40、澱(おり)
「こんな風に一緒の時を過ごして、笑って、はしゃいで、とても楽しい。でも、あなたが小さかったころの話もしてくれたら、もっと話題が増えて楽しいと思う。」
「楽しい?いや、そうは思わない。昔話をしたところで、決して楽しめやしない。僕の思い出なんて、君にとっては面白くもなんともないことだよ。」
「そんなことない。楽しいと言ったことが気に障ったのなら、ごめんなさい。」
額に右手の甲を当ててじっとしている。どう言葉をつなごうか、どう言えば真意を伝えられるのか。そういったことを考えているようでもある。
「私はあなたのことを、とても尊敬してる。だって、今までいろんな経験をして 私よりずっと多くの事を見て知っている。それが輝いて、私にはうらやましい。だから、その始まり?の子供だった頃のことを知りたいの。」
「歴史を見てきた爺さん、とでも言いたいのかい?」
「茶化さないで。 いえ、ごめんなさい、そういうつもりで言ったんじゃない。」
「じゃあつまりこういうこと?今の僕のことは、付き合ってから今日までの間で大体分かった。しかし、なぜそんな考え方をしてるのか。いったいどんな環境の中でどんな経験をしながら育ってきたのか。その辺がはっきりすれば素直に僕を受け入れられる、と?」
「ええ、そういうこと…かな。」
「だったら、育ってきた結果として今話している話し方があり内容もある。それで十分じゃない?今まで色々な話をして、意見をぶつけ合って、お互い違う考えもあることに気付いた。もう君には僕のことがほとんど分かってると思うよ。第一、今の僕に必要ない過去のことは、記憶の底に澱のように沈んでいる。話す価値なんてない。」
「そんなことない。無駄な経験なんて絶対無い。自分でそう決め付けてるだけでしょ?私は、昔のあなたの話を、出来事としてじゃなくてあなたの一部として知っておきたいの。」
いつになく震える声に驚いた。
眼の隅に、瞼をハンカチで押さえる緋乃が映る。
「あなたは年の差を気にして、言葉や話題を選んでる。それは嬉しい、だってあなたの優しさだから。でも、私の知らないことも話して。あなたの事をもっと話して。でないと…いつまで経っても他人じゃない。」




