第122話 轍の音と、白銀の素振り
鋼殻の移動要塞が、穏やかな春の日差しを浴びながらなだらかな街道を進んでいる。
険しく過酷だった霊峰の山道を抜け、一行は緑豊かな平原地帯へと足を踏み入れていた。要塞の強靭な車輪が大地を踏みしめる規則正しい駆動音が、心地よい子守唄のように車内に響いている。
「はあ、やっぱり平坦な道は最高ですねえ。山道は要塞が揺れて、インクが帳簿にこぼれないかヒヤヒヤしっぱなしでしたから」
居住区画の広々としたテーブルに羊皮紙の束を広げ、ルミナが羽ペンを走らせながら大きく伸びをした。彼女の目の前には、霊峰周辺で採取した希少な薬草や魔物の素材のリストがずらりと書き出されている。
「ガルドさんの工房を出る時に、バルガンさんが不用品をかなり高く買い取らせ……ごほん、上手く交渉してくれたおかげで、旅の資金もかなり潤沢になりました。次の大きな街に着けば、また新しい物資の買い付けができますよ」
運転席からひょっこりと顔を出したバルガンが、得意げに鼻を鳴らした。
「おうともさ。あの偏屈親父は素材を見る目だけは確かだからな。それにしても、この要塞の足回りもなかなか頑丈にできてるだろう。霊峰の岩場をあれだけ強引に登り降りしたってのに、車軸ひとつ歪んじゃいねえ。動力源にしてる多頭蛇の魔石も絶好調だ。この調子なら、どこまでだって走っていけるぜ」
バルガンは自身の最高傑作である移動要塞の操縦桿を撫でながら、満足そうに笑った。
「そいつは頼もしい限りだな。おっと、お前ら、そろそろ飯の支度ができるぜ。今日は山で仕留めた大角鹿の肉を、ガルドのおっさんから貰った特製の岩塩でじっくり焼き上げたステーキだ。香り付けに霊峰の麓で採ったばかりの香草をたっぷり使ってある。胃袋を空けて待ってな!」
厨房の奥から、バクスが分厚い肉を豪快にひっくり返す音と共に、食欲を暴力的に刺激する香ばしい匂いが漂ってきた。ジュージューと肉汁が爆ぜる音だけでも、十分に空腹を満たす前菜になりそうだ。
要塞の中は、戦闘の緊張感から完全に解放された、穏やかで温かい日常の空気に満ちていた。
そんな中、ヴァンは一人、居住区画の隅の席で静かに目を閉じ、静座していた。彼の膝の上には、真新しい白銀の長剣が鞘に収められた状態で置かれている。
「……ヴァン?」
向かいの席で本を読んでいたセリアが、顔を上げて彼を呼んだ。
「ああ。いや、少し、剣の重心を確かめていたんだ」
ヴァンはゆっくりと目を開け、膝の上の長剣をそっと撫でた。
「ガルドの親父さんが打ってくれたこの剣は、間違いなく世界最高の器だ。だが、俺自身がまだこの剣の重さとバランスを、身体の芯まで理解しきれていない。戦闘の最中にコンマ数秒の誤差が出れば、それは命取りになるからな」
ヴァンは立ち上がると、剣を腰の帯に差した。
「バルガン、少し先の川辺で要塞を停めてくれないか。少し外の空気を吸いながら、身体を動かしておきたい」
「おう、分かったぜ大将。ちょうど機関を冷やすために小休止を入れたいところだったんだ」
要塞が緩やかに減速し、透き通った水の流れる浅瀬のそばで静かに停車した。
ヴァンはタラップを下り、柔らかい草の生い茂る川辺へと歩み出た。春の風が心地よく吹き抜け、水面が太陽の光を反射してキラキラと輝いている。
ヴァンは足を肩幅に開き、深く深呼吸をした。
全身の筋肉の隅々にまで意識を巡らせる。ミスリルドラゴンとの死闘で負った筋繊維の断裂や骨の軋みは、バクスの霊薬と三日間の休息によって、すでに日常生活に支障がないレベルにまで回復していた。痛覚がない分、自らの肉体の限界を数値のように客観的に把握する能力に長けているヴァンは、現在の自分の状態が七割程度の回復具合であることを正確に認識していた。
シャキィィィィン……。
澄み切った、美しい金属音が川辺に響いた。
ヴァンが腰の鞘から白銀の長剣をゆっくりと引き抜いたのだ。
一切の装飾を持たない純度百パーセントのミスリルの刃が、陽光を浴びて冷たく、そして神々しく輝く。
ヴァンは剣を中段に構え、ゆっくりと、そして流れるような動作で素振りを開始した。
上段からの振り下ろし。袈裟斬り。横薙ぎ。そして刺突。
一つ一つの動作は決して速くない。むしろ、素人が見ればスローモーションのように感じられるほどの遅さだった。しかし、その動きには一切の無駄やブレがなく、剣の切っ先は恐ろしいほどの正確さで空間をなぞっていた。
ズンッ……ズンッ……。
剣が空気を切るたびに、周囲の大気が重く軋むような音が鳴る。
セリアの魔法による同化を行っていない、ただの物理的な素振り。それにも関わらず、極限まで圧縮されたミスリルの質量と、ヴァンの洗練された身体操作が生み出す運動エネルギーは、それだけで致命的な破壊力を孕んでいた。
(……素晴らしい)
ヴァンは内心で深く感嘆していた。
セリアの同化の力で倒した魔物の素材を集め、スラムの鍛冶屋で打たせたあの斬馬刀も、ヴァンの過酷な戦いを支え続けた血と執念の結晶であり、己の命を預けるに足る最高の相棒だった。しかし、このガルドの剣はまた次元が違う。重さはかつての斬馬刀以上にあるにも関わらず、空気を裂く際の抵抗が全くなく、まるで剣自体がヴァンの意思を先読みして動いているかのような完璧な追従性を見せるのだ。
ヒュンッ!!
ヴァンが少しだけ踏み込みを強くし、横薙ぎの速度を上げると、剣から放たれた物理的な風圧だけで、数メートル先の川の水面が真っ二つに割れ、水しぶきが高く舞い上がった。
「本当に、すごい剣ね」
背後から、静かな声がかけられた。
振り返ると、セリアが川岸の草地を歩いてこちらへ向かってくるところだった。彼女の銀色の髪が、春の風に優しく揺れている。
ヴァンは剣をゆっくりと下ろし、セリアに向かって微かに口角を上げた。
「ああ。重さも、長さも、これ以上のものはない。俺のような魔力を持たない人間の筋力だけでも、ここまでの威力を引き出せる。ガルドの腕は本物だ」
「でも、その剣の本当の力は、あなたの力と私の魔法が合わさった時にこそ発揮されるわ」
セリアはヴァンの隣に並び立ち、白銀の刃を見つめた。
「どんな召喚獣の魂を宿しても、その特性に合わせて形を変え、威力を増幅させる。まさに、あなたと同化召喚のためだけに生み出されたような剣……。なんだか、少し嫉妬してしまうくらいに完璧ね」
セリアの言葉に、ヴァンは少し不思議そうな顔をした。
「嫉妬、か?」
「ふふ、冗談よ」
セリアは小さく笑うと、ヴァンの太い腕にそっと両手を添えた。
「勇者パーティーを追い出されて、すべてを失ったあなたが、今こうして最高の武器を手にして、頼もしい仲間たちに囲まれている。その隣に私が居られることが、今は何よりも嬉しいの」
彼女の紫色の瞳には、偽りのない深い愛情と、ヴァンへの絶対的な信頼が宿っていた。
世界中から無能の烙印を押され、誰にも理解されなかった孤独な同化召喚師。彼女にとって、自分の術を最高の形で体現し、相棒として必要としてくれたヴァンは、世界の何よりも尊い存在なのだ。
ヴァンは剣を鞘に収めると、空いた手でセリアの銀髪を静かに撫でた。
「俺一人では、あのスラムの路地裏で野垂れ死んでいただろう。お前が俺に力を与え、共に戦ってくれたからこそ、俺は今ここに立っている。この剣も、俺とお前、そして仲間たちの力で手に入れたものだ。誰一人欠けても、ここまで辿り着くことはできなかった」
不器用だが、嘘のない実直な言葉。
セリアは嬉しそうに目を細め、ヴァンの手のひらに自身の頬をすり寄せた。
「おーい! 大将! セリアの嬢ちゃん! 飯の準備ができたぞー! 肉が冷めないうちに戻ってきなー!」
要塞のタラップの上から、大きな木べらを持ったバクスが声を張り上げている。その後ろでは、ルミナがお皿とカトラリーを並べる準備をしており、バルガンが樽からエールをジョッキに注いでいる姿が見えた。
「行こうか、セリア。冷めるとバクスがうるさいからな」
「ええ。彼のご飯を冷ますのは、世界で一番の重罪だものね」
二人は顔を見合わせて小さく笑い、仲間たちの待つ温かな居場所へと歩き出した。
川辺には心地よい風が吹き抜け、青空には白い雲がのんびりと流れている。
血生臭い戦いや、理不尽な悪意から遠く離れた、ただ穏やかな時間。彼らがこれから先の過酷な旅路を乗り越えていくための、何よりも大切で、守るべき日常の風景がそこにあった。




