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完結です。

 わたしの髪を一つに束ねて、紺色のリボンがついたゴムで結んだ。

 手鏡を渡され持っていたわたしは、うしろの彼を見るために鏡の位置をずらす。わたしの髪に視線を落とし、リボンを整える真剣な表情の彼が映っていた。

「ん? わ、何?」

 鏡を向けられたことに気がついた彼は鏡越しにわたしを捉えると、鏡に手のひらをかざした。彼の顔がすっぽり隠れて見えなくなった。

「無防備な顔を見るのは反則。恥ずかしい」

「ごめんなさい」

「分かればよし」

 手鏡を持つわたしの手に手を添え、もう片方の手で別の鏡を持った。それをわたしの後頭部に当てる。二つの鏡を通して後ろ髪とリボンの様子がわたしからでも分かった。

 黒い髪に、落ち着いた紺のサテン生地。似たような色でも、サテンの艶がつるつる光っていて、味気なかった髪が少しだけ上品に思えた。

「かわいい」

「そうだね、可愛い」

 彼が作ってくれたココアみたいに甘い声だった。やはりどんな顔をしているのか気になって、背後に立つ彼の方を振り返る。

「あの、わたしはリボンのことを言ったの」

「それをひっくるめたのが俺の、可愛いってこと」

 胸の奥がそわそわとくすぐったい気分だ。にっこり微笑む彼から目を逸らし、机の上にあるココアのカップを手に取った。

 今朝、彼がここに来てくれた時に一緒に持ってきてくれたものだ。カップはおそろいらしく、彼のが青で、わたしのがピンク。

 ピンクのカップにはほんのり湯気を立てた、優しいチョコレート色の、見ているだけで甘さを感じて息を落としてしまいそうなココアが注がれている。

「おいしい」

 火傷はしない程度のあたたかさのそれを口に含むと、やっぱり甘い。

「今日子は甘い方が好きだろう? 俺はこれ」

 言って、彼はココアと同じで来る時に持ってきたコーヒーメーカーを指さす。机の上。そこにはポケットティッシュやハンカチ、裁縫道具の入った小さな棚と、本、ペン立てがいつも並んでいる。新しく追加されたのが、コーヒーメーカー。

 机に置くには不釣り合いの、アルミニウムで黒いそれ。

「これ、ポーションで簡単にできるやつなんだ。ここに水を入れて、専用のポーションをセットしたらいいだけ。コーヒーだけじゃなくてカフェラテとか、ココアもあるよ。フォームミルクもできるからカプチーノも」

 機械の使い方を、丁寧に一つずつ指を添えながら教えてくれる。

「わたしにも、できる?」

「できるよ。大丈夫。もし壊れたとしても、また買うよ」

 ガムシロップやミルクポーションの、プラスティックの小さな入れ物をそのまま機械の中に入れ、ボタンを押す。ボタンはたくさんあった。

「俺はただのコーヒーが飲みたいから、このボタン」

「……難しいわ」

「ゆっくり覚えていこう」

 青いカップの中に、機械からポタポタと黒い液体がこぼれ落ちてゆく。

「ここを出たら、ちゃんとキッチンに置くんだ。アイランド型にして、一緒に料理をしよう。キッチンのうしろに棚を作って、コーヒーメーカーとトースターを並べて」

 キッチン……。

「家を建てる時、キッチンはカウンターにしたいって」

 カップのあたたかさを奪うように両手で包む。中身を覗く。牛乳とココアが少しずつ分離して、真中の白から縁に向かって徐々に薄茶が混ざっている。

 家を建てる時、キッチンはカウンターにしたいと彼が言った。料理はできないから、カウンターに肘を置いて眺めたい。彼が言った。彼が。彼は。

「……あれ……?」

 カップに落とした顔を上げる。ベッドに腰掛けるわたしを、彼は見下ろすように立っていた。唯一の光源である、真上の電気が彼に影を差していた。輪郭はぼんやり透けて、しかし顔は暗くて見えない。

「わたし……?」

 ココアの甘い匂いが一瞬押し寄せて、そのあとにスズランと洋梨の匂いに包まれた。わたしの顔は彼の肩に埋めるような形になっていた。ココアで湿った唇をワイシャツに押しつけるのが嫌でうつむこうとするも、後頭部に回った手のひらがそれを拒んだ。

「わたし、ココア……」

「気にしなくていい。大丈夫だから」

 どうしたらいいのか、分からなかった。ココアのカップをこぼさないよう避難させて、彼を抱きしめるべきなのか。彼のしたいようにさせて黙っているべきなのか。いや、きっと同じように腕を回してあげるべきなのかもしれない。そうしたいけれど、わたしの手のひらはカップにくっついてしまったように剥がれない。

「ねえ。わたしは何か、忘れているのかしら。それとも、変? おかしいの?」

 彼の肩に埋まった顔をほんの少し上げると、奥に扉が見えた。無機質な、鉛色の重たそうな扉。ちょうど誰かが扉の前に立てば、はめ込まれた鉄の格子から目だけが見える。

 わたしはそこから、相田さんの、カールされたまつげに縁どられた目を何度も見た。

 部屋を見渡す。色褪せたクリーム色の壁で四方を囲まれていて、窓がない。寒さも暑さも感じない、快適な室温に保たれた部屋。備えつけのクローゼットと机。持ってきたタンス、裁縫道具……。

 頭が痛い。何かを忘れていることは分かっている。それなのに、思い出そうとすると都合よく痛みが波紋のように広がってしまう。

「今日子、落ち着いて聞いて」

 彼がわたしの髪に吐息をもらす。熱のこもった空気は、わたしの髪をちりちりに焼け焦がしてしまいそうだった。

「きみは、精神的な問題を抱えているんだ。心が病んでいて、自分を傷つけてしまう恐れがあった。この部屋はきみの部屋であって、そうじゃないんだ」

 心の奥底に響く彼の低い声が、雪のように降り積もる。その間際、扉の外で悲鳴に似た誰かの奇声が遠くから聞こえてきた。

 思わず肩が揺れた。それをなだめるように、彼の手のひらが添えられる。

「病院だよ。きみは患者で、俺は先生」

「せんせい? それじゃあ、彼は……」

「彼はいない。でも俺がいる」

 一度強く抱きしめられたあと、身体と身体のあいだに空気が通った。彼はわたしの手からピンクのカップをとって後ろ手でそれを机に置いた。いつの間にか、コーヒーメーカーの音はやんでいた。

「きみは快復してきたんだ。アイロン掛けを楽しみにするようになったし、自分から何か作ろうと提案もして。俺、すごく嬉しいんだ」

 すきまなく身体が密着した。甘くて、落ち着く匂いがあたりに充満していた。

「きみは変わるんだよ。彼の創造をやめて、俺と現実を生きるんだ」

 彼が何か、言っている。わたしを傷つけるような言葉ではない。わたしの奥にあるものを溶かしてしまいそうなほど、あたたかくて優しい音。

「わたし、もう」

「忘れていいんだよ」

 彼の匂いをいっぱいに吸い込みながら、わたしは目を閉じた。

 

 朝が来た。

 机に置くには不釣り合いの、アルミニウム素材でできたシックなコーヒーメーカーに青いカップをセットする。コーヒーのポーションを箱からつまみ上げた時、重たい扉が開いた。

「今日子、おはよう」

 見守られながら昨夜のうちにアイロンを掛けた薄いブルーのワイシャツを着た彼が、ひょっこりと顔を覗かせた。

「おはよう。わたし、今、あなたのコーヒーを準備しようとしていたのよ」

「本当? 昨日教えたばかりなのにすごいなあ。ありがとう」

「わたし、頑張るわ」

 機械からポタポタと黒い液体がこぼれ、受け皿のカップが満ちてゆくさまを眺める。となりに彼が並ぶから、わたしは彼の脇腹あたりのワイシャツをつかんだ。

「ねえ。ハンカチはどうしたの?」

 わたしの腰に片腕を回しながら、彼がこちらを見た。

「ハンカチって、どれ? 昨日買ったやつかな。あれはまだ洗濯していないから使えないよ。今日洗濯して、明日持っていく」

「違うわ。そっちじゃなくて、あの、歪んだチェックの」

「俺の部屋にあるよ。どうしたらいい?」

 腰に触れる手のひらが熱い。

「あれは、もうきれいに畳めないんでしょう? だったら、もういらないわ」

「そっか」

 彼の声は思ったより小さくて、部屋の空気に染まるように溶けて消えた。

 溶けゆく瞬間のやわらかい時間を堪能するように、わたしたちは少しのあいだ口を閉ざした。

「ねえ。今日はここで朝食を食べていかない?」

 彼は目を丸くした。

「ここで、って……。食べ物、あるの?」

 眉を歪め、不思議そうな表情の彼に笑いかけながら、わたしはベッドに隠していたものを彼へと突きつけた。六枚切りの、食パンだ。

「今朝、相田さんがいらしたの。その時にお願いしてみたら、渋々だったけれど持ってきてくれたのよ」

 言って、わたしはいつものアイロン台をベッドのそばまで引き寄せる。台の上にはすでにアイロンを掛け、きれいに畳んだハンカチをのせてあったので、それを彼に渡した。

 封を開け、食パンを一枚アイロン台の上にのせる。コーヒーメーカーが動くそのとなりの、コンセントを繋いで温めたままのアイロンをつかむ。

「あ」

 彼がびっくりしたように声を上げた。

 構わず、わたしは食パンにアイロンの熱い面を押しつける。ぎゅうぎゅう、焦げ目がつくくらいに。

「ほら。どうかしら」

 裏表を充分に焦げ目をつけた、ぺちゃんこの食パンを彼に見せる。

「……驚いた」

「あなたのためにできることを増やしたわ。ここでしかできないこと」

 彼は不格好な食パンを受け取り、一口かじった。

「なかなかいけるね。チーズとベーコンを挟んで押しつけたら、いい感じのホットサンドになりそうだな」

 二人で顔を突き合わせ、静かに微笑んだ。

 

 

 迎えにやってきた相田を追い越して前を歩き、彼女を閉じ込めた鉛色の扉から離れて数分が経った。

 立ち止まって、振り返る。俺にならって歩みを止めた相田の顔色は悪く、俺に控えめな視線を向けていた。

「あれの物はすべて処分したと聞いていたが」

 声をかけると相田は深く頭を下げた。

「申し訳ございません。まさかタンスの奥に紛れているとは……」

 ポケットからハンカチを出す。今朝、今日子から受け取ったものではない。しわくちゃだった、歪んだチェック柄のハンカチだ。彼女が言ったようにそれは端が合わず、畳んでも美しくないいらない物。

「これを見るだけで気分が悪くなるのに。けれど今日子が愛情込めて準備してくれたから、とりあえずは持ち歩いたものの」

 おそるおそる顔を上げる相田へそれを押しやる。

「次はない。気づかれないように処分しておいて」

「はい」

「ただ、まあ。相田のおかげで彼女が俺のために考えて行動するところが見られたから、そのことについては礼を言いたいな。給料、上乗せしておくよ」

 相田は手にした物を持ったまま、再び頭を下げた。

 俺はそれに一瞥くれたあと、仕事場に向かうべく歩き出す。

「きみの恋人はもういないんだ、今日子」

お読みいただきありがとうございました。

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