1.恐ろしい詮議
よく寝たからだろうか、あんなことをしでかした翌日だというのに、珪己は朝から旺盛な食欲をみせていた。最近は体重が増えすぎないようにと気をつけていたはずが、腹八分目という概念を忘れたかのように、空斗が用意したものをがつがつと胃の腑へおさめていく。
休みなく箸と口を動かす珪己は、晃飛とも空斗とも会話をしようとしない。いや、話をしない理由は他にもあって、それは男二人にも分かっていた。
しばらくして晃飛が降参した。
「ごめん。夜逃げはしない。だからそんなふうに怒らないでくれない?」
ため息をつき眉を下げる様を、珪己は口につけた汁椀ごしに確認する。
むぐ、と口の中のものを飲み込んで、一言。
「……本当ですか?」
その言い方にも、じとっとした目つきにも、晃飛を責める色合いが多分に含まれていて、これに晃飛はもう一度ため息をついた。今度は大げさに。
「本当だって。夜逃げはしない。俺自身に誓うよ」
「なんですかそれ」
「俺が今一番信じているのは俺自身だから。俺に誓うってのはそういうこと」
何がそういうことなんだと思わないでもなかったが、ひどく真面目くさった表情を見れば、晃飛なりに精一杯の誠実さを示そうとしていることは伝わってきて――。
「……分かりました」
しぶしぶながらも珪己がうなずいたことで、このにわか兄妹のけんかはようやく終止符を打たれた。
それを確認し、空斗が席を立った。
「じゃあ俺はこれを片付けたら環屋に行ってくる」
「え? もう行くんですか?」
こんな朝早くに、と思った珪己だったが、「そうしてくれ」と晃飛の方は納得顔になっている。
「あの店の女ども、もう半刻もすると湯場に出かけてしまうんだ。だから早い方がいい」
「だろうな」
つづけて、やや不可思議な顔をしている珪己に空斗が説明した。
「こういうところの妓女はそういうものなんだよ」
空斗の地元はここ零央よりも田舎だったが、妓女が朝から湯場にでかける光景は日常のものだった。
朝特有の爽涼な陽光の下、艶っぽい女の集団が行き交う時間帯は男ならずとも目を吸い寄せられ、少年といえる者たちは青い欲の矛先をその集団に向けて束の間夢想してみるものだったのである。
だが成人ともなれば、ただの日常、ただの一場面に見えてしまうのだから不思議だ。
開陽に住んでいたお嬢様――ようやくそこまでは素性がはっきりとした珪己に空斗がわざわざ説明したのは、そういう当たり前のことを知らなそうだったからだ。何も知らないということは時に力になることもあるが、大抵は無力であることの土台、裏付けにしかならない。そう空斗は思っている。
そんな人間と運命を共有すれば、こちらが余分な危険を背負うはめになるのは自明の理だ。
「さっきの空斗さんの話ですけど。……妓楼勤めの方が朝に湯場に通うっていう」
空斗が出かけたところで珪己の方からこの話に触れてきた。
「それがどうしたの?」
どうしてまた、と思いながら晃飛が応じると、「仁威さんにとっても常識的なことなんでしょうか」と珪己がつづけた。
「もちろんそうだよ?」
「だったら……。いえ。なんでもありません」
言いかけて口を閉ざした珪己だったが、晃飛はそれ以上のことを探ろうとはしなかった。
珪己は思案顔になっている。
こうやって自らで考えようとすること自体はいいことだと晃飛は思う。知り合った当初は分からないことがあるたびに訊ねてきたが、もうここでの生活はそれなりに長く、これからもしばらくは続くと思われ――順応してきたがゆえの成長が垣間見えるというものだ。
今、珪己が考えていることは晃飛には予想がついていた。
どうして仁威が妓女ばかりが集まる湯場を自分に使わせていたのか、その理由について考えているのだ。
ややすると、珪己が口元で小さくため息をもらした。どうやら結論が出たらしい。
「……ごちそうさまでした」
肩を落として食器を片づけ始めた珪己のことを、晃飛は内心愉快に思った。
(仁兄にとって自分は恋愛対象ではないと思ったんだろうな、きっと)
まあ、普通の男なら好きな女をそのような場へ行かせないだろう。
だが仁威は普通の男ではない。元近衛軍第一隊隊長だ。
(自分が働いている妓楼の女達が常連として通う、他に知らない奴が一切入ってこない湯場なんて、最高なのにねえ)
一般人は見知らぬ人間への好奇心が強いから質問攻めにされる可能性が高いし、外で『こういう娘が……』などと語られでもしたら身元が割れてしまうかもしれない。最悪、それによってもっとも警戒すべき芯国人を呼び寄せてしまうかもしれない。だが妓女は職業柄そのあたりについての節操があるからそういった心配は無用なのだ。そうでなければ、あの桔梗のようなことになってしまうこともあるから……。
(恋愛が絡むと途端に物が見えなくなるんだよなあ、人間って)
人間全般が有する欠点に想いを至らせながら、晃飛が暢気に食事を再開した頃。
ここ零央の一角では恐ろしい詮議が執り行われていた。
*
その店の名は鯰池楼という。
その名のとおり、そこは鯰を代表とした川魚が生息する池の隣に居を構える酒楼だった。街外れにあるものの、釣りを楽しめ、美味い川魚を年中食せることから、以前はそれなりの集客があったらしい。
しかしこの店の不幸は十番隊の毛に贔屓にされたことから始まった。
正規の支払いはされていたが、それでは割に合わないほどの被害を店主は毛から被った。毛が住み着いてたったひと月――たったひと月で客は皆無となってしまったのである。店主は家族を連れて逃げてしまい、使用人も一人残らず消え――今、この酒楼は完全に毛の所有物と化していた。全盛期には最も格式の高かった奥の部屋が今では毛の私室だ。
補修に金をかけていないせいでいつ朽ちてもおかしくない外観だけが理由ではなく、ここに釣りや食事を楽しもうと思ってやって来る者はもはや誰一人いない。
その鯰池楼で、今日は朝から毛の唸るような声が廊下にまで響いていた。
「それでどうしてお前達は手ぶらで戻って来たんだ」
毛の前には三人の男が並んでいる。昨日、珪己が街中で闘いを挑んだあの武官らだ。だが屈強な彼らからは昨日の威勢のよさは失われていた。
「しかもお前ら、俺への報告が遅いじゃねえか。一体今まで何してやがった」
これに三人が揃って息を飲んだ。
しかし何も言えないでいる。
自分達が間違いを犯したことは身に染みて分かっており、弁明もできないのだ。
そんな彼らの両の頬が腫れあがっているのは、ここへ報告に訪れた瞬間に問答無用で張り手をくらったからだ。
「お前らのおかげで恥をかいただろうが……っ!」
自分でしゃべっていて怒りが募ってきたのだろう、つかつかと三人に近寄るや、一人ずつ蹴りつけていく。
「十番隊が猿ごときに一方的にやられただと⁈」
濁流の中で迫ってくる流木のように、三人は避けることさえかなわず腹を蹴られ、順に後ろに倒れていいく。
「そんな弱い奴は俺の隊にはいらねえんだよっ! このっ! このっ!」
罵りながら、繰り返し、繰り返し蹴っていく。
「すみませんっ!」
「すみません、隊長! ゆるしてくださ……ぎゃあっ!」
顔面で思いきり蹴りを受けてしまった男が大量の鼻血を噴出した。それでも三人は毛に逆らうことなく幾度も謝罪を繰り返す。すみません、すみませんと。
それもそうだ。彼らは元罪人で、十番隊を罷免されたら他に食い扶持を稼ぐ手段がなくなってしまうからだ。しかも季節はいまだ冬、山賊をはじめる時期でもない。かといって足を踏み入れたことのない南の方に出ていくほどの勇気もなく……つまりは中途半端な悪人なのである。
そう、本物の悪人であれば大した禄も名誉も得られない武官、しかも廂軍の武官になどなりはしないのだ。
特にここ零央は毛の影響力が強く、ごろつきやコソ泥が生息しにくい街だった。毛を十番隊隊長に据えおく唯一の効用はこれにあるといっても過言ではなく――であれば、中途半端な悪人である彼ら三人は毛のゆるしを得る他、ここで生きる道はないに等しいのである。
「……ふう」
長時間の指導、もとい折檻を終え、幾分か怒りを手放したところで毛が椅子にどかっと座った。早朝からの激しい動きの連続でだいぶ疲れてしまっている。いくらこの街の屯所で三本の指に入る強者といえど、四十代半ばという年齢には勝てはしないといったところか。下っ腹に増え続ける脂肪はそのうち筋肉の量をやすやすと超過するのだろう。
「で? その猿っていうのは本当のところどんな奴だったんだ」
三人が視線を交わしたのを見とがめ、毛の足が床を強く打ち鳴らした。
「ぐだぐだしてねえでさっさと話せ!」
「は、はい! ……女、でした」
「女あ?」
ぎろり、と悪人面特有のにらみを三人にきかせる。
「女がお前達をぶちのめしたっていうのか? 何人だよ、そいつらは」
「それが……一人でした」
「一人だあ? 女がたった一人でお前達をやったっていうのかっ!」
「す、すみませんっ!」
三人のうち、最も背の高い男は先ほどから必死で口をつぐんでいる。二人が早々に女に倒された後、自分は背後から何者かによって腰骨の上を打たれて気絶してしまったからだ。
ここで『もう一人いた』とか『そいつの顔は見ていない』とか『不用意に背後をとられた』といった、自分一人で背負わなくてはならない明らかなる失点を暴露する度胸などなかったのである。
幸いなことに、普段からよくしゃべる二人によって毛との会話は進んでいった。
「街の奴らに事の次第がばれる前にその女をどうにかせにゃあならんな……。おい、お前ら。その猿女を今日中にここへ連れてこい」
「今日中、ですか⁈」
これに毛が癇癪をおかした子供のように地団駄を踏んだ。
「うるせえ! 元はお前らがしでかしたことだろうがっ! いいか、夜までにここに連れてこい。自分がしでかしたことのツケは自分で拭うんだよっ!」
「そ、そんな……!」
「やれねえって言うなら、お前らには明日から稽古台になってもらうぞ」
稽古台――それは仁威が初夏に十番隊の面々に散々に木刀で打ち据えられたあの役割のことを指す。隊内における私刑執行の手段としてもこの役割は用いられていて、その際、稽古台になった者は打ち返す権利を完全に放棄させられてしまうおまけつきなのだ。しかも一度稽古台になれば、いつ辞めさせてもらえるかは毛次第だった。当然、再起不能に陥る者もいる。
毛の通告に三人の顔が一斉に青ざめた。
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