第14話 泥水に沈む記憶と野良犬の視線
冷たい雨が降り続く路地裏のどん詰まり。苔むした煉瓦の壁に背をもたれかかったまま、ヴァンの意識はゆっくりと、そして確実に暗闇の底へと沈み込んでいった。
体温はすでに奪われ尽くし、手足の感覚はとうの昔に消え失せている。強酸の瘴気で焼け爛れた左腕と背中の傷口だけが、冷え切った身体の中で異常な熱を放ち、脈打つたびに脳髄を直接針で刺すような激痛を送ってくる。しかし、その痛みすらも分厚い水の中にいるように鈍く、遠く感じられ始めていた。
薄れゆく意識の淵で、ヴァンの脳裏に断片的な記憶が浮かんでは消えていく。
なぜ、自分は戦士などという時代遅れの職業を選んだのだろうか。魔力を持たずに生まれた人間が、この世界で生計を立てる手段は他にもあったはずだ。街の片隅で荷車を引く労働者になるか、あるいはどこかの農村で土にまみれて生きるか。
それでも彼が、誰もが見下す無骨な両手剣を背負う道を選んだのは、ほんのささやかな、しかし決して譲れない矜持があったからだ。
魔法という理不尽な力が全てを支配する世界において、自分の肉体だけを頼りに、泥臭くとも自分の力で立ちたいという意志。誰かに頼り、理不尽に屈するのではなく、己の鍛え上げた腕と磨き上げた剣で、手の届く範囲の理不尽だけは切り伏せたい。そして、たった一人でいいから、背中を預け合い、護り護られるような本当の仲間を得たい。
その純粋な渇望こそが、どれほど過酷な訓練にも耐え、どれほど理不尽な雑用を押し付けられようとも彼が実直に己の役割を果たし続けてきた根源だった。勇者レオンのパーティーに入ったのも、彼らが国中から称賛される英雄たちであり、そこにいればいつか自分の役割が本当の意味で「仲間」として認められる日が来るかもしれないと、心の奥底でわずかに期待していたからだ。
しかし、そのささやかな願いは、今日、物理的に、そして精神的に完全に粉砕された。
泥水の中で目を閉じたヴァンのまぶたの裏に、数時間前の光景が残酷なほど鮮明に蘇る。
重力悪魔の抑圧によって砕けそうになる骨の軋み。
レオンの傲慢に歪んだ笑み。
そして何より、命懸けで守り抜いたリーゼが自分に向けた、汚物を見るような拒絶の眼差し。
彼が信じていた「実直に役割を果たせば、いつか理解される」という論理は、召喚師たちの虚栄心と保身という強大な暴力の前では、チリ芥ほどの価値もなかったのだ。
ヴァンが長年己の血と汗で磨き上げ、魂の一部としていた両手剣は、今頃あの豪奢な部屋の暖炉の前に無造作に転がされ、ただの鉄屑として彼らに嘲笑されていることだろう。
全てを奪われ、否定され、魂の骨組みまでも引き抜かれた今のヴァンは、ただ呼吸を続けるだけの空っぽの肉袋に過ぎなかった。
カサ、という微かな音が、雨音に混じってヴァンの耳に届いた。
薄く目を開けると、数メートル先のゴミ捨て場の影から、一匹の痩せこけた野良犬がこちらを窺っているのが見えた。雨に濡れて毛が肌に張り付き、肋骨が浮き出ている。その濁った目は、動かなくなったヴァンの身体を「生き物」としてではなく、間もなく動かなくなる「肉の塊」として値踏みしているようだった。
野良犬は警戒しながら数歩近づき、ヴァンの足元に広がる血の匂いを鼻をひくつかせて嗅いだ。そして、ヴァンから一切の反撃の気配がないことを悟ると、さらに一歩近づき、ヴァンの泥にまみれた革靴の先を、乾いた舌でペロリと舐めた。
それは、最底辺の野生生物にすら、自分がすでに脅威として認識されていないという残酷な証明だった。
ヴァンは野良犬を追い払おうと腕を動かそうとしたが、筋肉は全く反応しない。指先一本動かすことすら、今の彼には不可能だった。
「……そうか」
ヴァンの干からびた唇から、かすれた吐息が漏れた。
魔力を持たない人間は、この世界においてただの家畜か、それ以下の存在だ。自分はこれまで、戦士という虚構の役割にすがりつき、何者かになろうと必死に足掻いてきたが、結局は元の場所、この泥にまみれた路地裏のどん詰まりが自分の本当の居場所だったのだ。
誰も助けには来ない。誰も自分を探しはしない。
ここでこのまま野良犬に肉を齧られ、冷たい雨に溶けて消えていく。それが、分不相応な夢を見た無能な戦士に与えられた、当然の結末なのだろう。
ヴァンは再びゆっくりと目を閉じた。
雨の冷たさが心地よくすら感じられ始めていた。全身を支配していた激痛も、肺を刺す呼吸の苦しさも、今はもう遠い彼方の出来事のようだ。意識の明滅が徐々に間隔を広げ、視界の全てが深い漆黒のベルベットに包まれていく。
生きる意志を手放したヴァンの呼吸が、極端に浅く、ゆっくりとしたものに変わっていく。
路地裏の暗がりの中で、たった一人。
誰にも知られることなく、戦士の命の灯火は、今まさに静かに吹き消されようとしていた。




