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2.混乱の極み

 朝一番での脅しは非常に効果があったようだ。


 彼らは昼過ぎには一人の若者を毛の前に連れてきた。


「くそっ! 離せ! 離せよっ……!」


 身じろぎして暴れる若者の胴体には縄が巻かれている。この街の武官であれば誰もが常に携帯している捕縛用の縄だ。


 だが。


「俺は何も悪いことはしてないっ! 法にも背いていないっ!」


 先程から若者は自分には非は一切ないと訴えている。


 だがそんな理屈は十番隊には通じない。問答無用で頬をひっぱたく。そのたった一発で若者の頬が濃く赤く色づいた。


 あれから彼らは現場に戻り、猿もどきの女について聞き込みを行った。しかし誰もが曖昧なことしか言わなかった。自分達がこの街の人間に毛嫌いされていることは承知していたが、これに三人はいら立ち、焦った。かといって人の目がつくところでの一方的な暴力沙汰は禁止されているから――子供を攫うとか女を犯すとかいった、明らかな不法行為はわざわざ明文化して禁止されていないのをいいことにやりたい放題だが――八方ふさがりに陥った。


 そんな時、だ。


 話の最中にとある蕎麦屋の店主の視線が彼らの背後に移ったのは。


「あ、あれはあの時あの女の人と一緒にいた……」


 はっとして、慌てて口をつぐんでも、もう遅い。


 かくや三人組は猿女に繋がる糸口を無事発見したのだった。


 そしてここ鯰池楼に連れて来れば、あとは力づくで口を割らせることができるというわけだ。屯所内では禁止されている様々な手段を用いて、一気に片を付ける気である。


 殴られて床に伏した若者を、男の一人が襟を掴んで引き寄せた。


「お前、名はなんていうんだ」


 答えない若者をもう一発殴りつける。


「さっさと言え! お前と一緒にいたあの女はどこだ!?」


 自分達が受けた痛み、恥辱を返すかのように頬を幾度も張っていく。その都度、ばしん、ばしんと音が鳴り、若者の頬がいっそう赤みを帯びていった。


 だが若者は一向に口を割ろうとしなかった。それどころか、唇をきつく結び三人のことを睨みつけてきた。その無言の抵抗こそが若者の――氾空也の覚悟だったのである。





 空也は兄の推察どおり、自らの力で立ち直ろうとし始めていた。


 朝、宿で目が覚めた瞬間から、空也は一人でこの難題に取り組み始めた。そしてしばらく考えた末に、ここにいては駄目だ、まずは昨日の出来事をつぶさに思い出し整理し直そうと決めた。だが、荒療治とも思える目的のために現場にたどり着いたところで――この三人組に捕らえられてしまったのである。


 殴られ続ける空也は、今、一つの覚悟を決めていた。


(武器を取ることが怖くても、これなら俺にだって……!)

(武器を握らなくても俺は『これ』でなら闘える……!)


 そう、空也は『闘うこと』と『逃げないこと』を決めたのだった。


 ここに連れてこられる途中で耳にした彼らの会話から、夜までに珪己を毛の下に連れていかないとこの三人の身が危ないらしい。であればこの状況に耐えるのは半日だけのことで済むだろう。最悪、これがきっかけで重傷を負ったり命を落としたとしても――それはそれで仕方ない。そう割り切るまでに至っていた。


 だがそれは『自分自身』を諦めたがゆえの結論ではなかった。自分自身を救うために『これ』で闘おうと決めただけのことだった。


 あの少女がここへ連れてこられたら命の補償はないだろう。腹の子の命だって危険にさらすことになりかねない。そのようなことになれば、晃飛も、少女が再会を願っている男も悲しむに決まっている。しかし自分は独り身だ。自分の身になにかあれば遠く地元に住む家族は悲しむだろうが、武官という職に就くときにある程度は覚悟していたはずで……。


 ただ、兄・空斗のことだけは心残りだった。


 兄に対して思いが動いた時だけ、空也の表情が苦し気なものになった。


 部下による残虐な行為を無言で眺めていた毛だったが、すぐに飽きて気だるげなあくびをしながら立ち上がった。


「その調子でやっておけよ。だが成果が出なかったら……分かってるだろうな」


 最後にしっかり脅しをかけてから、毛はその巨体を揺らしつつ自室へと戻っていった。今日はこのまま屯所には出向かず、昼寝と決め込むつもりなのだ。




 それからも三人は空也を責めつづけた。


 ばしん、ばしんと休むことなく頬を張る。


 打たれるたびに頭蓋骨の中で脳が揺さぶられ、空也は次第に吐き気と眩暈を覚えていった。口の中が切れて血の味が広がっているのも吐き気を助長して――辛い。


 瓦のような分厚い手で思いきり打たれるたびに首の筋がきんと痛んだ。頬はすでに痛みを通り越して感覚が麻痺してしまっている。縄で縛られたままの体も、後ろ手にきつく巻かれていて感覚が少しずつおかしくなってきていた。


「おらっ! さっさと言うんだ!」


 ばしん――。


 くらくらとし、一瞬意識を手放しかける。


 それでも空也は黙秘を貫いた。



 *



 昼餉の時間も終え、夕餉の支度まで済ませてから、空斗は一人家を出た。


 昨日の一件の現場である市に寄って、その足でまた空也の様子を見に杜々屋へ行こうと思ったのだ。


 外に出れば吐く息が若干白く、空斗は外套を思わず着こみ直した。昨日から今日の午前にかけては随分天気がよかったが、また冬に逆戻りしたかのような天候になってしまっている。


 これは今日は無理して連れて帰らない方がいいかもしれない――そんなことを思いながら曇天の下を少し歩いたところで、空斗は気色ばんだ双然によって進路を阻まれた。


 昨夜も似たようなことがあったな、と嘆息しつつ、


「応様?」


 どうかしたのですか、そう空斗が問いかけるよりも先に。


「お前の弟が十番隊にさらわれたぞ……!」


 きっとここまで駆けてきたばかりなのだろう、冬だというのに額から汗を幾筋もしたたり落としながら双然が告げてきた。


「……なんですって? それはどういうことですかっ?」

「どうもこうもしない。今度も報復のためだろう」


 報復――このような不吉な言葉をなぜ俺は何度も耳にするはめになっているのだろう。そんなどうでもいい方向に意識が働きかけ、空斗は急いで正しい方向へと考えを巡らせていった。


「それは……つまり?」

「ああ。あの女のことを毛が探している」


 昨日、確かに空也は珪己と共に出歩いていたし、争いの現場にも共にいた。だからいつかはこういう時が来てもおかしくはなかった。だがそれにしても早すぎやしないか。


「お前の弟はあの女を釣るための餌だよ」


 まだ事態をうまく飲み込めていない空斗に対し、双然が冷静に物騒な発言を続けていく。だがそれは無駄に恐怖をあおるためではなく、他人に語ることで事の次第を整理したいからだった。そう、双然もまたここまで早い展開を予想していなかったのである。


「毛が住み着いている鯰池楼という酒楼があるんだけどね、お前の弟がそこに連れ込まれたところまではこの目で確認している。きっと今頃、拷問を受けているよ」

「拷問っ⁈」

「いや、すまない。尋問だ」


 だがあの十番隊のやり方からして、その行為は拷問とたとえた方がより正確であることは空斗にも想像がついた。


 双然が拷問と述べてしまったのは、五番隊の面々が常々そう言っているからだ。つまり、十番隊の行為は屯所内で暗黙の了解なのである。その酒楼、店名のとおり鯰や川魚が豊富に採れる池のほとりに建てられているのだが、水底には幾人もの人間がおもりをつけて沈められているともっぱらの噂だった。


「あいつら、あの女の素性と居場所を突き止めようと必死なようだった。毛はこういった恥をよしとしない男だから、相当きつく叱咤されているんだろう。……しかし、あの女の後方で地面にうずくまって震えていただけの奴にまで目をつけるとはね。お前の弟は運が悪い」


 十番隊の捜査能力や技術はそこまで高いはずもないのに、と双然が対抗意識も交えながら憎々し気に舌打ちをしたところで、


「そんな言葉であいつの未来を語らないでください……!」


 強い口調で空斗がたしなめた。


 が、一転、乞うような視線を双然へと向ける。


「……どうすればいいんですか。どうすればあいつを救えるんですか。お願いします、あいつを助けてください。あなたならそれができるはずだ……!」


 腰の高さまで深く頭を下げた空斗は、ややあって頭上で小さなため息を聞いた。


「……すまないが僕には無理だ」

「どうしてですか!?」

「僕はただの監察御史だよ。つまりは一兵卒に過ぎない」


 実際、監察御史である双然は部下の一人すら有していなかった。


 双然の直属の上司である殿中でんちゅう侍御史じぎょしとて自由に使える部下は一人もおらず、いわゆるただの管理職、ただの調整役でしかないのだ。


 御史台の任務は個人の力量、采配に委ねられることが多く、抱える秘密も個々によって異なり――それゆえの組織構成なのである。


 だが、たとえば侍御史の習凱健であればこの非常事態に対して動くことも可能かもしれない。彼が双然を自分の補助に用いているのも、つまりはそういうことなのである。だが、あいにく彼は開陽に出向いており不在だ。


「それに御史台は皇帝陛下の御命令に従っているだけで、この街の悪事にいちいち関わるような存在ではないからねえ」


 息が整ってくればくるほど、いつものまったりとした語り口調になっていく双然のことが、こういう時だからこそ空斗は憎らしく感じた。


「だったらどうして昨夜は!」

「昨夜?」

「あなたは悪人の肉を裁ちたいと言ったじゃないか……!」

「しっ。声が大きい」


 双然は空斗の肩を抱くと、あたりを伺いながら家屋の並ぶ道から裏の方へと強引に誘った。ここは昨日珪己が通った裏道で、つまりは水路が敷かれている領域だ。


 両家の境である竹垣に挟まれた狭い場所で、羽目板の下、冷たい水がさらさらと流れていく気配は、この場の気温を表よりも低く感じさせた。


 陽の光があまりささない場所に入ると、半身に陰をまとった双然から昨夜の剣呑な雰囲気が漂い出した……そのように空斗には感じられた。


「正直に言おうか」


 空斗の肩を抱いたまま、常になく低い声で、ささやくように双然が語り出した。


「確かに僕はその機会を待ち望んでいるよ。御史台に所属して以来、ずっとね」

「だったら……!」

「だけど自分の身元がばれるような行動はとりたくないんだ。利は一つもないからね。少なくとも今はまだ明るいし、となると僕に今すぐにできることは実際何もないんだよ」


 夜分ならば救出のための行動を起こすことができる、そう双然は暗に述べている。今すぐには無理だが夜ならば……と。多勢相手の場合は策を練る必要があるが、その策を練り準備することも自分にはできるとも述べている。


 しかし気の逸る空斗にはそこまで読み取ることはできなかった。


 なぜなら空は重い灰色の雲に覆われつくしていて、ここも全然明るくなくて、空也はこうして話している間にも痛い思いをしているわけで……。焦りばかりが募ってしまうのもどうしようもない状況だった。


「じゃあ俺の弟は! 空也はどうなるんですか!?」

「……耐えてもらうしかない、な」


 救出できる状態が整うまで――もしくは毛が飽きるまで。


 もしくは命尽きることで永遠の平穏を得られるまで。


 だったらなぜ俺に知らせに来たんですか、そう言いかけた空斗はその言葉をとっさに飲み込んだ。あくまで他力本願な自分の愚かさ、醜さに気づいたからだ。


 硬い表情となった空斗の肩から、「とにかく」と双然が密着していた体を離した。


「僕の方でもできる限りのことをするつもりだ。その時にはお前も来るだろう?」

「はい」


 当然、迷いはない。


 これに双然が満足気にうなずいた。


「では準備ができるまで家で待っていろ。ウグイスの鳴き声が聴こえたら外に出て来るんだ。いいね」


 唇に指を添え軽く鳴きまねをしてみせて、双然が早足で去っていった。

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