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短編作品

白狼獣人の護衛騎士を手放そうとしたのに、どうやら遅かったようです

『──もっと早くこうすればよかった。ようやくこの忌々しい誓約から解放されると思うと、せいせいする』


 激しい憎悪と嫌悪とともに吐き出される言葉。


『ま、待って、フィレン。わたしが悪かっ──』


 命乞いの言葉は最後まで聞いてもらうことすら許されず、鈍く光る剣がルチアの腹部に深々と突き刺さる──……。




 薄紫色の髪と漆黒の瞳を持つ、由緒あるオールディンズ侯爵家のひとり娘、ルチア・オールディンズ。


 十一歳になったばかりのまだ幼さの残る少女。


 その瞬間、激しい既視感とともにルチアが唐突に思い出したのは、前世の記憶とそのとき読んだ小説の内容──。


 それはこれから先、自分の身に起こるであろう悲劇を鮮明に突きつけている。


「──ま、待ってッ!」


 反射的に手を伸ばし叫んだが、ほんのわずか遅かった。

 伸ばした手は虚しく空を切る。


 ルチアの目の前、手枷をつけられ、冷たい床に膝立ちの状態で押さえつけられている相手の額には、いわば奴隷とも言える主従の誓約が完了したことを示す小さな青白い(いん)が浮かんでいた。


 それはやがて皮膚に取り込まれるかのように見えなくなる。


 自分の左手首の内側にも、相手の額に浮かんでいたものと同じ印が浮かんでいたが、それもすぐに消え去る。


 何も見えなくなった部分に、ほんのわずか熱を感じる。


「ルチアお嬢さま、これで誓約は完了ですわ。これでいつでもお嬢さまの意のままに、この者からマナを補給することができますわ」


 髪の長い女が妖艶な唇の両端を持ち上げて笑う。


 ルチアは呆然と佇むしかできない。


 つい先ほど思い出したばかりの記憶──、前世で読んだ小説の原作どおりならば、この誓約のせいでルチアは今から六年後に殺されるのだ。


 目の前の相手、この薄汚れ痩せ細った少年の手によって──。



 月明かりさえも届かない薄暗い地下牢。暗闇の中を照らすのはロウソクの明かりしかない。


 鉄製の手枷をつけられている少年は、雪のような白い髪の合間から覗く金色の瞳をルチアに向けている。


 人と同じような容姿に見えて、金色の瞳は明らかに人とは異なる、獣のような瞳。


 彼の頭上には、獣を思わせるピンと立っている耳。血痕がついているその耳は、怒りによって小刻みに震えている。


 頬には殴られたような痣があり、血が滲む口元からは覗くのは、やけに尖った犬歯。


 ルチアが主従の誓約を強制的に結んだ相手は、白狼はくろう獣人の少年、フィレンに間違いなかった──。





  ◇ ◇ ◇





 王都にあるオールディンズ侯爵邸内、見慣れた広い私室と天蓋付きのベッド。


 大きな窓にかかったカーテンの隙間からは、朝陽の暖かな光が差し込んでいる。


 ルチアが目覚めたとき、すでに朝だった。


「……はあ」


 ベッドの上でなんとか上半身を起こし、ズキズキと痛む頭を押さえながら、苦悶のため息を漏らす。


「どうして思い出すのが、あのタイミングなのよ……」


(せめてあと一日、ううん、あともう数秒でも早ければ、誓約せずに済んだのに……)


 前世で読んだ小説、その中に出てくる脇役のひとり、ルチア・オールディンズ。


 小説と同じく、ルチアは昨夜、白狼獣人のフィレンと誓約を結んでしまった。


 その直後、誓約の負荷がかかったせいなのか、気を失ってしまったらしかった。


「──こうしてはいられないわ! こうなった以上、すぐに動かなきゃ!」


 ルチアは急いでベッドから出て立ち上がると、素早く着替えを済ませ、急いで部屋を出た。





  ◇ ◇ ◇





 屋敷の裏手に回り、地下へと続く階段を下る。


 朝だというのに、光の届かない地下は薄暗い。足元を照らすのは、手にしたランプの明かりだけ。


 先ほどから頭痛に加えて、吐き気や眩暈もしていて、階段から足を踏み外さないよう注意するだけで精いっぱい。壁に手を当て、なんとか体を支えながら先に進む。


(こんなにつらいものなのね……)


 前世の記憶を思い出したこともあり、ルチアは自身の体の状態について客観的に理解する。


 小説の中のルチアは、生まれつき『マナ欠乏症』だった。



 マナは生命力の源とも言えるもので、人や物、自然界に宿るとされ、生きるうえでは必要不可欠なもの。


 人間の場合、マナが不足すると心身に不調をきたす。吐き気や眩暈、耳鳴りなど、あらゆる症状が出るため、悪化すると日常生活もままならなくなる。その状態が続けば、最悪命を落とすこともあるという。


 通常、マナは自身の体内で必要な量が生成されるはずだが、ごく稀に生成する量が極端に少ない者がおり、その者たちがかかる病がマナ欠乏症だった。


 血液のように不足するマナを他者から補えればいいのだが、その方法はこの王国だけでなく周辺国においても確立されておらず、そもそも他者にマナを移せるほど豊富なマナを保有している者を見つけること自体困難だ。


 ルチアの母親は、彼女が三歳のときに病で亡くなった。愛妻を失ったルチアの父親であるオールディンズ侯爵は、残されたルチアをことさら大事にし、なんとか娘の症状を改善させようとあらゆる手を尽くした。



 しかし、ルチアの症状は年々ひどくなるばかり。


 始終不快感と苦痛に襲われ、体と心は休まることがない。感情の制御もままならず、日常的に使用人たちに当たり散らし、気分によってあれこれ指図し、時には物を投げつけて相手に傷を負わせるなど、嵐のように荒れ狂うので手がつけられないほどだった。


 オールディンズ侯爵はそんな娘の行動を注意するどころか黙認し、病に苦しむ娘の気が少しでも晴れるならと、思うままにさせた。


 人格者として名の知られた侯爵だっただけに、使用人たちの失望は大きかった。使用人の中にはルチアの一言でクビになる者もいたが、あまりの仕打ちに耐えきれず自ら辞めていく者もいたほど。



 そんなある日、オールディンズ侯爵は元孤児の白狼獣人の少年、フィレンを闇市場で見つける。


 人身売買は王国法では禁じられているが、闇市場では秘密裏にやりとりされていた。


 『獣人族』は大陸の東、遥か彼方に住むと言われている種族で、人とよく似た容姿だが、瞳や耳などの獣の特徴を持つ。そして獣人族は人間族よりも豊富にマナを保有していると言われている。


 侯爵は娘のために一線を越えた。藁にも縋る思いで協力者を見つけ、その者の手を借りることで、娘のルチアへのマナ補給のためだけに、獣人のフィレンに強制的に主従の誓約を結ばせた。



 その後ルチアは、誓約によってマナ欠乏症に苦しめられることも減り、健康を取り戻し、日常生活を送れるまでになる。しかし身勝手で理不尽な性格は改善されることはなく、獣人族を忌避する気持ちもあり、ルチアはことあるごとにフィレンを虐げる。


 フィレンにとっては絶望的ともいえる日々だったが、彼はある日、自分の(つがい)となる少女に出会い、生きる希望を見出す。


 そしてフィレンは自由になるために、ルチアとの誓約を無効化すべく、ルチアを殺すのだ──。





  ◇ ◇ ◇





「はあ、はあ……っ」


 ルチアは焦る気持ちを抑えながら、なんとか足を動かして進む。


(誓約を無効化させる方法については、誓約を結んだ相手が死ぬ以外、小説では触れられていなかったのよね……。死ぬのは無理だし、ほかの方法を探すとして、まずは──)


 階段が終わり、ようやく目的の場所に着くと、ルチアは暗闇に向かってそっと声をかける。


「……フィレン?」


 昨夜、誓約を結んだときに来た地下牢だ。あのままフィレンはここに入れられているはずだった。


 暗闇の奥からかすかに身動きした気配がする。


 ランプを掲げると、警戒心を滲ませながら、牢屋の隅でうずくまっている姿が見えた。ルチアの心が痛む。


(現実、なのよね……)


 前世の記憶を思い出したルチアにとって、どこか現実からかけ離れた感覚を抱きそうになるも、そうではないのだと自分に言い聞かせる。


(わたしが気を失っていなければ、もっと早く来られたのに……)


 スカートのポケットに手を入れ、牢屋の鍵を取り出す。鍵は使用人を脅して手に入れた。


 牢屋の鍵を解除し、鉄格子を開けて中に入る。


「わたしはルチアっていうの。ごめんなさい……、あなたをこんなところに入れてしまって……」


 あえてゆっくりと近づく。


 敵意は剥き出しにしているものの、こちらに危害を加える様子はない。


 そっと手を伸ばすも、すぐに振り払われる。


「──どうして、俺の名前」


 フィレンが威嚇するようにルチアを見上げる。


 なぜ自分の名前を知っているのか怪しんでいるようだ。


「えっと、あなたを連れてきた人たちがそう言ってたんだけど、違った?」


 闇市場の連中は、手に入れた相手を自分たちの商品(もの)にする際、生まれ持った個人の名前を排除する。自己認識や自尊心を削って支配するためだ。だから、これまで彼らがフィレンを名前で呼ぶことは一切なかったはず。しかしここはひとまずそう言って誤魔化す。


 こんな状況だが、名前を呼ぶことで自分が彼のことを尊重していると、少しでも感じてもらえたらと思った。


「もう大丈夫だから、一緒に来て」


 ルチアは安心してもらえるよう微笑む。


 小説ではフィレンの年齢はルチアよりも一個下のはずだが、栄養不足のせいだろう、同年代の子どもに比べるとずいぶんと小さかった。


 ルチアは再びフィレンの手を取ると、少し強引なのを承知でその手を引っ張り、牢屋の外へと連れ出す。


 彼の手は強張っていたが、それでも今度は振り払われたりはしなかった。





  ◇ ◇ ◇





 その後、ルチアは父親であるオールディンズ侯爵の執務室へと向かった。


 室内には侯爵のほかに、老齢の執事長もいた。


 ルチアは開口一番、フィレンを養子として迎え入れることを願い出た。


 当然ながらオールディンズ侯爵は首を横に振り、難色を示す。


「その子を養子にすることはできない」

「なら、従者はどうですか?」

 ルチアはすかさず提案する。

「無理だよ、ルチア。彼は獣人だ」


 つまり獣人のフィレンが、侯爵令嬢であるルチアの従者となるのは世間的にも許されないと言いたいのだろう。当然ながら、非合法に闇市場から連れてきたことも影響しているはずだった。


 ただルチアにとってそれも想定内だ。だから次の案を提示する。


「では、護衛ならお許しいただけますか。獣人族は身体能力に長けているとのことですから、彼に剣術と体術を習わせれば、頼もしい護衛になるはずです。それにマナをもらうためには、お互い認識できる距離にいる必要があると聞いています。護衛なら常にそばに控えているのですから、その面でも適任とは言えませんか」


 侯爵は娘の一歩も引かない様子を見てとると、ゆっくりと息を吐き、妥協するように許可した。


 同時にルチアは、フィレンの正式な身分証明書の作成をお願いした。元孤児のフィレンは身元が不確かだ。今後生活するうえでは身分が必要になる。だから侯爵領にある孤児院から引き取って、ルチアの護衛したことにしてもらおうと思った。侯爵から許可が出ると、


「ありがとうございます、お父さま」


 そこでルチアはようやく、年相応の笑顔を父親である侯爵に向ける。


「ふむ、しかしルチアや、いったいどうしてこんなことを言い出したんだ?」


「わたし、フィレンとはいい関係を築きたいと思っているんです。種族に関係なく、ひとりの相手として」


 オールディンズ侯爵は、娘のあまりの変わりように大きく目を見開く。


「それと、マナ欠乏症のせいとはいえ、これまでのわたしの言動は許されるものではありませんでした。心から深く反省しています。これからは決して同じ過ちは繰り返さないとお約束いたします」


 ルチアは深々と頭を下げる。


 侯爵のそばに控えていた執事長は驚きを隠せない様子だ。それもそのはず、彼もルチアの横暴に振り回されていたひとりなのだから。


 ルチアは執事長のほうを向くと、頭を下げる。


「執事長にも謝罪します。これまでの数々の暴言や振る舞い、上に立つ者としてあるまじき行為だったわ。本当にごめんなさい。迷惑をかけた使用人たちにも、正式に謝罪したいと思っています」


「……お嬢さま」


 ルチアの変化に執事長は目に涙を浮かべている。


 ルチアは微笑んだあとで、オールディンズ侯爵に視線を戻す。


「可能ならば、フィレンはわたしと一緒に教育を受けてもいいでしょうか。仲間がいれば、わたしも張り合いが出ますから」


「……ふむ、まあ、いいだろう。ただし、お前の指導に支障をきたしたり、内容についてこられないようなら即中止することが条件だ」


「ええ、構いません。わがままを聞いていただき、ありがとうございます。では、失礼いたします」


 ルチアはフィレンの手を引いて、執務室を出る。





  ◇ ◇ ◇





 しばらく廊下を進んだあとで、周りに誰もいないのを確認すると、ルチアはピタリと足を止める。


「──よし、上手くいったわ!」


 フィレンに向き直ると、彼の両手をぎゅっと握り締める。


 獣人のフィレンを養子にするのは無理だと最初からわかっていた。従者か、それもだめなら護衛に据えてもらえるよう交渉するのが目的だったが、上手くいったようだ。


「あのね、フィレン、よく聞いて。あなたの意思に反して誓約を結んでしまったこと、本当にごめんなさい。さっきはあなたの身分を得るためにお父さまにああ言ったけど、わたしはあなたから無理やりマナをもらう気はないの。マナ欠乏症なのはわたしの問題だから、とにかくあなたは気にしないで」


 オールディンズ侯爵を納得させるためには、マナ補給のためにフィレンをそばに置く必要があると訴えるのが最も効果的だった。


 でもルチアにはそのつもりはまったくなかった。


 フィレンと良好な関係を築きたいと願うなら、彼からマナを搾取することは避けなければいけない。


 マナ欠乏症のルチアにとって危機に瀕する問題ではあるが、その一線は越えたくない。





  ◇ ◇ ◇





 フィレンがオールディンズ侯爵邸で過ごすようになってから、ルチアは彼に積極的に話しかけ、少しでも新しい環境に馴染めるようあれこれ世話を焼いた。


 フィレンには屋根裏部屋が当てがわれた。


 ルチアとしては自分の部屋に近いところを希望したが、さすがに父親のオールディンズ侯爵からの許可が下りなかった。ただフィレンを見る限り、屋根裏部屋には天井窓があることもあって、わりと気に入っているようだった。


 屋敷の者たちは最初こそ獣人のフィレンに戸惑いを感じていたようだったが、ルチアが対等に接するのを見て抵抗がなくなったのか、気づけば仲間のひとりとして受け入れ、気楽に接するようになっていた。


 料理長や料理メイドたちは栄養失調で痩せ細った少年のフィレンを心配し、ごはんの量を多めにしたり、こっそりお菓子をあげたりしているようだ。洗濯メイドたちは洗濯物が風に飛ばされて木に引っかかっても、フィレンがすぐに取ってくれるので大助かりだと喜んでいる。


 フィレンが屋敷のみんなに受け入れられていることを喜ぶ一方で、ルチアには心配事があった。


 フィレンはよく夜中にうなされているようなのだ。劣悪な環境で虐げられていたことが影響しているのだろう。


 寒い季節だったためガタガタと震えていて、見ていられなかった。だからルチアはこっそり彼のベッドに潜り込んで、一緒に寝てあげるようになった。


 頭を撫でてあげると落ち着くようで、いい夢が見れるように願いながら撫でるようになった。撫でたあとはフィレンが落ち着いたのを見計らって自分の部屋に戻っていたのだが、ある日うっかり寝入ってしまう。


 そして明け方になって、フィレンの叫び声とともに目が覚めることになる。


「──お、お嬢さま⁉︎ なんで、ここに──、って、うわぁ!」

「フィ、フィレン‼︎」


 まさか、ベッドから転げ落ちるくらいフィレンが驚くなんて思っていなかったルチアは深く反省し、それ以来彼のベッドに潜り込むことはやめ、代わりに湯たんぽを渡してあげるようにした。


 ただ、日常生活の中でフィレンの頭を撫でるのはやめられず、拒否されないのをいいことに、気づけばついつい撫でてしまっている。


 一歳しか違わないが、前世の記憶があるルチアにとって、年下になるフィレンは庇護すべき弟のような感覚だった。





  ◇ ◇ ◇





 ──ルチアがフィレンと過ごすようになってから、三年ほどが経った。


 ルチアは十四歳、フィレンは十三歳になっていた。


 フィレンは今では、オールディンズ侯爵家騎士団の稽古に正式に参加するまでになっている。


 騎士たちは、まだ少年ながらもフィレンの身体能力の高さには期待していて、各自が率先して指導する姿をよく目にする。濃紺の騎士の隊服も彼によく似合っていた。


 フィレンは、午前中は騎士団の稽古に参加し、午後はルチアの隣で一緒に授業を受ける日々を送っている。


 授業については、フィレンの呑み込みが早いのもあるが、彼はどうやら闇市場に捕らわれていたときに、文字の読み書きなどの基礎的なことは叩き込まれていたようだ。おそらく貴族に売ることも想定して、商品としての価値を高めるためだろう。


 フィレンが侯爵家で生活していけるか心配だったが、今のところ大きな問題はないように思える。


 肝心のルチアとフィレンとの関係も、良好だと言えるだろう。



 ルチアは屋敷の廊下の窓から訓練場を見下ろし、フィレンが木刀を手に剣の稽古に励む姿を眺めながら頬をゆるめる。


(この先もわたしがフィレンを虐げることはないし、主従の誓約を無効化できる方法さえ見つかれば、フィレンは自由の身。わたしは殺される心配がなくなるし、フィレンも幸せになれるはず……!)


 くるりと向きを変え、廊下を進む。すると、


「──お嬢さま!」


 突然呼び止められて振り返ると、なぜかそこにフィレンがいた。勢いよくこちらに駆け寄ってくる。


「フィレン、訓練中じゃないの?」


 ルチアは驚いて、彼の顔と眼下に見える訓練場、交互に目を向ける。


 つい先ほどまで、フィレンは訓練場にいたはずだった。


「お嬢さまの姿が見えたので。今は休憩時間です」

「じゃあ、ゆっくり休まなきゃ」


 フィレンはまた屋根や塀を飛び越えてきたのだろう。彼の身体能力は目を見張るものがある。それとも獣人族はみなこんなにも桁外れに優れているものなのだろうか。


 いつからかフィレンはルチアの姿を見つけると、すぐに駆け寄ってくるようになった。彼は白狼獣人のはずだが、狼というより犬のようだと思ってしまっているのは内緒だ。


「たくさん訓練してたのね、汗をかいてるわ」


 ルチアはドレスのポケットからハンカチを取り出すと、フィレンの首元の汗を拭ってあげる。


「最初の頃は剣の扱いもままならなかったのに。あなたに敵う人はいないくらいなんでしょう? 団長もあなたのことすごく期待しているって言ってたわ」


「──お嬢さまは?」

「え?」

「お嬢さまは俺のこと期待してくれてますか?」


 幼い子どもが親に認められたくてねだるような眼差しに、ルチアは微笑む。


「ええ、とても。もちろんよ」

「そっか!」

「ほら、そろそろ休憩が終わるんじゃない? 戻らなきゃ、団長に叱られるわよ」


 そう言いながらフィレンの背中を押すも、彼はどこか不満げな様子だ。


 仕方なくルチアは手を伸ばし、フィレンの頭を撫でてあげる。


 柔らかい絹のような髪とふわふわの耳が相まって、極上の触り心地だ。


 小説のルチアは獣人を忌避していたため、フィレンの獣の耳が見えることをとても嫌がった。自分の前では常に、頭に白い布を巻かせて耳を隠すよう強要し、そのくせ外出時にはあえて耳を隠させず獣人だとわかるように、まるで見せ物のように連れ歩いた。


 王国では獣人は滅多に見ないため、フィレンは大勢の人たちから遠巻きに忌避され、嫌悪の目を向けられ、時には嘲笑と罵声まで浴びせられることになる。


(まったく、こんなに素敵な耳なのに気づかないなんて──!)


 前世を思い出さなければそうなっていたはずの自分。それはわかっていても思わず腹が立つ。ついもふもふする手に力が入ってしまう。


 フィレンがぴくりと反応したので、ルチアはパッと手を離す。


「あ、ごめん、痛かった?」

「──ううん、大丈夫」


 そう言いながら、目をつむったフィレンはルチアの手のひらに自らすり寄せるように頭を寄せ、こちらの手の感触を確かめるみたいにじっとしている。


 ルチアの胸がきゅっと締めつけられる。


 自分が殺される未来を回避するのはもちろんだが、今ではそれ以上に、これまでつらい思いをしてきたフィレンが幸せになれることを一番に願っている。





  ◇ ◇ ◇





 フィレンに訓練場に戻るよう促したあとで、ルチアは手に提げているカゴに視線を落とす。


 カゴの中には橙色の木の実が入っている。


 つい先ほど中庭に下りた際、そこに植えているトニクの木からもいだものだ。


 東方の地域にしかない希少な樹木である、トニク。


 じつはこの実を食べることで、少量だがマナを体内に取り込むことができるのだ。


 植物にもマナは宿っているが、基本的に葉をちぎったり実をもいだりしてしまえば、マナは失われる。しかしこのトニクの木の場合、木から実をもいでもある程度の時間マナを保有し続ける特性がある。


(小説の中では、どこかでさらっと触れられていた程度だったのよね。それを思い出せたのは、本当に幸運だったわ)


 ルチアはたまたま屋敷の図書室で植物図鑑を眺めていたときに、そのことを思い出した。


 すぐさまその木をなんとか取り寄せ、中庭に植えてもらい、木がこの国の環境に慣れて実をつけるのを今か今かと待ち、ようやく日常的に食べられるようになったのは一年ほど前のこと。


 毎日トニクの木の実を食べるようになってからは、こうして屋敷の中くらいなら動き回れるまで体調が回復している。そのため、フィレンからマナをもらわなければいけない事態もずっと回避できている。


 ただし、ルチアがトニクの木の実からマナを得ていることは、父親のオールディンズ侯爵には秘密だ。


 ルチアの体調が少しでも回復しつつあることを喜んでくれているのに秘密にするのは心苦しいが、フィレンからマナを補給してもらっていないことがバレてしまと、フィレンが屋敷から追い出されてしまう可能性がある。


(でも、まだ誓約を無効化する方法がわからないのよね……)


 これまで何かいい方法がないかと色々と調べてはいるが、状況はあまりよくない。


 屋敷にある書物を読み込み、気になる書物があれば国外からでも取り寄せ、通いで来てくれている優秀な教師たちにもそれとなく訊いてみたりするのだが、有力な情報は得られていない。


 あの日、フィレンとの誓約を結ぶ際にいた怪しげな女の行方も追ってはいるものの、闇市場とのつながりすらわからない。ならばと思い、闇市場の方面から探るも手に入る情報は少なく、かといってあまり深入りすると危険が伴う。


 やはり自分の体調を回復させないことには、屋敷の外にも出られないため、狭い行動範囲の中では得られる情報は限られてしまう。


 小説のとおりなら、フィレンが自分の番となる少女に出会うのは、三年後のはずだ。


 それまでにこのままならない自分の体調を回復させて、なんとしてでも誓約を無効化する方法を見つけなければいけない。





  ◇ ◇ ◇ 





 それから一年ほど経った頃。


 フィレンはルチアの正式な護衛騎士としてそばにいるようになった。


 ルチアの体調はかなり回復の兆しを見せている。


 トニクの木の実を食べ続けているおかげもあって、前は屋敷の中を歩くのが精いっぱいだったのに、今では屋敷の中だけでなく、短時間ではあるが屋敷の外にまで出かけられるまでになっていた。


 ただ、ルチアの体調はよくなっているものの、いまだ誓約を無効化する方法については解決の糸口すら見つかっていない状況だった。


「はあ……、思っていた以上に厳しいわね……」


 ソファにもたれかかりながら、ルチアはため息を漏らす。


 体調がいい日は王都中央図書館に通い、関連のありそうな書物を片っ端から確認し、街に出ては噂話の類まで情報収集している。


 情報ギルドにも頼り、詳細は伏せながら獣人に関する情報があれば些細なことでも教えてほしいと伝えていた。だがそれでもこれといった成果はない。


 獣人族は遥か遠く大陸の東にいると言われてはいるものの、この王国どころか周辺国でさえ目にする機会はほとんどない。そもそも獣人と誓約を結ぶなど、あり得ないこと。表に出てくる情報がほとんどないのは当然とも言えた。





  ◇ ◇ ◇





 ──気づけば、ルチアは十七歳、フィレンは十六歳を迎えていた。


 ある日のこと。ルチアは郊外にある修道院に、東方から伝わった内容を書き留めた古書があるという情報を入手した。


 もしかしたら獣人との誓約を無効化する手がかりが記されている可能性もあるのではと、期待を胸に抱く。



 そうして訪れた修道院。


 案内してくれた老齢の女性修道院長は、ルチアを書庫に通すと、棚から一冊の書籍を取り出して机の上に置く。


「こちらが、百年以上も前に東方から伝わった内容を書き留めたという古書になります」

「ありがとう」


 修道院長が一礼して、その場にルチアを残して立ち去る。


 ルチアは椅子に座ると、慎重にページをめくりながら、見落としがないように読み進めていく。


 古書だけあって、かなり難解な言い回しもあり、読むのに時間がかかる。


 根気強くページを捲っていく。


 しばらくして、ふと手が止まった。


「これだわ……!」





  ◇ ◇ ◇





「──お嬢さま、今なんて」


「フィレン、あなたをわたしの護衛騎士から外すわ」


 その日、ルチアは平静さを装いながら、目の前のフィレンに告げた。


「──なんで、ですか」


「経験を積むために、一度あなたはわたしのそばを離れたほうがいいと思ったの。わたしの行動範囲は広くないし、常に護衛をそばに置く必要はないと思い直したのよ」


「……いやです」


「フィレン、これは相談ではないわ。決定事項よ」


「俺は不要ってことですか」


「そういうことじゃないわ。あなたはわたしにとって大切よ、それは変わらない」


「じゃあ、なんで──!」


 傷ついた表情で声を荒げるフィレンを見て、ルチアの心も痛む。


「受け入れてちょうだい、フィレン」


 ルチアは言い聞かせるように、まっすぐフィレンを見て言う。


「……わかり、ました」


 何かを堪えるようにフィレンはそう言うと、部屋から出ていった。


 ルチアは心の中でつぶやく。


(遅くなってしまったけど、ようやく主従の誓約を無効化できる方法が見つかったの。あなたは近いうちに番となる少女に出会うわ。だからあなたにとっても、わたしがそばにいないほうがいいはずよ)


 あの日、ルチアは訪れた修道院で見た古書の中に、誓約の無効化につながる糸口を見つけた。


 古書には、仮死状態になった人間の話が記録されていた。


 誓約は、誓約を結んだ相手が死ねば無効になる。


 ならば仮死状態になることで、同じような効果が得られるのではないのか、そう思いついたのだ。


 成功するかは賭けだ。かなり危険はあるが、でももうこれしかない。


 ずっと一緒にいたフィレンがもういなくなる。


 それを思うと胸がちくりと痛んだが、ルチアは無意識にその痛みに蓋をする。





  ◇ ◇ ◇





 後日、すべての必要な準備を整え終えたルチアは、主従の誓約を無効化すべく、計画を実行に移した。


 うまくいけば、仮死状態から目覚めたときにはすべてが解決しているはず、だったのだが──。


(どうしてこうなるの──⁉︎)


 目覚めたとき、ルチアは誓約の無効化に確かに成功していた。


 しかし喜んだのも束の間。


 幸せを思って手放したはずなのに、なぜかルチアに執着してしまっているらしいフィレンによって、番という一生涯消えない強固な誓約を交わされてしまうのだった。





たくさんの素敵な作品がある中、目を留めてくださり、最後までお読みいただきありがとうございます。


ずっと取り入れてみたかった「獣人もの」です!


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