通勤用の靴
林田の店に、来ていた。新伍と真菜穂、揃って。
秀幸が越してきたので早速、留守居を頼んだのである。
真菜穂はきれいに化粧し、カジュアルなスーツを着こなしている。
「通勤用に欲しいの」 真菜穂は言った。「色だけ選びたい」
「形は。ヒールは。素材は?」
「通勤用」 ゆっくりと念を押す。
「了解」 林田はにっこり、というよりは、にんまりと笑った。
「二足 欲しいかな。スニーカーより楽なのをね」
真菜穂も同じく、にんまり笑って言い足した。
「嬉しいなあ」 林田はうきうきと、吊るした革を手で送った。
それから肩越しに新伍を振り返り「そちらは?」と訊いた。
「勿論」と真菜穂が代わりに応えた。
「あ でも 次に来た時に です。新しい服に合わせたいので」
先日見せられたスケッチを思い浮かべながら、
だが正確には伝えられないだろうと新伍は言った。
「立科はいいお客を紹介してくれた」 林田は言った。
それから真菜穂を目で呼んで、革に触れさせた。
新伍は壁際の椅子に座り、少し離れてふたりを見ていた。
生き生きとした真菜穂を見るのは、嬉しかった。
水を得た魚という言葉そのまま、のびやかに泳いでいる。
復帰は共同生活が安定してからのことになるが、
時短勤務ならまず大丈夫だろうという感触だった。
真菜穂はさして迷わず候補となる二色を選んだ。
その上に色見本を重ねながら、林田はふたりにお茶を勧めた。
修行先でのやり方を踏襲している。
「林田さんは 稔さんとどういったお知り合いなんですか?
年齢は 林田さんの方が上ですよね?」
「予備校ですよ。美大の。
僕は隠れ浪人だったから現役生の彼と同じクラスで」
「隠れ?」
「他大学に通いながらの浪人だったんです。一度は諦めて諦めきれず
でも諦めていた方がよかったのかも知れないという…」
それはどうしてと言いかけ、踏み込み過ぎかと自重する。
察したように林田は笑って「中退したんですよ 結局」と言った。
「自分は何か作りたいだけだって 入ってから気づいたんです。
芸術をものしたいのではなく 職人になりたいんだって。
天才じゃない負け惜しみとも言えますが」
「そんな…」
両手を体の前で小さく振る。もう終わったこと。今更という顔で。
「多いんですよ。稔…立科もそのクチだと思います。
才能があるなしではなく 気質的に。
彼には今の生活が合ってるように見える」
「確かに…」 新伍は呟く。「え ということは 稔さんも芸大…美大?」
「ええ」と頷いたが、それきり話題を打ち切った。
話し過ぎたという顔だった。
立ち入り過ぎたと新伍も思った。
芸大という言葉がそうさせた。郷田秀幸も、芸大だ。
尤も、学部の数も学舎の数も膨大で学生同士が知己である確率は低い。
学年が違えば猶更だ。稔と秀幸では年齢も離れているし、
そもそも稔は卒業生だ。面識があるはずもない。
ただ、その偶然に新伍はなんとなく胸を騒がせた。
「僕たちからしてみると 特殊…個性的 なんというか
ちょっと違う次元の存在みたいな。気を悪くしたらごめんなさい」
「いいえ」 林田は目を笑わせ、口元を引き締めてそれを打ち消し、
だがやはりこらえきれないように笑った。
「あなたの方が余程 特殊な人種だわ 新伍」 真菜穂が代弁した。
「えっ あ!」 新伍は口に手を当てた。
「お気を悪くしたなら ごめんなさい」 林田が言った。
「いえ …ええと」
「真面目な話 新伍さんこそが芸大出身者みたいですよ。
お仕事とか 感性が必要でしょう? こだわりがあってのことでしょう。
専門はなんだったんです」
「つぶしのきかない学部です」と新伍は頭を掻いた。
壁の柱時計が時刻を打った。
ああいけないと林田は放置されていた色見本を持ち上げた。
真菜穂は雑談の間に決めていたのだろう、迷いなく指差し、
それをメモに取って打ち合わせは終わった。
店を出て、真菜穂は改めて時計を見る。
秀幸には夕食までには戻ると言ってある。
食事の下拵えは大方済んでいる。30分もあれば仕上げられる。
ごゆっくり と秀幸は言った。
完全に初音とふたりきり、というのは初めてのことだ。だが
同居のために転居する前に、
秀幸を一階で初音とふたりきりにして、
新伍と真菜穂は二階のそれぞれの寝室で寛ぐ形で何度か試した。
それで問題がなかったので、同居に踏み切った。
秀幸は育児に関する殆ど全ての過程を、
新伍や真菜穂より的確に、かつ楽しんでこなしているように見えた。
初音が一番可愛らしく見えるのは、彼が抱いている時だ。
自分を預け切っているのか、とても愛らしい。
真菜穂も同じように感じている。
「母親神話なんて くそ だわ」
吐き捨てるように言った、その横顔には
嫌悪と安堵が浮かんでいた。
己れの母性の欠如を呪いつつ、
その容認が許されたことを祝福していた。
「まだ 少し時間いいよね。服でも 見ていく?」
新伍が言うと、真菜穂は返事をする代わりに、歩き出した。




