第26話 神速の抜刀とざわめく酒場
城塞都市から少し離れた「哭きの渓谷」。
そこは、常に不気味な風切り音が鳴り響き、切り立った岩壁が迷路のように入り組む危険地帯である。硬質な外殻と凶暴な性質を持つ中級魔物、装甲大猿の群れが縄張りとしており、正規の冒険者パーティーであっても、前衛の強固な盾役と後衛の強力な魔術師の連携がなければ足を踏み入れることすら躊躇われる場所だった。
その荒涼とした赤茶けた岩場に、ヴァンとセリアの姿があった。
ヴァンの手には、ギルドで得たこれまでの報酬を全てつぎ込み、スラムの鍛冶屋で打たせた長大な鉄の太刀が握られていた。名のある業物などではない。ただ、彼の異常な膂力と、同化召喚による極限の負荷に耐えうるだけの分厚さと異様な重さを持たせた、無骨極まりない刃だ。
「来るわ、ヴァン。装甲大猿の群れよ」
セリアが緊張した面持ちで岩陰を指差した。
渓谷の奥から、地響きを立てて三頭の巨大な猿が姿を現した。花崗岩のように硬く変質した灰色の皮膚を持ち、大人の胴体ほどもある太い樹木の幹を軽々と振り回している。
「今回は、前回の傭兵や風狼よりもさらに上のランクの魂を試すわ。極東の島国の歴史において、神域の抜刀術を完成させたとされる伝説の剣客。その極限の集中力と技を、あなたの器に降ろす」
セリアが両手を天に掲げ、冷たい渓谷の風の中で詠唱を紡ぐ。
「静寂を裂き、一閃にて敵を断つ東方の剣鬼よ。その神速の抜刀と、研ぎ澄まされた刃の記憶を、今この器に宿したまえ」
虚空に青白い魔法陣が展開され、着流し姿の片目の剣士の幻影が音もなく現れた。その幻影は、まるで己の鞘に収まるかのように、ヴァンの屈強な肉体へと静かに吸い込まれていく。
「同化召喚・抜刀の剣鬼」
ドクン、と心臓が大きく鳴った直後。
ヴァンの肉体を、絶対零度の静寂が支配した。
獣の魂を宿した時のように、筋肉が爆発的に膨張する感覚はない。しかし、全身の神経という神経が限界まで研ぎ澄まされ、風の音すらも世界から消え去ったかのような、異様な空間認識力が彼を包み込んだ。痛覚の遮断と深い虚無を持つ彼の器は、伝説の剣士が抱えていた凄まじい殺気や執念すらも完全に飲み込み、純粋な「技術の記憶」だけを抽出してのけていた。
装甲大猿の一頭が、凶暴な叫び声を上げて巨大な丸太を振り下ろしてくる。まともに受ければ、いくら頑丈なヴァンの肉体でも骨が砕け散る質量だ。
だが、ヴァンは動かない。
ただ、腰を深く落とし、特注の重い太刀を左の腰の仮想の鞘に収めるようにして構えた。剣鬼の記憶が、ヴァンの筋肉に抜刀術の完璧な初動を強制する。
丸太が頭上に迫った、その瞬間。
シッ、と微かな呼気が漏れた。
刀身が弾き出される究極の速度と、ヴァンの持つ人間離れした筋出力が完全に融合した一撃。
青白い閃光が、空間を横一文字に切り裂いた。
遅れて、凄まじい風切り音が渓谷に響き渡る。
装甲大猿の丸太は半ばで両断され、そのまま鋼鉄の硬度を持つはずの分厚い胴体が、一切の抵抗を許さずに上下に分かたれた。
「……見事な技だ。ただ力任せに振るうのとは次元が違う」
ヴァンは残心を取りながら、自らの両手を見つめて静かに呟いた。
魔力を持たずとも、この力と技があれば、物理的な法則すらも凌駕することができる。
仲間の瞬殺に恐れをなし、残る二頭が動きを止める。だが、抜かれた刃が血を吸わずに止まることはない。ヴァンは地を蹴り、神速の踏み込みで二頭の間合いへと侵入した。瞬きをする間に三度の閃光が走り、巨大な魔物たちは反撃の腕を振り上げる暇すらなく、その命を刈り取られた。
「本当に信じられない……。これほど高位の英霊の魂を、一滴の血も流さずに、自分の手足のように完璧に使いこなすなんて」
後方で見守っていたセリアは、震える声で歓喜を露わにした。彼女の呪われた術は、この男の虚無という器を得て、今や無敵の力へと昇華しつつあった。
数時間後。城塞都市のギルド出張所。
夕刻を迎え、一日の仕事を終えて酒を飲み交わす冒険者たちで賑わうその場所に、ヴァンとセリアが足を踏み入れた。
ヴァンはカウンターに、装甲大猿の硬質な腕の甲殻を無造作に積み上げた。
「なっ……これ、哭きの渓谷の装甲大猿じゃないか! しかも切り口が異常に綺麗だ。どんな高位の魔法を使えばこんな真似ができるんだ……」
受付の男が目を丸くして甲殻を調べ始めた。その騒ぎに、周囲で安酒をあおっていた中堅冒険者たちの視線が一斉に集まる。
「おい、見ろよ。あの馬鹿でかい男……勇者レオンのパーティーで万年荷物持ちをやってた、無能のヴァンじゃないか?」
「馬鹿言え。魔力もないただの戦士に、装甲大猿の群れが狩れるわけないだろ。拾ってきたに決まってる」
「だが、あの甲殻は間違いなく討伐直後の新鮮なものだぞ。それに、あの男……以前と比べて、纏ってる空気が全く違う」
レオンの流した嘘の報告により、ギルド内では「仲間を見捨てて逃げた卑怯者」としてすっかり定着していたヴァン。その最底辺の男が、見たこともない銀髪の召喚師を引き連れ、上位の魔物を涼しい顔で討伐して帰ってきたのだ。
ギルドの隅で、小さなざわめきが波紋のように広がっていく。
「もしかして、あの無能……何かヤバい力でも手に入れたんじゃないか?」
それはまだ、疑念と嘲笑が入り混じった不確かな噂に過ぎなかった。しかし、確かな実績と実力を伴ったその特異な存在感は、都市の底辺から確実に、人々の記憶に異物としての楔を打ち込み始めていた。
ヴァンは周囲の囁きなど全く気にする素振りも見せず、差し出された報酬の銀貨を無言で受け取ると、セリアと共に夜の街へと歩み去っていった。反撃の狼煙は、静かに、しかし力強く上がり始めている。




