9.私はここを離れません
さて、珪己はといえば、あれから戦々恐々としながらもまっすぐ家に戻った。
あの争いの際に空也とはぐれてしまったが、「先に帰っているでしょうし、あなたが現場に戻るのは危ないですから」と双然に諭され、裏道を使って最短距離で家へと戻ったのである。
ちなみにこの裏道は双然に教えてもらった。ここ、零央は二代皇帝の施策によって上下水道がかなり整備された街なのだが、水路は家屋の裏の細道沿いに蛇が這うように並んでいて、そこには衛生面からして普段誰も近寄らない。だが、これが裏道としては非常に便利なのだ。
なお、開陽にはここまで立派な水路は存在しない。公共事業に多くの土地を割り当てる余裕があるのは地方ゆえのことだ。
今、門扉の前に立つ珪己は見るからに怯えている。それはもちろん、先に帰った空也が今日の出来事を子細に語っているかもしれないからだ。いや、『かもしれない』ではない。棒を握った直後に様子がおかしくなった空也がそのままの状態で帰宅していれば――兄の空斗が放っておくわけがない。空斗が弟に対して強い愛情を抱いていることを、珪己は十二分に知っていた。そしてこの家には空斗よりも恐ろしい存在が珪己のことを待っている――。
「ただいま帰りました……」
首をすくめ、きょろきょろと辺りを伺いながら無人の門扉を押し開けた珪己だったが、
「遅かったな」
真横から空斗が不意打ちで現れたせいで「ぎゃっ」と叫んでしまった。
これに空斗が「ぎゃって……。あんた、女だろ?」と眉をしかめた。
「女だって驚きすぎたらぎゃって言うものなんです!」
「そうなのか?」
言われてみると、この世に数多いる女性に失礼な気がしてきた。
「……た、多分」
思いつきの発言を曖昧にぼかすと、「なんだそりゃ」と空斗が呆れ顔になった。
とはいえ空斗にとっては「きゃっ」でも「ぎゃっ」でもどちらでもよく、付け加えて言えばどうでもよかった。その目が素早く珪己の背後を確認するや、一言。
「空也は?」
やはり一番の関心事は弟なのだ。
「まだ帰ってないんですか?」
驚いた珪己に、空斗の方が強い驚きをあらわにした。
「帰っていない。それにあいつはあんたのことを置いて帰るような男じゃない」
俺の自慢の弟に何言いやがる――そう詰め寄られている気になってしまった珪己は、特段被害妄想が強いわけではない。だが、確かに空斗の言う通りなのだ。空也はそのような男ではない。
「……空也さん、どうしたんだろう」
その呟きを聞きとがめ、空斗がさらに何か言い募ろうとした――ところで。
こつん、と強く床を叩く音が響いた。
「何かあったんだね?」
硬い声音に珪己がそちらを向くと、杖を手に晃飛が立っていた。
ただ――表情がやけに硬い。
「何かあったんだね?」
強い圧に押されて珪己がためらいつつもうなずくと、晃飛がその顎で居間の方を示した。
「こっちにおいで」
全部話せ、とその鋭く細い目が命じている。
*
さすがに正座で説教なんてことにはならなかったが、珪己は晃飛にこんこんと説教されるはめになった。
「君の言う散歩ってそういうことなの?」という嫌味からはじまり、
「なんでそんな体で闘おうとするのかな。わけが分からないよ」
「目立ったらいけないって分かってるよね?」
「しかも相手は十番隊だって……?」
「……君、馬鹿なの?」
ぐうの音も出ないほどにこてんぱんに貶された。
「あのね。君がやられなかったのは奇跡だからね。運が良かっただけだからね」
ちなみに応双然の介入についてはなんとか口を割らないでいる。実際、三人中二人は珪己が倒したのだし、ほぼ真実を語っているのは確かだ。
「……ふう」
散々に、一方的にわめいた後、晃飛が深いため息をついた。
「もう二度とそういうことはしないでよ。それとしばらくは外出禁止だからね」
「えー!」
「えー、じゃない! 奴らは恥をかかされたことを根に持つんだよ」
それは晃飛自身が我が身をもって学んだことだ。盛夏の毛への一件を真冬に精算するはめになるとは……晃飛とて予測していなかった。
「なあ空斗。ちょっと頼まれてくれないか」
「何を」
先程から二人の会話に立ち会っているものの、その実、空斗の気はそぞろだった。
これに晃飛が頭を乱雑に掻きむしった。
「あー、弟のことは用が終わったら探しに行ってくれていいから」
「なぜそれをするのにあんたの許可が必要なんだ」
思いを見透かされたこともあって不愉快をあらわにした空斗に「いやでも、お前の雇用主は今は俺だし」と、さっきから考えていたのだろう、晃飛が語り出した。
「環屋に行ってあの女にこの子がしでかした一件について伝えてきてくれない? でもってこれに関する情報すべてを収集するよう俺が言っていたって伝えてきて」
怪訝な顔つきになった空斗に、「環屋はこの街で一番情報が入る場所だから」と付け加える。
「この子が開陽で行方不明になったお嬢様だってことと、俺の嫁だってこと――あいつらにばれやしないか心配なんだ」
「へえ。あんた、やっぱりお嬢様だったんだな」
空斗の視線が珪己へと向いた。だが雪山で遭難しているところを拾って以来、きっとそうだろうと兄弟二人で辺りをつけていたから驚いてはいない。逆に珪己は「やっぱり私ってちょっと変なんですかね……」と軽くしょげている。
「ああもう。今はそれについては置いといてよ」と晃飛が話を戻していく。
「俺が言ったこの二つについてどのくらい情報が出回りそうかをあの女に探らせてくれればいいから。分かった?」
了承しかけた空斗だったが、一つ気になることがあり、訊ねた。
「もしすでに街中に知られてたら?」
これに晃飛がこの日一番渋い顔になった。
「夜逃げするしかないよね」
「夜逃げ?」
「この街にはいられないから」
これに、ずっとしおらしくしていた珪己が突如異議を唱えた。
「それはだめです」
その声は決して大きくなかった。だが切実な気配が如実に含まれていた。
男二人がとっさに注目すると、当の本人は感情を高ぶらせて立ち上がった。
「私はここを離れません」
でもそれじゃ君の安全が、と言う晃飛の口を塞ぐように珪己が叫んだ。
「仁威さんが帰ってくるまで絶対に離れませんから……!」
涙目になりながらも言い捨てると、珪己は居間から飛び出した。




