第49話 白銀の斜面と氷河の牡丹鍋
白死の領域と呼ばれた過酷な山頂を越えると、猛烈に吹き荒れていた吹雪は嘘のようにピタリと止んだ。
分厚い雲を抜け、ヴァンたちの視界に飛び込んできたのは、澄み切った青空と、眼下に広がる広大な未知の領域だった。遥か遠くには、深い森と切り立った渓谷、そして人工物と思しき古びた巨大な建造物の影がかすかに見え隠れしている。
「すごい景色ね。人間の国の地図には、あんな巨大な建造物は一切載っていなかったわ」
セリアが山頂の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込みながら、眼下の絶景に感嘆の声を漏らした。
「ああ。魔境の奥深くに、かつて別の種族が築いた文明の跡かもしれないな」
ヴァンは静かに頷き、斜面の下へと続く雪深い獣道に視線を向けた。
ここからは下りだ。烈風の怪鳥の厚切りステーキによる風と寒さの耐性はまだ十分に効いており、昨日倒した氷殻の白猿の毛皮からバクスが即席で作った防寒具もあるため、凍える心配は一切なかった。
「よっしゃ、あの遺跡みたいな場所を目指して下るぞ! と言いたいところだが……」
バクスが鼻をヒクヒクと動かし、雪原の一角をじっと見つめた。
「ヴァン、セリア。この雪山の斜面を下る前に、どうしても狩っておきたい極上の獲物がいる。少し寄り道になるが構わないか?」
「お前が必要だと言うなら、断る理由はない。何を狩ればいい」
ヴァンの即答に、バクスは嬉しそうに犬歯を覗かせた。
「この白銀の領域にだけ生息する、氷河の猪だ。そいつの肉は極寒を生き抜くために分厚い脂を蓄えているんだが、その脂の融点が異常に低くてな。口に入れた瞬間に溶け出して、全身の魔力回路を一気に拡張してくれる極上の食材なんだよ」
バクスの指差す先、雪原の奥から地響きが聞こえ始めた。
真っ白な雪を激しく巻き上げながら、巨大な雪玉のようなものが猛スピードでこちらへ向かって突進してくる。体長五メートルを超える巨大な猪の魔獣だ。その牙は鋭い氷柱でできており、突進の勢いと相まって、城門すらも粉砕するほどの破壊力を秘めている。
「来たぞ! だが、力任せにぶっ叩いて肉を潰さないでくれよ。あの脂身は繊細なんだ!」
料理人の無茶な要求に、ヴァンはわずかに息を吐いた。
「肉を潰さず、あの突進を止めるか。セリア、力ではなく、相手の力を利用して受け流す技術が必要だ」
「ええ、分かっているわ。剛の力には柔の技で応える。あなたの器の柔軟性を証明するにはぴったりの魂ね」
セリアが冷たい雪原の上で両手を広げ、凛とした声で詠唱を紡ぐ。
「極東の雪深き霊山に庵を構え、力ではなく理をもって巨熊をも投げ飛ばしたとされる孤高の拳法家。万物を流転させる柔の極致を、今この器に宿したまえ」
虚空に、水面のような波紋を描く淡い青色の魔法陣が展開される。
そこから現れたのは、質素な道着を身に纏い、静かな呼吸を繰り返す東洋の老武術家の幻影だった。幻影は一切の殺気を放つことなく、静寂とともにヴァンの巨体へと同化した。
「同化召喚・柔の拳法家」
ヴァンの肉体から、これまでの狂戦士や修羅王のような荒々しい闘気が完全に消え去った。
代わりに彼を包み込んだのは、まるで柳のようにしなやかで、どこまでも静かな気の流れだった。全身の筋肉から無駄な力みが抜け、氷河の猪の猛烈な突進を前にしても、ヴァンの足取りは散歩でもするかのように自然だった。
「ブゴォォォォォッ!」
氷河の猪が、巨大な氷の牙を突き出してヴァンの胴体を串刺しにしようと迫る。
ヴァンは漆黒の斬馬刀を抜かなかった。
猪の巨体が激突する寸前、彼は半歩だけ横に滑るように身を躱し、猪の巨大な頭部にそっと両手を添えた。
力は一切入れていない。ただ、猪自身の持つ凄まじい突進の運動エネルギーのベクトルを、手首の返しと足さばきだけでわずかに上方向へと書き換えたのだ。
「流転」
短い呼気とともに、ヴァンの手が円を描く。
たったそれだけの動作で、体長五メートルの巨大な猪の身体が、自らの突進の勢いに逆らえず、見えない巨大な波に掬い上げられたようにフワリと宙に浮き上がった。
「ブ、ブギュッ!?」
何が起きたのか理解できない猪が空中で足をバタつかせる。
ヴァンはその巨体が雪原に落下する瞬間、急所である首の頸動脈に手刀を正確に滑り込ませた。
ドスンッ。
雪を高く舞い上げて落下した氷河の猪は、外傷をほとんど負うことなく、一瞬にして意識を刈り取られて絶命した。
「……すげえ。あんな巨大な化け物を、力技じゃなく手品みたいに投げ飛ばしちまった」
バクスが驚愕に目を剥きながら駆け寄ってくる。
ヴァンは静かに同化を解除し、ゆっくりと息を吐いた。
肉へのダメージは最小限だ。これでいいか。
「最高だぜ、ヴァン! 完璧な狩りだ。これなら脂身の細胞一つ潰れちゃいない。急いで解体して、極上の牡丹鍋にしてやる!」
数時間後。
山頂から少し下った、風を凌げる雪山の窪地。そこに氷殻の白猿の毛皮を使って設営された特製のテントの中は、外の寒さを一切感じさせない極楽のような空間と化していた。
テントの中央では魔石ストーブが赤々と燃え、その上に置かれた大鍋がグツグツと幸せな音を立てている。
さあ、出来たぜ。氷河の猪の肉を特製の酵素で薄切りにし、岩塩草と雪解け水で煮込んだ、バクス特製の極寒牡丹鍋だ!
バクスが木の器にたっぷりと肉とスープをよそい、二人に手渡した。
ヴァンが薄切りの猪肉を口に運んだ瞬間、バクスの言っていた言葉の意味を完全に理解した。
肉を噛む必要がない。舌に触れた瞬間、雪のように真っ白な脂身がトロリと溶け出し、濃厚でありながら全くしつこさのない、澄み切った旨味が口いっぱいに広がったのだ。
そして、その脂が喉を通り抜けて胃に落ちた途端、全身の魔力回路がカッと熱を帯び、これまでの同化召喚で蓄積していた見えない疲労が、文字通り洗い流されていくのを感じた。
美味い。肉体が内側から浄化されていくようだ。
ヴァンが静かに、しかし確かな感動を込めて呟くと、隣のセリアも目を細めて微笑んだ。
ええ、本当に素晴らしいわ。これほどの純度の魔力を、食事という形で安全に取り込めるなんて。あの理不尽な街の連中が一生味わえない至高の贅沢ね。
三人は鍋を囲み、温かな湯気の中で笑い合った。
勇者パーティーにいた頃、ヴァンにとって野営とは、寒さと飢えと孤独に耐えるだけの苦行の時間でしかなかった。
それが今、自分を信頼し、自分の力を最大限に引き出してくれる術者がいて、自分の体を気遣い、最高の食事を提供してくれる料理人がいる。
社会から無能と追放された戦士、異端と蔑まれた召喚師、そして迫害された獣人。
行き場を失っていた三つの魂は、過酷な魔境の旅を通じて完全に一つに結びつき、どんな豪華な城の晩餐にも勝る、温かで確かな日常を築き上げていた。
テントの外では、雪山の夜が静かに更けていく。
極上の鍋で心と体を完全に満たしたヴァンたちは、明日から始まる新たな未知の領域への探索に向け、深い眠りにつくのだった。




