プロローグ
今朝掃除したばかりの廊下が汚されていた。
濁った泥水。枯れた草花。庭園に撒かれている砂利。異臭を放つ残飯。埃一つないほどに磨き上げたはずの廊下は今、それらによって思わず視線を逸らしたくなるほどの惨状になっている。とても人が歩ける状態ではない。
嗚呼、またか。
小さな溜め息を吐いて肩を落とした私は胸中で呟き、少しの間、その場に立ち尽くした。
もはや驚きも、悲しみも、腹立たしさもない。
よくあることなのだ。こういう陰湿な嫌がらせは、数日前にもあった。何も珍しいことじゃない。ここでは、もはや日常のものとすら言える。
「何よこの汚い廊下は」
ふと、背後から聞こえた足音と不愉快そうな声。
肩越しに振り返ると、そこには数人の官人の女性が立っていた。全員、名前は知らない。けれど全員、顔は知っている。私と彼女たちは共に同じ御方に仕えており、毎日顔を合わせているから、嫌でも憶えてしまう。
現れた彼女たちは、汚れに塗れた廊下と私を交互に見やり──笑っていた。愉快そうに笑みを浮かべ、それを隠すように片手を口元に当てている。嘲笑。人の不幸が楽しくて仕方がないようだ。
なるほど、今日はこの人たちが……。
「本当に貴女は使えない小娘ね」
集団の先頭に立つ、首に白い布を巻いた女性が一歩私に近付いた。
彼女たちの中で最も私を毛嫌いしている人だ。
「今朝の内に廊下の掃除を終わらせておくよう命じたはずでしょう。この有様はなに? ここは水仙様の邸宅よ? これでは高貴なる御方どころか、民草ですら歩くことができないわよ」
「……申し訳ありません」
私は深く頭を下げた。
言い訳はしない。同じ官人であっても、あちらは貴族。対する私は人以下の奴婢。身分は天と地ほどに離れている。下手に口答えをすれば平手が飛んでくる。感情を殺し、非を受け入れるのだ。
「……フンッ!」
私の反応が気に食わなかったのだろう。
彼女は不愉快そうに鼻を鳴らし、垂れ下がった私の髪を乱暴に払った。
「さっさと掃除なさい、泥娘!」
「はい……」
返事をし、彼女たちが立ち去ったことを確認した私は下げていた頭を上げ、掃除道具を取りに向かう。
気分は憂鬱。心模様は曇天。気を抜けば口から弱音が零れ落ちてしまいそうになる。
けれど、堪える。我慢する。
辛くなんてない。苦しくなんてない。寂しくなんてない。
今までもずっとこうだった。これからもずっと同じなだけ。
きっと、私はこういう運命なんだ。抗うだけ無駄。何も変わらない。好転することなんてない。だから、余計なことは考えずに、流れに身を任せるだけでいい。
私には──醜い泥娘には、それしかできないのだから。
「……?」
掃除道具を手にした時、ふと感じた視線。
私は小首を傾げて其方に視線を向けるけれど、そこには誰の姿もない。
……疲れてるのかな、私。
謎の視線を自分の勘違いとして片づけ、私は足早に汚れた廊下へと戻る。
この時の私は……嫌なことがあったばかりの私は、気がつけなかった。
感じた視線は勘違いなどではなかったことを。
そして、その視線の持ち主が──私の運命を変える御方であることを。




