからすぐに自分で頭を抱えると、躊躇うことなく頭を破壊したではないか。
それを呆然と窓から見ていた。追われていた女性が逃げ切ったかどうか、それも分からない。しかし今目の前で起こった事が、とんでもなく恐ろしくて震え始める。心臓は鳴りを潜めて通常の鼓動を刻んでいるが、頭は鈍い痛みがしていた。
ーー私がやったのか?私がやったんだよね?え、なんで、どうして?
一旦落ち着いた心臓が再び暴れ出す。しかし先程のとは違い、緊張や不安からのものであると分かる。胸を押さえながら、フラフラとケージに向かい、心配そうにソワソワしていた愛犬を居間に出す。とてもじゃないが今は抱っこが出来そうになく、頭を撫でちらかしてから座椅子に腰を下ろした。
大変な事になったかもしれない。まだハッキリと分かっていないが、これはもしや、よくあるゾンビゲームの中でゾンビを操るゾンビ、ブレインのようなものではないのか。
「…いや、まだ確定じゃない。」
そう呟きながらも、テーブルの隅のバインダーを取り、ルーズリーフにブレインの可能性を記入した。もしそうだとするならば、そうであるとするならば。私はこの近所だけでも、感染者を排除出来るかもしれない。夫に会いに行けるかもしれない。そう思うと今すぐにでも走り出したくなる。
しかしすぐに、自分の見た目も感染者である事を考えると、討たれる可能性の方が高いと気付く。それはすごく、悲しいなと目を伏せた。私が感染したら、夫に討たれたいと思っていたけど、それは同時に殺させるという事である。夫自身に、私を。
もしそうなったら、きっと彼は壊れてしまう。正義のためとはいえ、心底愛してくれている私を殺すのは、彼にとっては世界が壊れるのと同じ。そんな思いはさせたくない。彼には今後も、ずっと笑っていて欲しい。私は夫の笑顔が大好きなのだから。
それ以来、シリアルがヘリコプターで配られてから、やはり爆増していた感染者を対象に、家から見える範囲だけでも自らを破壊させていく。そうして数をこなしているうちに、自害ではなく、その場に完全停止させる事にも成功していた。
これはなんと良い事か。いくら感染者とはいえ、やはり自害させるのはすごく嫌だったのである。それが完全停止で済むならば、少しは胸が救われる思いがした。このまま頑張れば、もしかして人間への敵対心を排除する事も可能なのではないか。そんな光明が差した気がするのだ。
この能力について分かったのは、意外にも多くの感染者を同時に操作出来るという事である。最初は1人だけだっのだが、徐々に数を増やし、今では8人程を同時に完全停止させるられるようになった。そうしてその場に留まらせるのは困るため、この近所にある公園に集めさせており、そこまで動かす事も可能になったのである。
こうしてこの近所に爆増していた感染者は、目に見える範囲だけでも排除出来たのだ。だからと言って食料問題は解決していないし、もしかしたらこのまま、私もごまちゃんも、いずれは飢え死にしてしまうかもしれない。
どうにかしないとと思いつつ、愛犬を抱いて布団に潜り込み、夫へ『今日も一応無事でした。』と送ると、お祈りをして目を閉じる。最終的にはこの能力を駆使して、なんとか食料を探しに出るしかないだろうな。どこに行こうか、目立たないようにするには、など考えていたら外から話し声が聞こえてきた。
愛犬をケージに入れると、メインウェポンを握り窓に寄ってカーテンの隙間から外を見る。するとそこには、熊のようなものがいた。久しぶりに見たそれらは3人で固まっており、ボソボソと何か会話をしている。もしかしたら、感染者が公園に纏まって完全停止している事に気付いたのかもしれない。
妙な不安が駆け巡る中、ひっそりと観察していると、そのうちの1人がどこかに電話を掛け始めた。こんな所でスマホを操作したら正体が見抜かれそうだと思うものだが、緊急事態と判断されたのだろうか。そうして通話が終了したらしいそれらは、そのまま固まって闇に消えていった。
それから数分程様子を見ていたが、とりあえず何事も無さそうなのでケージの愛犬を抱っこして、再び布団に潜って今度こそ目を閉じて眠りについた。
それから更に数日後に小型のドローンがいくつもこの近所を飛び回り、頭痛を誘発する音波のようなものを放ち続ける。あまりのやかましさと激しい頭痛に、つい《爆ぜろ》と力を使って声に出すと、近くにいたドローン数台が破裂して壊れた。
見た感じ愛犬には影響が無いようだが、とんでもない頭痛だったために壊してしまった。もっと慎重に行動すれば良かったと思っても後の祭りであり、何事も無い事を願うしかない。
しかしそんな風に何事も無いなんて事は、ありえなかったのである。それは翌日に、また新しいドローンが確実に我が家の窓の前に飛んできた時。ああ、私はまた選択を間違ったのだなと思った。そのドローンから聞こえる電子音。それはもはや、私の存在を見つけられたも同然であり、これを断る事は不可能であると悟った。
《来い。お前を求めていた。やっと見つけた完全適合者。来い。来い。》
けんちゃんごめんね。私はやっぱり、あなたにつらい思いをさせるみたいだ。
思わずこぼれた涙をそのままに、髪をポニーテールにするとお気に入りの黒いキャップを被る。今あるだけのドライフルーツ入りのシリアルと少しの食料、机の隅のバインダー、そしてペットボトルの水を数本と、救急セットやタオルを大きめのリュックに入れて背負う。そうしてごまちゃんにハーネスを付けて、愛犬用の抱っこ紐にメインウェポンと一緒にスッポリ収めると、夫にメッセージを送った。
『けんちゃん、ごめんね。大好きだよ。ごまちゃんを頼むね。今からあなたに会いに行きます。』
きっと、読んでくれますように。私の思いが、あなたに届きますように。
そしてしっかり玄関に鍵を掛けるとリュックのポーチの中に仕舞って、ごまちゃんを大切に抱え直しながら歩き出した。夫の待つ、警察署へと。




