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11.終止符

「珪己……」


 仁威もまた珪己と同様の想いを抱いていた。


 幾多の出来事を乗り越えてようやく会うことができた……と。


 仁威は床に膝をつくと、珪己の首の後ろに手を入れ、ゆっくりと体を起こしていった。


「遅くなってすまなかった」


 まっすぐに見つめてくる仁威の瞳には、共に暮らしていた頃と同じように深い慈愛の色が映っていた。背中に感じる武骨な指の硬さも、声の色も響きもあの頃のままだった。


「大丈夫か?」


 そうやってすぐ私のことを案じてくれるのもあの頃とまったく同じだ――そう思ったら。


 うつろにも見えた珪己の顔がくしゃっと歪んだ。


「私のこと、もう護ろうとしなくてもいいんですよ……?」


 本当はこんなことを言いたかったわけではない。


 本当は――仁威に再会できたらすべてを正直に打ち明けようと、そう珪己は思っていた。


 皇帝・趙英龍とのこと。妊娠のこと。軽蔑されてもいいから、拒絶されてもいいからすべて伝えよう、そう思っていたのだ。自分一人で抱えきれないほどのこの想い、生まれて初めて抱いた恋心とともに――。


 けれど先ほどの闘いを目の当たりにして、もう自分のことについては何も言えない、そう珪己は思ったのである。


 息を飲んだ仁威に珪己は涙目で訴えた。


「どうしてここにいるんですか。どうしてここに来たんですか。もう八年前のことで罪の意識を持たなくていいって、そう言ったじゃないですか」


 何か言いかけた仁威を、珪己はその襟を引き寄せることで黙らせた。


「あなたのその罪は罪じゃないんです……!」


 襟を掴む珪己の手が小刻みに震えだした。


 予想外の仁威との再会に、珪己は驚いた。だがそれと同じくらい歓喜した。嬉しくて、嬉しくてたまらなかった。……自分の置かれた状況を一瞬忘れてしまうほどに。


 けれど仁威の行動の源に思いが至った瞬間――二度と顔を上げられないほどの申し訳なさを珪己は抱いたのだった。


「あなたはどこでどう生きたっていいんですよ?」


 その感情が今、怒りに転じている。


「なのにどうして! どうしてこの街に戻ってきたんですか……!」


 戻ってきてほしいと願っていたけれど――本当は戻ってきてはいけない人だったから。


 この街にいたら――。

 一緒にいたら――。


『この人は必ず私を護ってしまう』


 それは先程、如実に証明されてしまった――。


 しかし、それでは仁威は幸せにはなれない。


 生涯消えない罪人の烙印をあらためて背負わせてしまうだけなのである。


「私はあなたがいなくても大丈夫です。あなたに護られなくても平気です……!」


 目立つ行動をとってはいけないのはお互い様なのだから。


 そして闘いの場で常に勝利を勝ち取れるとは限らないことは――疑いようのない真理だから。


『自分と共にいることでこの人を危険にさらすことになるのは――嫌だ』


 導き出してしまった結論が、珪己を激情のままに言い募らせていった。


「だからあなたはここに戻ってくる必要はなかったんです。いいえ、ここにいたらいけないんです。今すぐこの街から離れてください! そして……!」


 ぐっと、唇を噛んだ。


「そしてもう二度とこの街には戻ってこないでください……!」


 吐き出した言葉の強さに翻弄され、珪己の息はすっかりあがっている。


 するとずっと黙って話を聞いていた仁威が口を開いた。


「いいや。俺はもうどこにも行かない」

「ど、どうして……」

「俺がそうしたいからだ。俺はお前とともにいる。そう決めている」


 頑なな仁威に、珪己は襟を握る手に力を込めた。


「だからっ! だからそれはもういいって言ったじゃないですかっ……! そういうのはもういらないんです!」


 これに対する仁威の言葉もひどく落ち着いたものだった。


「お前は強いよ。十分強い」


 それでも俺がお前を護りたいんだ、と仁威がつづけた。


「ど、して……? どうしてそこまで……」


 想いの伝わらない悔しさで珪己の目に新たな涙がにじんだ。


「そんなに……。そんなに八年前のことがくさびになってしまっているんですか……?」


 言いながら、珪己は果てのない絶望に追い込まれていった。


 だったら――もう私は生きていない方がいいんじゃないか、と。この大切な人に贖罪のための人生を強要するくらいなら、もう死んでしまった方がいいんじゃないか――と。


 そう珪己が思い至ったところで、仁威の手が珪己の頬に触れてきた。


 さっきから目をそらすことなく珪己の話を聞いていた仁威だったが、さらに顔を近づけることで、視線の奥にあるもの――心と心で語り合おうとしたのだ。


 自分の本心と珪己の本心と――嘘偽りのない心同士で繋がろうとしている。


「会いたかったんだ」

「え……?」

「俺はお前に会いたくて戻って来たんだ」


 言葉が真っすぐに響いてくるのはどうしてだろう――。


 ぼんやりとした頭で、見つめ合いながら、珪己はそんなことを思った。


 今、この人の言葉が、想いが、不思議なほどに心に伝わってくるのはなぜだろう――。


「晃飛に聞いた。お前の身に起こったことのすべてを」


 本当は拒んだ方がいいのだろう。


 けれど、どうしても目がそらせない――。


「だが聞く前も聞いた今も、俺の気持ちは変わらない」

「あ……」

「俺はお前を愛している」


 もう何の説明もいらなかった。


 仁威の言葉には何一つ偽りはない――それが分かったから。


 こみあげてくる何かが珪己の言葉を奪った。


 鼻の奥がつんと熱くなっていく。


「……ううっ」


 きつくかんだ唇を時折震わせていた珪己だったが、とうとうこらえきれずに嗚咽した。もう我慢の限界だったのだ。そしてそれはすぐに号泣へと変わった。


「う、うわああああ! わ、私、私……! うわああああ……!」


 突然子供のように泣きじゃくり始めた珪己を、仁威は黙ってそっと胸に引き寄せた。


 温かな胸の中に抱かれ、珪己の鼻が懐かしい匂いをとらえた。むっとした草いきれのような匂い、だがそれは爽やかな初夏の草原のようでもあり……。


 ずっとこの匂いと共にいたのだ――。


 そう思ったら感極まり、珪己は一層大きな声をあげて泣いた。


「うわあああ! ずっと会いたかったんです! 寂しかったんです! いなくなってしまったことが辛くて、つ、辛くて……! ほんとは子供を産むのだって、ここに来るのだって怖くてたまらなかった! ぜんぶぜんぶ、こ、怖くて、怖くてたまらなかった……!」

「もう大丈夫だ」


 その一言がとてもうれしくて――。


「これからは俺がずっとお前のそばにいる」


 柔らかな動作で頭をなでてもらえたことがうれしくて――。


「でも絶対に言えなくて……!」


 泣き濡れた顔を仁威の胸にこすりつけながら、珪己は思いの丈を語っていた。


「言ったら弱いだけの私になっちゃうから……! それだけは駄目だから……!」


 強くあること――それは珪己にとって生死に等しい重要なことなのである。八年前のあの夏の日からきっと死ぬまで続く、永遠の呪縛ともいえよう。


 なぜそれほどまでに強さに固執するのか。珪己の過去を知るがゆえに、仁威はもどかしい思いを抱きながら言葉をつむいだ。


「弱くはない。お前は強い」

「だからそんなことないです……! わ、わたし……! 私、強くなんてない……! 自分が弱いことは自分が一番知っているんです……!」

「いいや」


 胸のうちでかぶりを振る珪己の背に、仁威がたしなめるように少し力をこめた。


「いいか、何度だって言ってやる。お前は強い」

「う……うう……」


 もしも本当にそうならば――その言葉を信じていいのなら。


「そして、『そう思える』ということがお前を強くするんだ」

「う、ううう……!」


 もう――何も言えなかった。


 嬉しさと、驚きと、それから――ああ、なんて言ったらいいのだろう。簡単に言葉にできない強い想いに、珪己はただ身を震わせることしかできずにいる。仁威の言葉は羅針盤のごとく、さまよう珪己の道を煌々と照らしたのだ。頑なだった荒ぶる心も不思議なほど柔らかくほどけていく。


「だがな」


 と、少し言葉を選ぶように仁威が続けた。


「いつも強く在る必要はないんだ。誰しも強いままではいられないのだから」

「……え?」


 その言葉はこれまでの仁威では考えられないもので、珪己は思わず涙に濡れた顔を上げていた。


 仁威の澄んだ双眸が珪己をひたと見つめた。


「人は独りでは生きていけないんだ」

「仁威、さん……?」

「そういう弱い存在だということを俺はようやく知った。人は人の中でしか生きられないということを。支え合い、『生かされる』ことで『生きられる』のだということを。だからお前も俺の前では無理をするな。俺はお前にとってそういう存在になりたいんだ。……そしてお前の存在が俺に己の弱さを認めさせてくれる。それが俺の生きる力になる。そんな女はお前しかいない。珪己……お前ただ一人だ」


 熱く語る仁威の目には、いつからだろう、涙が光っている。


 まつ毛にかかる水滴のきらめきに、珪己はそっと手を伸ばしていた。


 その手が仁威の頬に触れ、清らかな涙をぬぐい――。


「仁威さんっ……!」


 珪己は仁威の首に腕を絡めて抱きついた。


 その瞬間、珪己の半年にわたる孤独に、そして仁威の半年にわたる放浪の旅に終止符が打たれた。――いや、仁威にとってはこの八年以上に及ぶ孤独な日々に終止符が打たれたのだった。


 袖からのぞく珪己の素肌が首筋に触れ、熱が伝わり――押しつけられた体から自分への信頼と愛を感じ取り――預けられた体重こそが自分をこの世につなぐ唯一の存在であることを強く実感し――。


「もう二度と離れないでっ……」


 愛する女の心からの叫びが胸に響き――。


 瞳を閉じた仁威のまなじりから、つうっと涙が伝った。


「珪己……!」


 たまらず、仁威は珪己を抱きしめ返した。


「仁威さん……っ」

「珪己……!」


 もう泣くことも抱きしめ合うことも我慢しなくていい――。


 その事実一つでも永遠に涙することができるほどに、二人は熱い感動のままにお互いを抱きしめつづけた。


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