父との再会【夏生視点】
料理を「楽しく」作り続けるには、喜んで食べてくれる人が必要だった。――少なくとも、自分にとっては。それに気づいたのは悠に出会ったおかげだから、案外最近のことだ。
料理研究家や愛好家の中には、「自分で作った料理でビールを飲むのが最高」という人がいるのも確かだ。けれど、それは夏生には当てはまらない。
夏生の原点は家庭料理であり、家族が食べる料理であり、その場には笑顔があって欲しかった。自分のための料理ではなく、夏生の料理は「誰かのための料理」なのだ。
美味しいと顔を綻ばせる悠の存在に、どれだけ心を救われてきただろう。
理彩と高見沢は最初は褒めてくれたが、すぐに「これが夏生の当たり前」と気づいたらしく、ビジネスライクな感想しか言わなくなった。しかもこのふたりは辛口なのだ。
モチベーションが下がっていたところにやってきたのが、理彩の従弟だという悠だ。
ドライな理彩の従弟とは思えないほど表情豊かで、思ったことがすぐに顔に出てしまう青年は微笑ましかった。本人は「自分は無愛想だ」と思っているところが愉快でもある。
試食の皿を目を輝かせて嬉しそうにペロリと平らげた後、「もうないのか」と無言で目で訴えてくるのはいつも笑い出しそうになったし、夏生が「これは我ながら会心の作」と思った料理を食べたときは、本当に嬉しそうに一口一口を味わって食べてくれる。
そしていつも「ごちそうさま。今日もうまかった」と夏生に向かって感謝を伝えてくれる。
そんな悠に喜んで貰えるなら、と夏生の気持ちも前向きになった
。
そうして作り上げてきた料理の数々は、クレインマジックというアプリを通して様々な人が再現して、レビューという形で夏生の元に返ってくる。
私にも作れました。
自分で作ったとは思えないほどおいしかったです。
お気に入りで何度も作っています。
そんな言葉を貰えることは、夏生が夢見た最も嬉しい事だ。桑鶴の広げた腕の中に思い切って飛び込んで良かったと思える。
家業としての料理ではなく、自分の選んだ道としての料理。
その道を夏生に示したのは、母の手と父の背中だった。
梅崎家まで、現在のマンションから2回の乗り換えで40分。都内であることもあり、さして遠くはない。遠かったのは、夏生の心の中での距離だ。
懐かしい家に着くと、鍵がかかっているかと思いきや、夏生が知らない中年の家政婦が出迎えてくれた。聞くところによると、夏生が家を出た直後から週3回食事の準備以外の家事を請け負っているのだという。
料理ばかりは他人任せにしない父の姿勢に、らしいなと苦笑が思わず漏れた。
そして、自分の部屋までもが以前と同じまま整えられていることに驚いた。
「去年辺りから『息子がいつ帰ってきてもいいように』、と常々仰ってましたよ。なので、使っていないから簡単にですが、定期的にお掃除を」
「そうですか、ありがとうございます」
この部屋を見ただけで、父が本心では夏生の帰りを待ちわびていたことが分かる。
それと同時に、自分で追い出したくせに、という反発が心の中で湧き上がってくる。
時間は既に夜で、叔父からは「急に来客があって今夜は遅くなりそうだ」とメッセージが入っていた。
夏生としても、この複雑な気持ちを抱えたまま仕事で疲れた父に向き合いたくはない。――きっと、父を傷つける言葉を不用意に発してしまいそうだ。
冷蔵庫を開けて使っても問題がなさそうなストックを確認し、ごく簡単な夕食を自分の分だけ用意して食べた。そして「仕事で遅くなると聞きました。先に寝ています」とやや他人行儀なメモを残し、父が帰ってくることを恐れるように、急いでシャワーを浴びて自室のベッドに潜り込む。
定期的に取り替えていたであろうリネン類は見るからに清潔で、部屋も物の配置はいじらずに掃除だけがきちんとされていた。
まるでここだけが4年半前にタイムスリップしているようで、不思議な気分になりながら目を閉じる。
会社で父から連絡が来たと聞いたときから気を張り詰めてきたが、慣れ親しんだ実家のベッドはその緊張をほぐす効果があったらしい。
いつしか夏生は、夢の世界へと落ちていっていた。
翌朝目が覚めたのは6時だった。これはもう習い性で、体がこの時間になると目覚めるようになってしまっている。
着替えて洗顔をしに階下へ下り、新しいタオルが用意されているのを見て、それを使う。
身支度を調えて台所へ向かうと、昨日は向き合うのが怖いとしか思えなかった父が、いくらか小さくなった体で朝食の膳をふたり分整えていた。
「お父さん……」
4年ぶりに再会した父は、僅かな間に驚くほど老け込んでいた。顔には皺が刻まれ、頬がたるんだせいかほうれい線がはっきりと出ている。
この家を去ったときには少ししかなかった白髪は、髪の半分以上に及んでいた。
今朝になってからやっと会うことができて呼びかけたはいいが、夏生は何を口にすべきかを見失った。
何故今になって会いたいと連絡をしてきたのか、それを問いかけたかったが父の顔を見た瞬間にその老け込みようから察してしまったのだ。
「おはよう、夏生」
4年ぶりに交わす父子の挨拶は、確執も空白もありませんでしたというように、あまりにも日常的だった。
「お父さん、おはよう」
知らぬ間に体が強ばっていたが、父の気負いのない一言につられ、夏生も幾度口にしたか分からない「当たり前の家族の挨拶」を返す。
かつて毎日聞いていた夏生の挨拶を聞き、父が目を細める。
「おまえが元気そうで良かった」
父は4年分歳を重ね、驚くほど穏やかになっていた。




