第一話 ①
寂れた社を構える岩鳴神社において、今日も今日とて神に仕える鬼が怒鳴り声を響かせた。
「おいジジイ!冷蔵庫に入れておいた大福、勝手に食いやがったな!『とうげん』って名前書いてあっただろうが!」
ドゴォンと築50年の社務所が物理的に揺れる。声を荒らげているこの鬼は、身長およそ2メートル、筋骨隆々の上半身は裸のまま白袴を穿き、頭には雄羊の如き二本の螺旋角が生え、左胸に巴紋の刺青が入った大男―――岩鳴神社主祭神の眷属、名を「燈源」という、本物の鬼である。
鍛え上げられた大胸筋をわなわなと震わせ、怒りを向けるその相手は、今しがた縁側でズズズと茶を啜る痩せ細った老人。浮き出た鎖骨肋骨が鳶色の着流しから覗き見え、長い白髪白鬚を生やした貫禄のある老翁―――彼こそがこの岩鳴神社の主祭神にして、災厄を司る畏れ多き御神、名は岩鳴禍津日神、通称「岩鳴さま」という、正真正銘の神さまである。
歪な光景だが、岩鳴神社においては眷属の鬼が自らの仕える主神に怒りをぶつける姿は珍しくない。当の主神は至って冷静に答える。
「たわけめ。ここはわしの神域であるぞ、そう騒ぎ立てるでない。『とうふ』と見間違えて食うただけじゃ。平仮名で書いたお主が悪い」
「大福と豆腐を間違えて食う奴があるか!どこまで耄碌してやがる。今すぐコンビニ行って買って来い!弁償しやがれ」
耄碌、という言葉が主祭神岩鳴さまの御怒りに触れたのだろう。
「貴様、主神に向かって命を下すか!耄碌とはなんじゃ!この恩知らず、クソ鬼!」
「うるせえ、やるかジジイ!神がクソとか言ってんじゃねえ」
そこにいたもう一人が慌ててこの二人を、もとい二柱を止めに入る。ここまでが日常風景である。
「ちょっと待ってストップ、ストップ!声が大きいですよ、ふたりとも。外の参拝客に聞こえたらどうするんですか。燈源もそんなことでいちいち怒るなよ。岩鳴さま、どうかお鎮まり下さい。御山が噴火してしまいます」
こうして神と鬼の間に割って入るのは、普通の大学一年生、つまり19歳の人間である。彼の名は夏川凪翔。夏川家の長男として、後に岩鳴神社を受け継ぐ次期宮司である。
凪翔当人としては、この神社を将来引き継ぐなど考えただけで恐ろしく憂鬱になるという。なにしろ、そこに御鎮座まします御祭神とその神使がいつもこの調子である。喧嘩を宥めなくてはどんな災いが起きるか分かったものではない。
「俺が買ってやるから、落ち着いてくれ燈源。大福でいいか?饅頭か、それともシュークリームにするか?」
「ううむ・・・生クリームとカスタードが入ったやつで頼む」
燈源の怒りが緩やかに静まり、ツインシューを要求してきた。いかにも暴君、炎を操る鬼という見た目のくせに、案外甘党なのだ。
「ほっほっほ。凪翔は本当に優しい青年に育ったのう。それに比べて燈源。お主は500年経っても角しか成長せぬの。辛抱が足りぬは情けなし。甘味が足らずんば幼子の如し。我が氏子を少しは見習え」
「んだと、このぉ!」
「ああもう、やめろ燈源!」
厳粛な氏子方にこうした3人のやり取りを見られてしまっては、この地域で信仰されている「禍事、災厄を司る山の神社」としての敬愛など消えて無くなるだろう。
凪翔は沓脱でお気に入りのニューバランスを履きながら、岩鳴に尋ねた。
「岩鳴さまは、何か買ってきて欲しいものはありますか?」
「うむ。日本酒を一升たのむ。神饌の神酒を切らしてもうての。あ、ちょいと。勾玉は持ったか?」
「すぐそこのコンビニに行くだけです。すぐに戻ります。あと、私は未成年なので、お酒は買えません」
尤も、コンビニに一升瓶など売っているのだろうか。
「ならん。結界から出るときは、必ず肌身離さず持っておれ。ここ最近、山の地脈が妙に乱れておるのでな。何があるか分からん。持って行け」
「分かりました。首に下げておきます」
この黒い艶を放つ黒曜石でできた勾玉は、岩鳴の御霊の一部が宿された「帷勾玉」という。凪翔が7歳の頃から、神社の外では常に持ち歩くようにと、当時の宮司であった祖父から再三釘を刺されてきたものだ。神が視える者には、とかく魑魅魍魎の類が寄り付きやすいのだ。
社務所の裏側、拝殿からは死角になっている居間の縁側から外に出て、燈源と共に参道を通る。境内には参拝客が疎らにおり、一眼レフを構え風光明媚な社の姿や季節に咲く金木犀をファインダーに収める者や、のんびりと静けさを堪能しながら散歩する者、デート中の地元の高校生カップルもいた。どれも皆、思い思いに境内で寛ぐ平穏な光景であった。
その中を進む青年と鬼の二人。向かう先の目的はシュークリームである。
「平和だなぁ、凪。誰も地脈の乱れなんかには、全く気付きやしねえ」
燈源が話し掛けると、凪翔は周囲を一瞥してから声を潜めた。
「・・・あまり人前で話しかけないでくれ。見られたらどうする」
鬼の姿は一般の人間には視えない。敢えて聞こえるように話さなければ、鬼の声が聞かれることもない。たまに素質がある者が気配を感じ取ることはあるが、はっきり視える者はそういない。だが、凪翔が気にするところはそこではないのだ。
「別に誰も見ちゃいねえよ。ぼーっとして、写真撮って、あといちゃいちゃしている奴らだけ」
「ひとりでぼそぼそ喋っているおかしな奴がいるってなるだろ、ここに」
「見てねえって。誰も」
鬼の姿が見えない以上、燈源との会話は周りから見れば、年若い男が一人で喋っている、何とも不穏な光景である。不審人物と認識されることは何よりも避けたいのだ。
二の鳥居をくぐり境内から出て、石造りの階段を下れば、すぐに街中に出られる。階段の途中、左手側に現れる民家が凪翔の自宅である。
この周囲には人がいないことを確認して、凪翔が口を開いた。
「最近妙に怪異が増えているような気がするけど、やっぱり地脈と関係があるのかな。岩鳴さまの言う通り、地脈の流れが変わってきているのか」
「あのジジイが言うことだ、地脈の変化はまず間違いないだろうな。ただ怪異が増えていることと関係があるか断言はできねえだろうさ」
「そういうものなのか」
「ああ。妖怪も悪魔も神も鬼も、生まれる原因はいくらでもある。現代人のうんと暗くなった心から、どれだけの闇が生まれていることか。増えた妖魔も怪異も、どれだけ地底の拍動が絡んでいるか、分かったもんじゃねえよ」
500年以上生きてきた鬼が、さりげなく現代日本人への憂いを口にした。
凪翔たちが対峙する怪異は、あらゆることが原因で自然発生するものである。人の心から生まれる闇、自然のエネルギーが生み出す神秘的な脅威、信仰を失い妖魔に没落した神、そして地中深くに蠢き循環する、天とは究極の正反対に位置する灼熱の神威「地脈」。
この「地脈」の凄まじいエネルギーから波濤のように地上へ放たれる怪異は、怪異というには生温い、絶大なエネルギーである。
古の時代、多くの退魔が夥しい数の犠牲を払いながら地脈の猛威を鎮め、今日まで日本人が生き長らえてきたという隠れた歴史がある。地脈の乱れとは、地下からの強大な怪異が訪れる予兆ではないかという懸念が、凪翔たち岩鳴一門の中で不穏に漂っているのだ。現に、怪異は少しずつ増えている。
とはいえ、怪異が増えている原因は必ずしも地脈にまつわるものばかりでない、と燈源は述べたのである。
最下段にある一の鳥居をくぐって街中に出たら、この先は人気が多くなるため会話は一旦中断した。ここからはコンビニまでは程近い。
凪翔は一人で歩いている様子を演出するため、街中では燈源と目を合わせず、自然な前方直視を心掛けている。
燈源はそれを知った上で意気揚々と話し掛けて来た。
「少し小腹も空いてきたな。凪、ナナチキも買っていいか?」
―――絶対言うと思った。
何も応えず、凪翔は努めて自然に前を見て歩く。
「あとコーラと、ビールと、チョコパイとショートケーキも欲しいところだ」
―――どんな組み合わせだ。ビールの肴にチョコパイとケーキってなんだ。しかも俺は未成年だぞ。
「ついでに、『お美魔女ミソジ』の一番くじもやっていたら引いてくれ。一等当てたら本殿の神床に飾る」
―――何を言ってるのだこの鬼は。そんなことをしたら岩鳴さまの禁忌に触れるどころではないぞ。
無言で拒否の意思を伝えたつもりだった。
「カレーパンも旨いよな。あれ、何買いに来たんだっけ」
「シュークリーム1つしか買わないぞ。あっ・・・」
しつこいので冷淡に言い放ち、燈源を見やった瞬間に息をのんだ。やってしまった。
「・・・いらっしゃいませ。どうぞ、ご自由に」
目線の先、燈源のすぐ後方には緑と赤の「7」マークを纏った店員。その人がいかにも怪訝な表情をして、眉を顰めながらそう言った。




