「つまらない」
「夏生」
皿が空になったタイミングで、悠は夏生の名を呼んだ。向かいに座っている夏生は、どうしたの、と穏やかな目で見つめてくる。
「正直……夏生がもう戻ってこないんじゃないかと思うときもあって、怖かったんだ。夏生がいないと会社もここも静かすぎて。
俺がいろいろ夏生に頼り切ってるのは元から分かってたけど、こんなに寂しくなるなんて思ってなかった」
「ハルくん……」
少し驚いた様に、夏生が目を見開いた。そして腕を伸ばして、大きな手で悠の頭を撫でてくる。
「ハルくんがいたから、僕は折れずに料理を作ってこられたんだよ。前にも言ったけど、君が美味しいって食べてくれるから頑張ろうって思えたし、自分の道はこれなんだって信じ続けられた。
同居することになった時には驚いたけど、毎日君が美味しそうにご飯を食べてくれて、僕は凄く幸せだなーって思ってるんだ。だから、ありがとうって言わせて。それで、できればこれからも一緒に仲良くしていきたい」
「ありがとうって言いたいのはこっちだ。ずっと夏生とルームシェアしてもいいと思ってる。――だから、彼女ができてそっちに泊まるときがあっても、俺の食事は作っていって欲しい」
「ハルくん何言ってるの!? 僕こそ君が彼女連れ込んだりしたら発狂するって言いたいんだけど!」
一瞬湿りかけた空気だったが、ふたりでお互いの顔を見合わせて大笑いをすることでそれは消えていき、同時に悠がこの3日で抱えた寂しさもすうっと溶けていったのだった。
翌日、会社で夏生はこれからは「梅崎夏生」の名前で仕事をしたいと、桑鶴を初めとするメンバーに宣言していた。
夏生が微妙に緊張して身体を強張らせているのが、悠から見てもわかる。だが、夏生にとっては思い切った提案のはずだったのに、桑鶴も理彩も高見沢も顔を上げもしなかった。
「いいんじゃないか? うめ咲の息子だってことで、また話題性がでるかもしれんな。『爽やかイケメンな料理のお兄さん』に、『料理界のサラブレッド』の肩書きが増えるというわけだ」
「そういうのは早いうちがいいわよ。知名度的に浸透しきったところだと面倒だし」
「いわゆるビジネスネームでしたからね。何も問題ありませんよ」
三者三様の意見であっさりと認められ、夏生は大仰にため息をつくと自分の席に座り込んだ。
「はぁー、緊張してた僕が馬鹿みたいだよ。どうしよう、次の動画で最初に名乗るときに変えてもいいかな。理由をちょっと話して」
「いや、どうせなら、どでかい舞台を用意しよう! 注目された方が親父さんも喜ぶんじゃないか?」
桑鶴はやっと顔を上げ、ニヤリと笑った。経験上、彼がこういう顔をしたときには本当に物凄く良いアイディアがあるときか、碌でもない事を考えているときだと悠は知っている。
「どでかい舞台?」
夏生もそれを感じ取っているのだろう。声に警戒の色が滲んだ。
「クレインマジックのクリスマススペシャルだ! どーんとそこで発表してやれ! あっという間に広がるぞ」
「クリスマススペシャル……。確かに、それだったら父も見そうだなあ。いや、事前に連絡しておけばいいのか。うん、そうだね、通常の配信よりも注目度が高いだろうし、その方が周知の効果としては高い気がする。ありがとう、桑さん。クリスマススペシャルを使わせてもらうよ」
「よし、そうと決まれば準備に取りかかろう。ナツキチは早めに冬レシピを仕上げて、クリスマスメニューに取りかかってくれ」
「了解だよ」
夏生は破顔すると改めて椅子に座り直し、ノートPCで早速旬の野菜などを調べ始める。
試食用のテーブルでホームページを弄りながら、悠はそれを少しの間だけ見守っていた。
「つまらない」
「えっ」
夏生が出した企画書を一瞥した桑鶴が、珍しく企画を一蹴した。夏生は驚きの声を上げて、桑鶴の机上に置かれた企画書を呆然と見遣っている。
普段は夏生が企画書を出す段階で、企画はほぼ通っているも同然だ。事前にレシピ考案をし、材料の選定や料理のポイントまで詳細に書かれているものだから、企画が没になるということは事前準備が全て無駄になることを意味する。
それは材料費なども含めると会社の実損になるし、夏生はそもそも桑鶴が却下するようなコンセプトの料理を作ったりはしない。だいたい「つまらない」ものになるかならないかは、桑鶴が付けるキャッチコピーで決まる。
――なので、夏生は企画書を没にされたことがなかったのだ。だが、今回は事情が違う。悠はキッチンで冷めた麦茶をポットに移しながらハラハラとふたりを見守っていた。
「俺的に面白いと思ったのは、クランベリーを使ったソースのところだけだな。ナツキチ、クランベリーの名前の意味を知ってるか?」
「知ってるよ。鶴に似た花が咲くからだろう? クレインマジックも『鶴』が社長の名前に入ってて吉兆だからって付けたじゃないか。……ああ、そのクレインマジックとクランベリーが同じ意味だから面白いって事?」
「そうだ。だがそれだけだ。どうしてクリスマスというとチキンなんだ。口に焼きりんごを咥えた豚の丸焼きとかじゃ駄目なのか? あれだったら俺は諸手を挙げて歓迎するんだがなあ」
椅子に座ったまま背もたれに体重を預け、腕を頭の後ろで組んだ桑鶴の言葉に、夏生がハッとして珍しくデスクを叩いた。
「待った。桑さん、最近『農場の少年』を読んだね? 簡単に影響されないで欲しいな。だいたい、豚の丸焼きのレシピをアップしたとして、どうやってユーザーがそれを作るんだい? 余程特殊なルートを持ってないと、一般的には鶏丸ごと1羽ならともかく、豚丸ごと1頭は入手できないよ」
現在夏生は全力でクリスマスのレシピに注力している。今回はいつもと手順が逆で、試作の前にレシピ案の企画書を出し、それが通ってから試作をすることになっている。
当然夏生も初心者にも作れるような料理をセレクトしているし、ジンジャークッキーは既に決定していた。しかし、ここへ来てメインディッシュのローストチキンが却下されている。「つまらない」というとんでもない理由で。




