始まり
「あ そういうことか」
真菜穂の家から戻った後、庸介が手を打ち鳴らした。
「なにが です」
「マナとの関係だよ。秀幸くんは 会社の同僚…上司の息子さんだ。
証券会社だろ。子どもに投資を教えても不思議じゃない」
「ああ…」 稔は頷いたが、声に力が感じられなかったのだろう
「違うか?」と庸介は訊いた。
「そうだと思いますよ」
熱のこもらない反応に、庸介は不満げに鼻を鳴らした。
稔が「他に考えられないですね」と言い足して、
漸くすっきりしたようだった。「そうかそうか」と頷きながら仕事に入る。
稔は、庸介の見解もあながち的外れではないだろうとは思った。
しかし、それを真菜穂が面と向かって伝えようとしなかったのは、
深追いされたくない何かがあるのだろう。
気づかせれば、気づいたことで満足してしまう庸介の性格を見越してのことだ。
そうにしても、全くの嘘を言う真菜穂ではないので、
秀幸が努力の人であり能力も有しているということは事実だ。
初音の扱いも、もしかしたら真菜穂や新伍より長けているかも知れない。
「なにはともあれ」 稔は言った。「万事うまくいきそうですよね」
「だな」
稔は自分のことばを胸の内で反芻した。自身に言い聞かせるように。
片隅にある不安を、それで払拭するように。
稔の携帯が着信を告げたのは、それから数日後だった。
真菜穂宅での会合が、日常の煩雑に紛れ始めた頃だ。
卒制も仕上げに差し掛かり、庸介の仕事の補佐との調整で忙しく、
胸に刺さった小さな棘など忘れかけていた。
発信先は秀幸だ。通話を押す前に庸介を窺い見る。
普通に考えるなら、彼に先に連絡を入れる筈だ。それが通じなくて稔に。
しかし庸介に、その様子はなかった。
迷った末、稔は個人的用件のふりをして場を外した。
「はい?」
秀幸が名乗る。分かっていると承知の上で、稔の意識を確かめている。
「先日はどうも。今 おひとりですか」
そうでないのなら不都合があるのかと訊きたかったが、呑み込んだ。
「何か?」とだけ返す。
「立科 稔…さん」
「ええ」 それが何か?
「生環 の」
「……」 生環は、稔が属する生活環境科の略称である。
「第二寮の と言った方が?」
「何が」 言いたいのかと訊きかけて、稔は口を噤んだ。
彼に語らせる必要はないし、聞きたくもない。「それで?」
「特に何を要求する というわけではないです。
ただ あの立科稔ということで興味を持っただけで。
悪趣味と言われればそれまでだけど」
「実際そうとも言えますね。でも僕の方が弱い立場でもあります。
何が目的です?」
「お会いして ゆっくり話せないかなと。
週のうち4日は時間が取れます。稔さんの都合に合わせられます。
どこかで食事かお茶 その程度ですよ」
敢えて場所を示すことで下心がないことを仄めかしている。
もとより、秀幸にはその類の攻撃性は感じられなかった。
嘘はないだろう。ないが、真意は分からない。何を話す?
考えがまとまらないまま稔はいくつか候補日を挙げた。
そのうちの一日を秀幸は選び、時間を午後の2時とした。
通話を切って、稔は大きく息を吸う。
庸介のところに戻って、少し早いが昼休憩を取りたいと告げる。
「おう ゆっくりな」と庸介は鷹揚に応えた。
そそくさと場を離れた。庸介の傍に居たくなかった。
忌まわしい記憶が、自分の周囲の空気を染めてしまっている気がした。
陽介にそれを吸わせたくない。
食欲などない。赴くまま歩き回って時間を潰そう。
頭の中を整理したかった。突然のことで混乱していたし、
いきなり突き付けられた過去に動揺もしていた。
秀幸が学部と寮の名を言うことで伝えたかったのは、
寮でのことを知っているという示唆に他ならない。
その場所に全部置き去って逃げて来た。
犬に嚙まれたと表現されるその事実。
噛まれたことは忘れられなくても
傷は、庸介との生活によって癒えかけていた。
…のに。
不思議と秀幸に対する怒りは怒らなかった。
動揺しつつも胸のうちに静まった一点があり、
過去を清算するいい機会だと己れを諭している。
自衛本能かも知れない。奈落まで落ちたくはない。
あの一件。
同性に攻撃されることには慣れていた。処世も心得ていた。
一対一なら心身とも巧く凌げたであろう。だが。
稔は首を振る。思い出す必要はない。
自分の中でどう決着させるか、だ。そして卒業する。
陽介との新しい関係…生活に入るために、必要な過程だ。
足が止まる。
「そこ」を目指したつもりは全然なかった。
だが、その風景を目にした瞬間、「そこ」が目的地だったと気づく。
庸介と出会った場所。庸介に拾われた場所。
行き場をなくし疲れ果てて、何かに包まれて眠りたいと願った場所。
あの時も、あてもなく彷徨って、たどり着いたのが
馴染みのない商店街だった。
しかし自分は運命に導かれていたのだ。
段ボールの中に丸まった稔に、庸介が声をかけた。
それが始まり。




