第2話:華やかな妹と、搾取される姉
氷のように冷え切った大理石の廊下を、エリアーナは軋む膝を庇いながら一歩ずつ進んでいた。
腕の中に抱えた分厚い書類の束は、夜を徹して仕上げたロシュ侯爵領の全収支決算書と、今後半年の灌漑・流通改善計画書だ。数十枚に及ぶ羊皮紙はずっしりと重く、感覚の麻痺しかけた指先に食い込んでいる。
徹夜で【万物最適化】の異能を使い、領地全土の結界維持に魔力を吸い取られた身体は、まるで鉛の塊を引きずっているかのようだった。視界の端が時折チカチカと白く明滅し、胃のあたりがきゅっと締め付けられるように痛む。
すれ違う使用人たちは、彼女の姿を認めると露骨に眉をひそめ、壁際へと身を引いた。
だが、それは次期侯爵夫人となる身分高い令嬢への敬意からではない。
「……まあ、あんな煤けたような格好をして」
「今日もまた下女のように書類を抱えて……。本当に伯爵家の血筋なのかしらね」
「見ているこちらまで気が滅入るわ。ティファーヌ様とはまるで月とスッポンですこと」
忍び笑いと共に投げかけられる無遠慮な囁き声が、冷たい空気を通じて耳朶を打つ。
エリアーナは何も言わず、ただうつむいて歩調を早めた。
反論する気力すらなかったし、何より彼女自身、使用人たちの言葉を「もっともだ」と受け入れてしまっていたからだ。華やかさも愛嬌もなく、ただ黙々と机にしがみついて数字を合わせるだけの自分。誰からも好かれないのは、己の努力が足りないせいなのだと。
やがて辿り着いた大食堂の重厚な扉の前で、エリアーナは深く息を吸い、姿勢を正した。
ノックをして扉を開けると、そこには自分がいた薄暗い執務室とは別世界のような、目も眩むばかりの暖気と光が満ちていた。
巨大な暖炉には惜しみなく薪がくべられ、パチパチと心地よい爆ぜる音を立てている。
磨き上げられたマホガニーの長テーブルには、銀の食器が美しく並べられ、焼きたてのクロワッサンや蜂蜜をかけた白パン、湯気を立てる厚切りの燻製肉、湯煎された濃厚なスクランブルエッグ、そして色鮮やかな果物が所狭しと並んでいた。
その上座に腰掛け、優雅に銀のフォークを動かしていたのが、エリアーナの婚約者――次期侯爵ユリウス・ド・ラ・ロシュであった。
艶やかな金髪を撫でつけ、彫りの深い顔立ちをした美青年。見目だけは絵画のように整っているが、その細められた青い瞳には、隠しきれない傲慢さと底の浅い虚栄心が滲み出ている。
そしてその隣には、蜜色の巻き毛を揺らし、華奢な身体を最新流行のペールピンクのシルクドレスに包んだ少女――エリアーナの実の妹、ティファーヌが座っていた。
「まあ、ユリウス様! このイチゴ、とっても甘くて美味しいですわ!」
「はは、そうだろう? 王都からわざわざ早馬で取り寄せさせた初物だよ。ティファーヌ、君の愛らしい唇には、そういう最高のものこそがふさわしい」
「嬉しい……! ユリウス様って、本当に世界一素敵な殿方ですわ」
甘ったるい笑い声が食堂に響き渡る。
二人の親密な空気は、まるで新婚の夫婦そのものであり、そこに本来の婚約者であるエリアーナの入り込む余地など微塵も存在しなかった。
エリアーナは胸の奥を小さく刺すような痛みを覚えながらも、静かに一礼した。
「……おはようございます、ユリウス様、ティファーヌ」
その声に、ユリウスはあからさまに不快そうな顔をしてフォークを置いた。
手にしたナプキンで口元を拭いながら、蔑むような視線をエリアーナの足元から頭の天辺まで這わせる。
「……遅いぞ、エリアーナ。朝食の席に主を待たせるとは、どのような育ち方をすればそうなるんだ? ただでさえ愛嬌がないというのに、礼儀作法まで欠如しているのか」
「申し訳ありません。昨晩ご指示いただいた決算書と、各事業の精査を終わらせてまいりましたので、ご確認をお願いしたく存じます」
エリアーナは両手で書類を捧げ持ち、ユリウスの卓上へと丁重に置いた。
数百枚に及ぶ複雑怪奇な数値を、一人で検算し、支出の無駄を極限まで削ぎ落とし、赤字寸前だった領地財政を黒字へと押し戻すための具体策が完璧にまとめられた、血の滲むような成果物である。
だが、ユリウスはそれをペラペラと数枚めくっただけで、大仰なため息をついて机に放り投げた。
バサリ、と乾いた音がして、端がわずかに折れる。
「ふん……やっと終わったのか。言っておくが、これしきの書類整理に丸一日以上かけるなど、手際が悪すぎるにも程があるぞ。これだから実務経験のない女は困るのだ」
「……ですが、ユリウス様。前任の代官たちが過去三年間にわたって誤魔化していた使途不明金の追及と、商業ギルドへの折衝案も盛り込んでおりますので、どうしても精査が必要で――」
「言い訳をするな!」
ユリウスは苛立ちを露わにして机を叩いた。銀のティーカップがカタツリと揺れる。
「私の指示が的確だったからこそ、お前のような無能でも形にできたのだろうが! そもそも、この領地がこれほど円滑に回っているのは、私の類まれなる指導力と家柄のおかげだ。お前はただ、言われた通りにペンを動かしただけの雑用係に過ぎん。自分の手柄のように語るな、身の程知らずが」
ユリウスは書類の束を引き出しの奥へと雑に押し込んだ。
その表紙に書かれたエリアーナの名を、あとで自分の名前に書き換えて領主である父に提出するつもりなのだ。これまでもずっとそうしてきたように。
「まったく、朝から陰気な顔を見せられて飯が不味くなった」
ユリウスが吐き捨てると、隣に座っていたティファーヌが、わざとらしく小首を傾げてクスクスと笑い声を漏らした。
「まあ、ユリウス様、お姉様をあまり責めないであげてくださいな。お姉様には、私のように殿方を喜ばせる気の利いた会話も、サロンを華やかに彩る魅力もありませんもの。せめてそうやって、下働きのようなお仕事くらいしかお役に立てる道がないのですから」
ティファーヌは瑞々しい果実を口に運びながら、憐れむような、それでいて底知れぬ優越感に満ちた目をエリアーナに向けた。
「お姉様、そんなボロボロの古いドレスを着て、顔色も土気色で……幽霊みたいで気味が悪いですわよ? 少しは身だしなみに気を配られたらどうですの? 侯爵家の品位が下がってしまいますわ」
「ティファーヌ、私は執務室で作業をしておりましたので……」
「あら、言い訳はお見苦しいですわ! 女の価値は、殿方に愛される美しさと愛嬌ですのよ? 一日中部屋に籠もって小難しい紙切れとにらめっこしているなんて、女を捨てている証拠ですわね」
ティファーヌの言葉に、ユリウスは相好を崩し、その豊かな巻き毛を愛おしそうに撫でた。
「ああ、本当にその通りだ。ティファーヌ、君のその澄んだ瞳と愛らしい笑顔こそが、この殺風景な屋敷を、ひいてはこの領地全体を明るく照らしているのだよ。君の存在そのものが、我が領地に対する最大の貢献だ」
「まあ、ユリウス様ったら! 嬉しい!」
「君にはもっと美しく着飾ってもらわねば困る。……そうだ、ティファーヌ。頼んでいた例の物が届いているぞ」
ユリウスが指を鳴らすと、控えていた従僕たちが大きな衣装箱を恭しく運び込んできた。
蓋が開けられると、食堂の中にため息が出るような輝きが溢れ出す。
王都屈指の高級仕立屋に特注した、最高級のシルクとレースをふんだんに使ったドレスだった。朝露を浴びた薔薇のような淡い紅色の布地には、銀糸で精緻な刺繍が施され、胸元には大粒のダイヤモンドが惜しげもなく散りばめられている。一着で小さな村の半年分の予算が消し飛ぶほどの贅沢品だ。
「きゃああっ! 素敵! これ、王都の流行の最先端のデザインじゃありませんの!」
ティファーヌは歓声を上げ、ドレスにすがりついて目を輝かせた。
「数日後の建国記念の夜会のために、私が特別に誂えさせたのだ。ティファーヌ、これを着て私の隣に立ってくれ。君のような至高の薔薇こそが、次期侯爵たる私の伴侶として社交界にお披露目されるにふさわしい」
「はい! 喜んで、ユリウス様! 私、世界で一番幸せですわ!」
二人が抱き合わんばかりに見つめ合う光景を、エリアーナは呆然と見つめていた。
そのドレスの購入代金――請求書の処理をしたのは、昨晩のエリアーナ自身だった。
領地の財政が逼迫し、飢饉に備えるための備蓄穀物の購入費すら削らざるを得ない状況の中で、ユリウスが独断で通した莫大な遊興費のツケ。それを補填するために、エリアーナは夜を徹して他の予算を極限まで削り、帳尻を合わせたのだ。
それなのに、買い与えられたのは妹で、自分には労いの言葉一つない。
エリアーナの胸の奥で、小さな疑問が首をもたげた。
……建国記念の夜会?
王族や諸侯が一堂に会する、一年で最も格式の高い公式の夜会。
慣例上、そこには正式な婚約者である自分が、ユリウスのパートナーとして出席しなければならないはずだった。
「……あの、ユリウス様」
恐る恐る、エリアーナは口を開いた。
「建国記念の夜会のことですが……。私のパートナーとしての立ち位置や、当日の移動の段取りはどのように……?」
その問いを聞いた瞬間、ユリウスの顔から笑みが消え失せ、あからさまな侮蔑の表情へと塗り変わった。
「は? 何を寝ぼけたことを言っているんだ、エリアーナ」
「え……?」
「お前が私のパートナーとして夜会に出るわけがないだろう。鏡を見たことがあるのか? そのすり切れた雑巾のような灰色のドレス、手入れもされていないボサボサの髪、そしてその生気のない地味な顔だ。そんな貧相な女を連れて王宮に上がってみろ、『ロシュ侯爵家は物乞いでも連れてきたのか』と諸侯から嘲笑の的になるのがオチだ」
胸を刃物で抉られるような言葉が、容赦なく突き刺さる。
エリアーナの指先が、冷たく強張った。
「ですが、私はユリウス様の正式な婚約者で……」
「立場を弁えろと言っているんだ! 婚約など家同士の取り決めに過ぎん。私の隣に立つ資格があるのは、見る者すべてを魅了するティファーヌだけだ。お前のような目障りな女は、会場の隅の裏方で酒樽の搬入の確認や、使用人の給仕の差配でもしていろ!」
「裏方……ですか?」
「そうだ。裏方ならば誰の目にも触れまい。せいぜいお前の得意な『雑用』で、私の顔に泥を塗らないよう尽力するんだな。ああ、言っておくが、夜会用のドレスなど新調する金はないからな。手持ちの適当な古着を羽織っておけ。お前にはそれで十分すぎる」
ユリウスは吐き捨てるように言い放ち、再びティファーヌへと向き直って、甘い声でデザートを勧め始めた。
ティファーヌはドレスを胸に当てて鏡の前でポーズを取りながら、通り過ぎる際にエリアーナの耳元へ口を寄せ、残酷な声で囁いた。
「聞いたでしょう、お姉様? 身の程を知りなさいな。ユリウス様のお心は、最初から私のものなのよ。お姉様は一生、日陰で私たちのために泥臭いお仕事だけをしていればいいの」
「…………」
エリアーナは何も言えなかった。
唇を強く噛み締め、爪が掌に食い込むほど拳を握りしめる。
怒りや悲しみを通り越して、心の中に広がったのは、底知れない「冷たさ」だった。
――ああ、そうか。
この人たちにとって、私は人間ですらないのだ。
どれほど身を粉にして働いても、どれほど命を削って結界を維持しても、彼らにとって自分は「都合のいい、代わりの利く雑用係」に過ぎないのだ。
暖炉の火の粉が爆ぜる音と、二人の甲高い笑い声が、遠い世界の出来事のように響いていた。
「……かしこまりました、ユリウス様」
エリアーナは深く、深く頭を下げた。
「ご指示の通り、夜会では裏方の務めに専念いたします」
「ふん、物分かりだけはいいな。目障りだ、さっさと執務室に戻って午後の免税書類を片付けておけ」
「失礼いたします」
エリアーナは音もなく踵を返し、食堂の重い扉を閉めた。
扉の向こうから、ティファーヌの「あーあ、陰気な人がいなくなって空気が美味しくなりましたわ!」という嘲笑が漏れ聞こえてきたが、もはや振り返ることはなかった。
薄暗い廊下を歩きながら、エリアーナは胸の奥で何かが静かに、決定的に冷めきっていくのを感じていた。
かつて母が遺してくれた言葉――「エリアーナ、あなたの力はいつか、本当にあなたを必要としてくれる人のために使いなさい」という声が、記憶の底から蘇る。
(私を必要としてくれる人……)
ここにはいない。最初から、どこにもいなかったのだ。
彼らが愛しているのは、エリアーナが整えた「都合のいい繁栄」だけであり、エリアーナという人間そのものではない。
だが、ユリウスもティファーヌも、そして屋敷中の使用人たちも、まだ決定的な事実を理解していなかった。
今、ユリウスが引き出しに放り込んだ決算書も、彼らが贅沢に消費している温かい食事も、屋敷を心地よく保つ空気も、そして何より領地全土を魔物の脅威から守っている強固な結界も――。
そのすべてが、彼らが「無能で地味な雑用係」と見下しているエリアーナの、たった一つの奇跡によって支えられているのだということを。
数日後に迫る建国記念の夜会。
そこで自分を待ち受けているであろう、さらなる理不尽を予感しながらも、エリアーナの瞳には微かな、しかし決して消えない静かな光が宿り始めていた。
(……もう、いいのかもしれませんね)
すり切れた袖口を握りしめ、エリアーナは自分の冷え切った執務室へと静かに戻っていった。
破滅への時計の針が、確実に音を立てて進んでいることにも気づかずに笑い合う、愚かな者たちを残して――。




