10.とてつもなく甘い誘惑
空斗が環屋に赴き芙蓉にすべてを伝えると、相変わらずのほろ酔い状態で話を聞いていた芙蓉の表情がみるみる険しくなっていった。
「……それはまずいねえ」
さすがは街で一番情報が交差する妓楼の女将だ、理解が早い。
要件を済ませ、では、と腰を浮かせかけた空斗だったが、「ちょっとここで待ってられるかい?」と芙蓉が引き止めたのもそのせいだ。
「店の子に知っている話がないか、今からざっと訊いてくるよ。もしかしたらすでに馬鹿息子の言うような最悪の状態に陥っているかもしれないしね。その時はさ、一刻も早く馬鹿息子に伝えてもらいたいんだ。頼まれてくれるかい?」
美しく描かれた柳眉がひそめられる様は、その馬鹿息子の身を案じるがゆえのもので……察すれば弟恋しの空斗とて承諾するほかなかった。
そして芙蓉の部屋に一人取り残された空斗が最愛の弟の行方について思いを馳せていったのは自然なことだった。
「空也の奴……。あいつは今どこにいて何をしているんだ……?」
元武官ということもあるが、空也は人助けをすることを昔から好む。ここ最近は『変わりたい』と強く願うようになっていたこともあり、珪己の語ったような騒動に遭遇すれば、自らが闘おうとするだろうことは容易に想像できていた。
だが――空也の心がいくら強く願っても、それを成し得るほどには回復していなかったのだろうとも思うのだ。
『……空也さん、動けなくなってしまったんです』
心配げに語られた弟の異変は、我が身に置き換えれば強く共感できるものだった。
とはいえ。
「俺が心配してることは分かってるはずなのに。……くそっ」
どちらかというと寡黙な性質なのに、独り言が止まらない。
心配がすぎるといらいらしてしまうということを、空斗は弟との交流で知った。
(せめてあの女が空也を連れて帰ってくればよかったんだ)
ちら、と嫌な思いが頭をよぎり、空斗は急いで頭を振った。
(あの女が現場から一刻も早く立ち去らなくてはいけなかったのは当たり前じゃないか。相手はあの十番隊なんだぞ)
(俺はなんて自分勝手なことを……!)
結果論で言えば、十番隊に手を出すことのなかった空也はまず間違いなく安全だろう。今後襲撃される恐れがあるのは、申し訳ないが十番隊にたてついたあの娘一人だけのことだ。それが分かっているのに、ついつい自分本位な考えをしてしまうのは……。
「待たせたね」
前触れもなく扉が開かれ、芙蓉が濃厚な香りを振りまきながら元いた椅子に腰かけた。夜の女がたむろする場に出向いたことで移り香をもらってきたのだろう、目に沁みそうな独特の香りに空斗の呼吸がわずかな時間、止まった。
「どうでしたか」
やや早くなった鼓動をたしなめつつも問うと、「どうしたもこうしたも」と芙蓉が飲みかけのまま放置していた酒杯を一気にあおった。
「事件のことは広まっていたけど……ねえ」
様々な花を無秩序に束ねたような濃い香りの中で、それら一切に迫力負けない美貌を悩まし気に傾け、眉を寄せ、言葉を選んでいた芙蓉だったが――。
「ちょっとした笑い話になってたよ」
そう言って空斗に向けた表情は思いのほかくだけたものになっていた。
「……それはどういうことですか?」
「ああ、うん。ちょっと待っておくれね」
片方の肘を机に載せ、その手で額を支えてしばらく考え込んでいた芙蓉だったが、「猿が暴れてた、みたいなことになってるらしいよ」と言ったところで、我慢しきれなくなって吹き出した。
*
空斗がこの話を持ち帰ると、晃飛は微妙な顔つきになった。
「なにそれ。仙猿だって?」
芙蓉の話をまとめると、こうだ。
まず簡単に事の次第を要約すると、昼間の一件は『血染めの外套をまとった猿が十番隊をこらしめた』という話になっているらしい。
血染めの外套というのは、晃飛が珪己に買い与えたもののことだ。紫がかった赤色は、氾兄弟も初見では血の色と勘違いしたことがある。
猿、というのは、腹の大きい珪己が重心を落とした状態を維持してすばしっこく動いてみせたからだろう。こんなに背が低くて丸々とした人間は造形からして物珍しいし、そのくせ目を見張るほどの俊敏さで棒を扱ってみせたら――。
以上のことを統合すると、群衆の目には珪己は同じ人間とは映らなかったらしい。
――だから、仙猿。
それに同じ人間ならば十番隊には決して逆わない。
それがこの街の住人全てが共有する常識だ。
最悪に備え、空斗が不在の間、晃飛は杖をつきつつ家中の貴重品を集めて逃げる準備を進めていた。だからこうなって正直ほっとした半面、なんだか下駄をはずされたような気持ちにもなっている。それゆえの微妙な表情だ。
「まあ……よかったかな」
手に持っていた背負い袋を床に投げるように放り、晃飛が椅子にどかっと座った。ずっと立ちっぱなしでいい加減疲れていたのだ。それから思い出したように感想めいたことを口にした。
「……確かにあの子っぽいね、その仙猿っていうたとえ」
一般人の常識が通じないし正義感が人一倍強いし、いい家のお嬢様だし、女なのに武に通じているし。単純なようで奥深い思想も、何もかもがその辺の人間とはひと味もふた味も違う。でも仙人というほど遠くかけ離れた存在でもない。
「そうだな。ちなみに芙蓉さんは『この話にのっておくからしばらくは様子見をしていろ』とおっしゃっていた」
「分かってるねえ」
こういう時には頼りがいのある女なんだよね、そうつぶやいた際の晃飛は憎々しげな、でもどこか誇らしげな顔つきになっていた。しかし、
「ま、こんな抜けた話が十番隊に対してどれだけ効果があるかは分からないけど、ひとまず今夜は大丈夫そうだね」
安堵しつつも緊張の糸を緩める気がない晃飛に、空斗はつい言っていた。
「今夜はって……。じゃあ明日になったら危なくなるかもしれないってことか? さすがにそれはないだろう」
これに晃飛がぴしゃりと言った。
「俺は『かもしれない』や『だろう』みたいな不確定要素のある話は信用しない。とにかく危険をおかしたくないだけなんだ」
とは言っても、と晃飛が大きく伸びをした。
「今夜はもう寝るよ。さすがに気疲れした」
「あんたの妹は?」
「もう寝てる。また勝手に出ていかないかって警戒してたけど、静かだなと思って部屋を覗いたらぐーすか寝てるんだもん。呆れるよね。まあ、今日はいろいろあって疲れたんだろうけどさ」
「いや。それは今日だけのことではないと思うぞ。もう出ていくことはないんじゃないか」
「どうしてそう思うんだ?」
強引に夜逃げさせられるくらいならあいつは家を出てしまうかもしれない――その考えを可能性の一つに挙げているがゆえに晃飛が訊ねると、これに空斗がやや呆れた顔になった。
「あんたの妹が無理して山から下りてきたのは、この家にいたいからだろう? 仁威っていう男がこの家に帰ってくると信じているんだろう?」
確かに空斗の言う通りだ。
「だったらこの家に意地でも留まるさ。俺だったら今はよく寝て回復につとめるな。しかるべき時に備えて」
これに晃飛が苦笑いを浮かべた。
「それはまた物騒だね」
と、その晃飛が涼やかな表情に一筋の熱を走らせた。
「でももう、俺はあの子を闘わせないけどね」
まだ杖なしではまともに歩けないくせに自らが立ち向かう前提で語る晃飛に、空斗はまたも疑問に思ったことを直接ぶつけていた。
「あんたは怖くないのか」
「なにが」
「十番隊と対峙することが」
このような時だからこそ、腹を割って話しておく必要がある。
「正直、今日の一件であんたの妹が無傷だったのは偶然か奇跡の賜物だ。あんたもそれは分かっているはずだ。あいつらはちょっと武に通じているくらいで勝てる相手じゃないし、その時が来れば相当数が飛び掛かってくるよ。違うか?」
十番隊は、元犯罪者の集団であることもそうだが、隊長の毛が礼節の礼の字も知らないような男なので、今後も報復時には卑劣な行動に出るだろうことは想像に難くない。お互い一対一で木刀で寸止めで、なんていう仕合形式をとることは絶対にないだろうし、多勢に無勢、圧倒的に不利な状況で突如襲われることになるだろうことは目に見えている。
つまるところ、年末に晃飛が受けた襲撃が再現されるだけだと、そう空斗は言いたいのである。
「そうなればあんたにも、あんたの妹にも勝ち目なんて一つもない。違うか?」
だが晃飛はこの指摘に顔色一つ変えなかった。
「怖いかって? そりゃあ怖いよ。けどね、護れなかった時のことを想像する方がよっぽど怖いんだ」
そう言い切った瞬間の晃飛は冴え冴えとした表情をしていた。
――すでに覚悟してしまっているのだ。
揺るぎのない心で。
己を賭す覚悟で。
「だったら俺にできることは闘うことしかない」
つい先ほどまで半分眠たそうな顔つきになっていたというのに、語る晃飛の内から闘志がじわじわとにじみ出してきている。一瞬走らせた熱は、もう容易には消せないほどに燃え広がっていた。目つきからして変わっている。今すぐにでも敵と剣を交えることができそうなほどに。
その目が、今度は空斗を試すような色を見せた。『君はどうする?』と。その狐目がけしかけてくる。
ただ、発した言葉はそれとは真逆だった。
「君達兄弟は山に戻ってもいいよ。これは俺達の問題だから」
その提案は空斗にとって誘惑だった。むしゃぶりつきたくなるほどの、とてつもなく甘い誘惑だった。何せ相手はあの十番隊だ、自分達だって怖いに決まっている。だが空斗はそれを一蹴した。いや、してみせた。
「いや。俺達はここにいる。俺も空也も逃げたりはしない」
その一線は超えたくない――と思っている。
甘いのかもしれない。あの晩春の斬撃以上の、もっと悲惨でもっと辛い状況に陥られなければ真の恐怖というものを理解できないのかもしれない。
だが兄弟二人して決めたのだ。今更人間と関わることを拒みはしない、と。人の中で暮らし、人の中で生きる、と。
そして関わると決めたならば最後までとことん関わる――と。
怪我人と妊婦を置いて逃げれば、この先自分達兄弟は一生顔を上げて生きていけないだろう。ならば人としても、元武官としても、晃飛の提示した誘惑にのることは絶対にできない。ゆるされない。
そう――これはもはや晃飛と珪己だけの問題ではなくなっていたのである。




