第15話: 王妃の調査命令
報告書は、たった一枚だった。
私——エレオノーラ・グラシアは、その一枚を、執務机の上で二度読んだ。
三度目を読む前に、指が勝手に紙の縁を撫でていた。布目を確かめるときの私の癖だ。紙には当然、布目はない。それでも指は何かを探していた。
春先の朝の光が、王宮の私室の窓から白く差し込んでいた。
窓の外で庭師が、冬を越した薔薇の枯れ枝を鋏で落としている。乾いた、規則正しい音。芽吹きの前の片付けの季節だ。
私は報告書を机に伏せた。
マリエッタ・コルッツィの報告書。昨日この衣装室で、彼女が亡き母の古いドレスの裏地に手をかけ、二重縫いの署名を見つけた。「T.F.」。ティナ・ファブリツィア。
その名を私は声に出した。社交界で十年間、誰も口にしなかった名前を。
声に出したとき、不思議な感覚があった。長く探していた言葉がようやく舌の上に乗った——そういう感覚だ。
けれど一晩眠って朝になり、報告書を読み返すと、別の感覚が胸の底からゆっくり上がってきた。
一着だけ、なのだろうか。
私は亡き母の手を覚えている。
母——先王妃ヴィオレッタは、布を読む人だった。経糸の張り。緯糸の噛み合わせ。染料の沈み方。指先で布の声を聞く人だった。
私が幼い頃、母はよくドレスを裏返して見せてくれた。表ではなく裏。縫い目の出ている側を。
「いいこと、エレオノーラ。布の値打ちは表では分からないの」
母の指が裏地の縫い目をゆっくり辿る。
「表は誰にでも作れます。お金をかければ刺繍も宝石もいくらでも足せる。でも裏は嘘がつけません。縫った人の手が、ここに全部残るのよ」
幼い私には、その意味が半分しか分からなかった。残りの半分が分かったのは母が亡くなってから——いや、昨日この場所で、マリエッタの指先を見たあの瞬間だったのかもしれない。
母は晩年、ランドルフ公爵家のドレスをよく評していた。
「あの家のドレスは、糸が私の歩幅に合わせて伸びてくれる」
ある冬、母は一着のドレスを着て私に言った。
「この子は布と話しているわ」
あのとき私は、母が「この子」と呼んだのをドレスのことだと思っていた。今になって分かる。母はドレスを縫った人間のことを、そう呼んでいたのだ。
名前は知らないままだった。ランドルフ家は職人の名を決して明かさなかったから。母はその名を一度も知らずに、五年前に逝った。
母の最期の言葉を、私はまだ覚えている。病床で私の手を取って、母はこう言った。
「布だけは覚えているのよ。誰の手で縫われたかを」
あのとき私は、それを別れの詩のように聞いた。布を愛した人の、美しい遺言として。
昨日マリエッタが「T.F.」を読み上げたとき、私はそれが遺言ではなく指示だったことに気づいた。
母は私に、探せ、と言っていたのだ。
私は報告書をもう一度手に取った。
マリエッタの字は、年齢のわりにしっかりしていた。針を握り続けた手は、文字を書くときも揺れないらしい。
書かれていたのは事実だけだった。装飾も感傷も訴えもない。
亡き先王妃ヴィオレッタ陛下より譲り受けたる夜会用ドレス一着。深紫の絹地。襟元裏地に二重縫いの刻印「T.F.」を確認。糸は地色に合わせて隠匿。技法は「色を合わせて隠す」二重縫い。当該技法は当方が公爵家にて五十年見聞せし職人の癖と一致。職人名、ティナ・ファブリツィア。十二歳より公爵家に貸与され、十年間専属職人として仕立てに従事。給金支給の記録なし。
私はその「給金支給の記録なし」の一行を、長く見つめた。
マリエッタはその一行を最後に書いていた。事実を並べた末に、ぽつりと置くように。彼女がその一行をどんな思いで書いたのか、私には推し量ることしかできない。けれど報告書の他のどの行よりも、その一行が紙の上でわずかに重く沈んで見えた。
十年。給金なし。一着の夜会服。
その三つが、私の頭の中で揃わなかった。
一着のドレスのために十年間、無給で働く職人はいない。
ということは——
私は立ち上がった。
「ローザ」
私は控えの間に向かって声をかけた。
扉が開いて、侍女頭のローザが入ってきた。紺色の侍女服に白いエプロン。三十年、王宮の布を見続けてきた目を持つ女だ。母の代から、ここにいる。
「お呼びでしょうか、陛下」
「衣装室の蔵に、母の遺品のドレスは何着あるかしら」
ローザはわずかに、考える間を置いた。
「先王妃陛下の御遺品は、正確な数は台帳を確認しなければお答えできかねます。ただ御遺品だけでも、相当数ございます」
「相当数、というのは」
「数十着では足りないかと存じます」
私は頷いた。
「母の遺品だけではなく」
私は言葉を選んだ。これから言うことが、王宮の蔵全体を動かすことになる。
「歴代の王妃が王宮に残したドレス。すべて。今、衣装室の蔵に保管されているもの全部。それが何着あるか知りたいの」
ローザの表情は、ほとんど変わらなかった。けれどエプロンの裾をわずかに握り直した。彼女が事の大きさを量っているのが分かった。
「歴代の、すべてでございますか」
「ええ」
「先代、先々代——どこまで遡りますか」
私は母の声を思い出していた。布だけは覚えている。誰の手で縫われたかを。
「蔵に残っているもの全部よ。布が覚えているなら、私はそれを全部聞きたい」
ローザは深く頭を下げた。
「畏まりました、陛下」
ローザが退いた後、私は窓辺に立った。
庭で庭師がまだ枯れ枝を落としていた。鋏の音が規則正しく続いている。冬に伸びすぎた枝を春の前に片付ける。そうしないと、新しい芽が伸びる場所を見つけられない。
私は、自分がこれから何をしようとしているのかを考えた。
一着のドレスの裏地から名前が出てきた。それだけなら、衣装室の中で収まる話だった。マリエッタを労い、母の遺品を大切にしまい直し、それで終わりにすることもできた。
けれど私は、それを終わりにしたくなかった。
なぜか。理由は一つではなかった。
一つは母だ。母は布を読む人だった。その母が生涯、その名を知らずに逝った。母の遺言を私は五年間、別れの詩としてしまい込んでいた。違った。あれは宿題だった。母から娘への、最後の宿題。
もう一つは——私自身の十年だ。
私は王妃として十年間、ランドルフ家のドレスを社交界で見てきた。あの家の夫人が着るドレスは、いつも布が笑っていた。私はそれを「ランドルフ家の品格」だと思っていた。家の名前で、そう理解していた。
この冬の大舞踏会で、私は公爵夫人に問うた。お宅の専属職人はどこへ行ったのかしら、と。まだ雪の名残のある夜だった。あのときの私はまだ半分しか知らなかった。職人がいなくなったこと。家がそれを隠していること。そこまでだった。
名前を知らなかった。
十年間、私の目の前で社交界の華やぎを支えていた手の名前を、私は知らなかった。母と同じだった。母がその名を知らずに逝ったように、私も知らずに十年を過ごしていた。
それが昨日、衣装室で覆った。私はその名を知ってしまった。
知ってしまった以上、一着で終わらせるわけにはいかなかった。一着なら偶然の話になる。偶然、母の一着がその職人の手だった。そういう小さな話になってしまう。
でも、もし——
私の指がまた窓枠の縁を撫でていた。布目を探していた。
もし衣装室の蔵に、その「色を合わせて隠す」二重縫いが何着も眠っているのだとしたら。
それはもう偶然ではない。十年間、誰の目にも触れずに王宮の蔵の中で息を潜めていた、一人の人間の労働の記録だ。
昼を過ぎて、侍従長のカミーロが私室を訪れた。
白い髭の老紳士。黒い侍従服に銀の鎖飾り。背筋は四十年、王宮を支えてきた重みでまっすぐに伸びている。その手には古い革表紙の台帳が抱えられていた。
「陛下。衣装室の保管台帳をお持ちいたしました」
「ご苦労さま、カミーロ。それで——」
「総数、概算で百二十着ほどでございます」
私はその数を、頭の中で置いてみた。
百二十着。
「内訳は」
「先王妃ヴィオレッタ陛下の御遺品が七十二着。それ以前の、先々代王妃陛下の御代のものが三十数着。さらに古いものが、断片を含めて十数着。記録の残らぬまま蔵の奥に積まれているものも、ございます」
「断片」
「虫が食ったもの、染みの出たもの。本来であれば処分される品でございますが——」カミーロはわずかに言葉を切った。「王宮では古き王妃の御衣装を、容易には処分いたしません。慣例として」
「布だけは覚えているから」
私は母の言葉を、そのまま口にしていた。
カミーロはその言葉に、わずかに目を上げた。一瞬、彼の視線が私ではなく、その向こうの何かを見たように見えた。彼も母の代から、ここにいる人だ。母がその言葉をどんなときに言っていたか——彼は私よりも聞いているのかもしれない。
「差し出がましいことを、申し上げてよろしいでしょうか」
カミーロが、いつもの前置きを置いた。
「言いなさい」
「歴代の御衣装をすべて検分するとなりますと、衣装室の蔵をすべて開けることになります。これは王宮の慣例として、極めて異例でございます。蔵には王家の威信に関わる品もございます。検分の理由を、外向きにはどのように」
彼が心配しているのは政治の方だった。蔵を開けるという行為が王宮の中でどんな波紋を呼ぶか。それを四十年の経験で量っている。
私は少し考えた。
「理由は、母の遺品の整理ということにしておきましょう」
「整理、でございますか」
「ええ。先王妃の御遺品を、五年の節目に改めて検分し、保存の手当てをする。王妃として自然なことよ。誰も不審には思わないわ」
それは半分、本当だった。私は本当に母の遺品を検分したかった。五年間しまい込んだ宿題を、ようやく開く。
残りの半分は——
私は台帳を受け取った。革の表紙はひんやりと乾いていた。指先が無意識にその表面を撫でた。布ではない。けれど長く触れられてきたものの手触りがあった。
残りの半分は、誰にも言わなかった。私は王宮の蔵の中で十年間、息を潜めていた手の記録を、全部表に出すつもりだった。
夕方、私はローザとカミーロを私室に呼んだ。
窓の外はもう藍色に傾き始めていた。春先の夕暮れは冬よりは、わずかに長い。庭の枯れ枝はすっかり片付けられていた。明日からは芽吹きを待つだけの、空いた庭になる。
「明日から、衣装室の蔵を開けます」
私は二人に告げた。
「歴代の御衣装、すべて。台帳にあるものも、台帳にないものも。蔵の奥に積まれた虫食いの断片に至るまで。一着残らず検分します」
ローザが頷いた。カミーロも頷いた。
「検分の方法はこうします」私は続けた。「一着ごとに表を見て、裏を返す。裏地を確かめる。襟元、袖口、裾。縫い目の出ている場所を全部。そこに二重縫いがないか。地色に合わせて隠された糸がないか」
ローザの指がエプロンの裾を、また握った。彼女は布を読める人だ。私が何を探そうとしているか、もう分かっている。
「陛下」ローザが口を開いた。「二重縫いは地色に合わせて隠されております。普通の目では見えません。検分には、布を読める者が必要かと存じます」
「あなたと私で足りるかしら」
ローザはわずかに首を傾けた。
「百二十着をお二人で、というのは……陛下のお手を百二十着分わずらわせることになります」
彼女は私の手を案じていた。王妃の指を百二十着の裏地に百二十回走らせる。それがどういうことか、彼女には分かっている。
私は自分の右手を見た。
白い手だ。布を吟味することはあっても、布を縫ったことはない。母から布の見方は教わった。けれど針の握り方は教わらなかった。それは私の手のできることの外にあった。
それでも——
「私の手でいいの」
私は言った。
「母は自分の手でドレスを裏返して、私に見せてくれた。侍女にやらせなかった。自分の指で縫い目を辿った。だから母の見方が、私の指に残っているの。百二十着、私の手で辿るわ。それが母の遺品を整理するということだから」
ローザはしばらく私を見ていた。それから深く頭を下げた。
「畏まりました、陛下。私もお手伝いいたします。布を読める侍女を、あと数名手配いたします」
「お願い。ただし——」
私は一拍置いた。
「布を読める者だけ。ティナ・ファブリツィアの名は、まだ誰にも言わないで。検分の理由は母の遺品整理。それで通します」
「畏まりました」
カミーロが台帳を、胸に抱え直した。
「では明朝より、衣装室の蔵を順に開けてまいります。先王妃陛下の御遺品から、始めてよろしゅうございますか」
私は頷きかけて——止めた。
母の遺品から始めれば、きっとすぐに出てくる。母はランドルフ家のドレスを何着も持っていた。「布と話している」と母が言った、あの手の。すぐに何着も見つかるだろう。
でも、それでは足りなかった。
私が知りたいのは、母の遺品の中に何着あるか、ではなかった。
「いいえ、カミーロ」
私は言った。
「一番古いものから始めてください。蔵の一番奥。記録の残らない断片から。新しい方へ遡らずに、古い方から進めます」
カミーロがわずかに目を見開いた。彼が私の意図を量っているのが分かった。一番古い断片にその二重縫いがあるなら、それは——
「古いものにその縫い目があれば」私は最後まで言った。「それは母の専属だったというような小さな話ではなくなります。それが知りたいの」
カミーロは何も言わなかった。ただ深く頭を下げた。彼の沈黙が、私の言ったことの重さを、誰よりも正確に受け止めていた。
二人が退いた後、私室には私だけが残った。
窓の外はすっかり夜になっていた。春先の夜はまだ冷たい。けれど冬の、刺すような冷たさとは違う。芽吹きを内側に抱えた冷たさだ。
私は机に伏せたままの報告書を、もう一度開いた。
マリエッタの字。事実だけが並んでいる。給金支給の記録なし。
その一行の下に、私は昨日この場所で声に出した名前を思い浮かべた。ティナ・ファブリツィア。
彼女が今どこにいるのか、私は知らない。マリエッタの報告書には、辺境ファーデンの仕立て屋、と書かれていた。馬車で七日。私の声の届かない遠い場所だ。
彼女をここに呼ぶことはできる。王妃の名で密書を一通。それで彼女は来るだろう。来ざるを得ない。
けれど私は、それをしないと決めていた。
彼女を呼びつける権利は、私にはない。
十年間、彼女の手を王宮は知らなかった。母も私も知らなかった。彼女が無給で十年、針を動かしている間、私は彼女のドレスを着て社交界で笑っていた。その私が今さら王妃の名で彼女を呼びつける。それは違う。
私がするべきことは、彼女を呼ぶことではなかった。
私がするべきことは——彼女が十年間、王宮の蔵の中に息を潜めて残し続けたものを、私の手で一着残らず表に出すことだ。
彼女がいなくても。彼女が知らなくても。彼女の手はもう、王宮の蔵の中にある。布だけは覚えている。誰の手で縫われたかを。
私は報告書を丁寧に畳んで、机の引き出しにしまった。鍵をかけた。
明日から蔵が開く。一番古いものから。記録の残らない断片から。
その断片の裏地に、もし地色に合わせて隠された二重縫いがあったなら——私は母の言葉の本当の意味を知ることになる。布が覚えていた、その手の本当の大きさを。
窓の外で春先の風が、庭の空いた木々をわずかに揺らした。冬に伸びすぎた枝はもうない。風は空いた場所を通り抜けていった。
明日、何着の裏地にその名が眠っているのか。私にはまだ分からなかった。
ただ一つだけ分かっていた。
一着では、ない。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第15話、第2アーク「裏地の真実編」の開幕です。第1アークが「追放と消失、そして発見」だとすれば、第2アークは「発見されたものが、どこまで広がっていくか」の物語になります。その入口を、王妃エレオノーラの視点に置きました。
エレオノーラは「権力側の理解者」という珍しい立場の人です。彼女は、ティナを救う英雄ではありません。むしろ十年間、彼女のドレスを着て社交界で笑っていた側の人間です。その自覚が、彼女を動かします。「呼びつける権利は、私にはない」——この一線が、本作の王妃の品格だと思っています。怒鳴らず、命じず、ただ布に残されたものを、自分の手で表に出す。
亡き先王妃ヴィオレッタの遺言「布だけは覚えているのよ。誰の手で縫われたかを」——これを、別れの詩ではなく「宿題」だったと気づく場面が、この話の芯です。母はその職人の名を、生涯知りませんでした。娘のエレオノーラが五年後、ようやくその宿題を開く。世代を越えて受け渡されるものを書きたかったのです。
そして王妃が「古い方から検分する」と決める場面。新しい方から数えれば「母の専属だった」で終わる話を、あえて一番奥の断片から遡る。一着では終わらせない、という静かな決意です。次話、衣装室の蔵が開きます。百二十着のドレスが、王妃の指先を待っています。
第2アーク「裏地の真実編」も、ゆっくりお付き合いいただければ嬉しいです。
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