第6話王都への道
朝のレナス村は、いつもより静かだった。
畑へ向かう足音もない。井戸端で笑う声もない。子供たちの騒ぐ声も聞こえない。
村人たちは皆、村の入口に集まっていた。
俺たちを見送るためだ。
いや。
正確には、俺を見送るためだ。
魔族に狙われた少年。天使に浄化対象と呼ばれた少年。天魔滅殺隊が王都へ連れて行く少年。
昨日まで、ただの村の子供だったはずの俺は、一夜で村にいられない存在になった。
母は荷物を抱えている。父は弓と短剣を腰に下げていた。
天魔滅殺隊の四人は、すでに出発の準備を終えている。
レオンは馬車の横に立ち、村の外を見ていた。ミラは槍の手入れをしている。ガルドは眠そうに欠伸をしていた。ノアは分厚い報告書の束を抱えて青い顔をしている。
「……これ、王都に着く前に追加報告が必要ですよね」
ノアが呟く。
ガルドが肩を叩いた。
「頑張れ、学者くん」
「あなたも報告対象なんですけどね。天使相手に結界を無視して突撃した件」
「細かいこと書くなよ」
「書きます」
ミラが冷たく言った。
「ガルドの反省文も追加で」
「おい」
そんなやり取りを聞きながら、俺は村の入口に立っていた。
村長が前に出る。
「シオン」
「何」
村長は困ったように笑った。
「いや、何と言えばよいか分からん」
それはそうだろう。
五歳の子供に向ける別れの言葉としては、状況が特殊すぎる。
村長はしばらく唸ったあと、頭を下げた。
「村を守ってくれて、ありがとう」
周囲の村人たちも次々に頭を下げた。
「ありがとう、シオン」
「トマスを助けてくれてありがとう」
「カイルを助けてくれてありがとう」
責められると思っていた。
お前のせいで魔族が来た。お前のせいで天使が来た。お前がいなければ村は平和だった。
そう言われても仕方ないと思っていた。
だが、誰もそう言わなかった。
胸の奥が、少し痛んだ。
痛むということは、まだ感じられているということだ。
母が俺の背中にそっと手を置いた。
「よかったわね」
「……分からない」
「分からなくてもいいの」
母は微笑んだ。
「今は、覚えておけばいいのよ」
覚えておく。
この村の空気。朝の匂い。村人の声。母の手の温かさ。
前世の俺なら、すぐに捨てた記憶だ。
任務に不要なものは、心を鈍らせるだけだった。
だが今は、捨てたくないと思った。
カイルが人混みを押しのけて走ってきた。
「シオン!」
昨日、人質にされた少年。
首にはまだ薄く黒い痕が残っている。
カイルは俺の前に立ち、拳を突き出した。
「王都に行っても、俺のこと忘れるなよ」
「忘れない」
「本当か?」
「本当だ」
「じゃあ、次会ったら木登り勝負だからな」
「まだやるのか」
「当たり前だろ!」
カイルは笑った。
その笑顔を見て、胸の奥の冷たさが少し薄れた。
俺は小さく拳を合わせた。
「分かった」
カイルは満足そうに頷いた。
「絶対戻ってこいよ」
「……ああ」
戻れるかは分からない。
だが、戻りたいと思った。
レオンが声をかける。
「出発する」
馬車が動き出した。
父と母が乗り、俺も後に続く。
レオンたちは馬で周囲を固める。
村人たちが手を振っていた。
俺は馬車の窓から、遠ざかる村を見た。
小さな家々。畑。森。俺が静かに生きようとした場所。
その景色が、少しずつ遠くなる。
母が隣に座り、俺の手を握った。
「寂しい?」
俺は答えるまで少し時間がかかった。
「たぶん」
母は笑った。
「それでいいのよ」
「寂しいのは、いいことなのか」
「大切だったってことだから」
大切。
その言葉を、俺は心の中で何度か繰り返した。
王都への道は、森を抜け、丘を越え、川沿いを進む長い旅になる。
普通なら十日ほどかかるらしい。
だが天魔滅殺隊が護衛につくため、途中の宿場町や軍の拠点を使いながら進む予定だった。
馬車の中で、父は何度も外を確認している。
「落ち着かない?」
母が尋ねた。
「落ち着くわけないだろう」
父は小声で答える。
「天魔滅殺隊に護衛されて、王都に向かってるんだぞ。昨日まで鹿を追ってた猟師が」
「似合ってるわよ」
「どこがだ」
母がくすりと笑う。
父の緊張が少しだけほぐれた。
俺はその会話を聞いていた。
前世で旅をした時は、常に任務中だった。
誰が敵か。どこが狙撃地点か。毒を盛られる可能性は。逃走経路は。標的の癖は。
そういうことばかり考えていた。
今も、考えようと思えば自然に考えられる。
森の右側に気配が三つ。鳥ではない。小動物でもない。おそらく偵察用の魔物。
左の崖上は見通しが悪い。襲撃するならそこ。
前方の橋は罠に適している。
俺が窓の外を見ていると、馬で並走していたレオンが声をかけた。
「気づいているか」
「右の森に三つ。前方の橋が怪しい」
レオンの眉がわずかに動いた。
「やはり気づくか」
「あなたも」
「ああ」
レオンは前方を見た。
「ノア」
後方の馬からノアが顔を上げる。
「はい」
「橋の手前で止まる。探知を」
「了解です」
ミラが退屈そうに槍を回した。
「魔族?」
「分からない」
レオンは答えた。
「だが、誰かが見ている」
馬車が橋の手前で止まった。
父が弓に手を伸ばす。
母が俺の肩を抱く。
俺は窓から外を見た。
橋は古い石造り。下には深い川が流れている。
表面上は何もない。
だが、橋の中央に魔力の歪みがある。
術式を隠している。
爆裂か。崩落か。いや、違う。
空間固定。
渡った者を橋の上に縫い止め、そこへ攻撃を集中させる罠だ。
ノアが魔導書を開いた。
「橋に術式あり。かなり巧妙です」
ミラが舌打ちする。
「魔族ね」
「魔族式ではありますが、少し変です」
ノアは眉をひそめた。
「わざと見つかるように作ってあります」
レオンが俺を見た。
「誘いか」
「たぶん」
俺は橋の向こう側を見た。
森の奥に気配がある。
数は一つ。
昨日のゼルグではない。
もっと重い。もっと鋭い。
まるで、抜き身の剣が人の形をしているような気配。
「強いのがいる」
俺が言うと、ミラの目が光った。
「どれくらい?」
「あなたより上」
ミラの眉が跳ねた。
「言うじゃない」
「事実だ」
「あとで覚えてなさい」
ガルドが笑う。
「怒るなよミラ。俺もお前より強いと思うぜ、あの気配」
ミラが睨む。
「あなたもあとで」
ノアが小声で言った。
「僕は何も言ってません」
森の奥から、一人の男が現れた。
黒い鎧。灰色の髪。額に二本の角。
魔族。
だが、ゼルグとは格が違う。
男は橋の向こうで立ち止まり、こちらへ歩いてこなかった。
「天魔滅殺隊隊長、レオン・グランゼル」
低い声が響く。
「そして、神域属性の子供」
レオンが剣に手をかける。
「名乗れ」
男は無表情に答えた。
「魔王軍第七将、ヴァルガ」
空気が変わった。
ミラが槍を構え、ガルドが籠手を鳴らし、ノアの顔が青ざめる。
魔王軍の将。
人間の国では、災害級の敵として記録される存在。
都市一つを滅ぼす力を持つ者もいる。
レオンは静かに剣を抜いた。
「魔王軍の将が、なぜこんな場所にいる」
「確認に来た」
ヴァルガの視線が俺に向く。
「世界を壊せる子供が、本当に存在するのか」
「確認できたなら帰れ」
俺は言った。
馬車の中が静まり返る。
父が額を押さえた。
「シオン……」 ミラが小さく笑った。
「この子、魔王軍の将にもその態度なのね」 ヴァルガは怒らなかった。 ただ、俺を見ていた。 「その目」 「何だ」
「戦場を知る者の目だ」
俺は黙った。
ヴァルガは続ける。
「子供の目ではない」
レオンが一歩前へ出る。
「シオンに何の用だ」
「勧誘ではない」
意外な言葉だった。
「ゼルグは君を魔族側へ引き込もうとしたようだが、私は違う」
「なら何だ」
ヴァルガは剣を抜いた。
黒い大剣。
ただ抜いただけで、周囲の草が裂けた。
「試す」
瞬間、ヴァルガの姿が消えた。
速い。
レオンが反応する。
剣と大剣がぶつかり、衝撃が橋の石を砕いた。
父と母が息を呑む。
ミラとガルドが左右から動く。
ノアが結界を展開する。
レオンは押されていた。
天魔滅殺隊隊長が、正面から力負けしている。
ヴァルガは表情一つ変えず、大剣を振る。
一撃ごとに空気が唸る。
レオンの剣技は見事だった。
受け流し、角度をずらし、反撃を差し込む。だがヴァルガは、それを力と速度で潰していく。
ミラの槍が横から入る。
ヴァルガは大剣の柄で受け、蹴りで弾いた。
ガルドの拳が迫る。
ヴァルガは肩で受けた。
衝撃で地面が割れる。
だが、ヴァルガは一歩も下がらない。
「人類最強」
ヴァルガは淡々と言った。
「この程度か」
ミラの顔に怒りが浮かぶ。
「言ってくれる!」
槍が赤く燃える。
ノアが叫ぶ。
「ミラさん、前に出すぎです!」
ヴァルガの大剣が振り下ろされる。
ミラの槍が折れかけた。
その瞬間、俺は馬車を降りていた。
母が俺の腕を掴む。
「シオン!」
「すぐ戻る」
「だめ!」
母の手は震えていた。
昨日の天使との戦いが頭に残っているのだろう。
俺は母を見た。
「殺さない」
「そういう問題じゃないの」
「分かってる」
たぶん、全部は分かっていない。
母が何を恐れているのか。俺が傷つくことか。俺が誰かを傷つけることか。俺が自分ではなくなることか。
その全部かもしれない。
「でも、放っておけない」
母は唇を噛んだ。
父が母の肩に手を置く。
「行かせよう」
「あなた」
父は俺を見た。
「約束しろ。戻ってくると」
「約束する」
母の手がゆっくり離れた。
俺は地面に降り立つ。
木刀を抜く。
橋の上では、レオンたちが防戦一方だった。
ヴァルガの大剣がレオンの肩を狙う。
俺は空間を踏んで跳んだ。
木刀で大剣の軌道をずらす。
衝撃が腕に響く。
重い。
五歳の体では、普通なら骨が砕ける。
俺は覇気を骨と筋肉に流し、衝撃を逃がした。
ヴァルガの目が俺を捉える。
「来たか」
「試すと言ったな」
「ああ」
「なら俺も試す」
俺は木刀を構えた。
「魔王軍の将が、どの程度か」
ミラが後ろで呟く。
「本当に五歳?」
ガルドが笑った。
「たぶんな」
レオンが俺の隣に立つ。
「一人でやるなと言ったはずだ」
「一人じゃない」
俺はヴァルガを見たまま答えた。
「あなたたちがいる」
レオンは一瞬だけ驚き、それから笑った。
「そうか」
ヴァルガが大剣を構える。
「良い」
彼の魔力が膨れ上がる。
黒い炎ではない。重い闇。大地を押し潰すような魔力。
「見せてみろ。神域属性ではなく、お前自身の力を」
「望むところだ」
俺は破壊を使わない。
創造も使わない。
時間も空間も、最低限。
今は剣と覇気だけでいい。
ヴァルガが踏み込む。
橋が砕ける。
大剣が迫る。
俺は木刀を合わせた。
正面からは受けない。力を流す。軌道を逸らす。刃の根元を叩く。
前世の忍術剣。
この世界の覇気。
二つが重なる。
ヴァルガの大剣がわずかに跳ねた。
その隙に、レオンの剣が入る。
ミラの槍が足元を狙う。
ガルドの拳が胴を打つ。
ノアの拘束魔法が腕に絡む。
初めて、ヴァルガが一歩下がった。
「連携か」
レオンが答える。
「人間の強みだ」
俺は続けた。
「一人で足りないなら、合わせればいい」
ヴァルガの口元が、わずかに上がった。
「面白い」
次の瞬間、彼の魔力が爆発した。
ノアの拘束が砕ける。
ミラとガルドが吹き飛ばされる。
レオンが踏みとどまる。
俺も地面に足を沈めて耐えた。
ヴァルガは大剣を上段に構えた。
「では、これはどうする」
黒い魔力が大剣に集まる。
橋だけではない。
川も、森も、馬車も、全てが斬撃範囲に入っている。
広域斬撃。
避ければ、後ろの父と母が巻き込まれる。
止めるしかない。
破壊を使えば簡単だ。
だが、使わない。
俺は木刀を両手で握った。
断覇。
空間を切断する覇気。
ただし、攻撃ではない。
斬撃の通る空間だけを切り離す。
ヴァルガの大剣が振り下ろされた。
黒い斬撃が世界を裂くように迫る。
俺は木刀を振った。
黒い斬撃と、俺の断覇がぶつかる。
空間が歪む。
音が消える。
一瞬、世界が静止したように見えた。
そして。
ヴァルガの斬撃が、俺たちの前で二つに割れた。
左右に逸れた斬撃は、川の水面を裂き、森の一部を吹き飛ばした。
だが、馬車には届かなかった。
父と母は無事だった。
俺の木刀には、ひびが入っている。
ヴァルガは大剣を下ろした。
「十分だ」
戦意が消える。
レオンが警戒を解かない。
「何のつもりだ」
ヴァルガは俺を見た。
「確認は終わった」
「それだけで襲ったのか」
「そうだ」
ミラが怒鳴る。
「ふざけるな!」
ヴァルガは彼女を見もしなかった。
「シオン」
俺は黙って見返す。
「魔族の中にも、君を利用しようとする者がいる。殺そうとする者もいる。崇める者も出るだろう」
「興味ない」
「だろうな」
ヴァルガは剣を収めた。
「だが覚えておけ。天使は必ず次を送る」
「知っている」
「人間も、いずれ君を縛ろうとする」
レオンの表情がわずかに変わる。
ヴァルガは続けた。
「その時、君がどちらにも属さぬと言うなら」
彼の目が鋭くなる。
「力だけでは足りない。仲間を選べ」
仲間。
その言葉を、魔族の将から聞くとは思わなかった。
「なぜ助言する」
俺が尋ねると、ヴァルガは少しだけ空を見た。
「昔、君と同じ目をした者を知っていた」
「その人はどうなった」
「世界を憎み、最後は世界に殺された」
風が吹いた。
ヴァルガの姿が黒い霧に包まれる。
「同じ道を行くな、神域の子」
彼は消える直前、低く告げた。
「王都に、君を歓迎しない者がいる」
黒い霧が散った。
橋の上には、砕けた石と沈黙だけが残る。
レオンが剣を収めた。
「魔王軍第七将ヴァルガ……厄介な男だ」
ミラは悔しそうに折れかけた槍を見ている。
ガルドは肩を回しながら笑った。
「いやあ、死ぬかと思った」
ノアは震えながら記録を取っている。
「報告書が……報告書が増える……」
俺は木刀を見た。
ひびが入っている。
父が馬車から降りてきた。
「シオン!」
母も駆け寄る。
俺は振り返った。
「戻った」
母は俺を抱きしめた。
「約束を守ってくれてありがとう」
その声に、胸が温かくなる。
まだ大丈夫だ。
俺はまだ、戻ってこられる。
レオンが壊れた橋を見た。
「迂回する。予定より時間がかかるな」
ノアが地図を広げる。
「近くに宿場町があります。今日中にそこへ」
「警戒を強める」
レオンは俺を見る。
「王都まで、まだ何か起きるだろう」
「だろうな」
「嫌になるか」
俺は少し考えた。
「もうなっている」
レオンが笑った。
「正直でいい」
馬車は橋を避け、森沿いの道へ進み始めた。
俺は窓から外を見た。
魔族の将ヴァルガ。
天使セラフィア。
天魔滅殺隊レオン。
世界は、俺を中心に少しずつ動き始めている。
俺はただ、静かに生きたいだけなのに。
だが、ヴァルガの言葉が頭に残っていた。
仲間を選べ。
前世の俺には、仲間などいなかった。いたのは上官と、同じ任務をこなす道具たちだけ。
今世では違うのだろうか。
父。母。レオンたち。村の人々。
彼らは、俺を道具として見ていない。
少なくとも、今は。
遠くに宿場町の灯りが見えた。
そのさらに先に、王都がある。
そして王都には、俺を歓迎しない者がいる。
俺はひび割れた木刀を握り直した。
静かな明日を選ぶために。
まずは、この騒がしい世界を知らなければならない。
第6話 完




