父との対話【夏生視点】
夏生がこの家にいた頃は、労りの言葉などほとんど聞いたことがなかった。昭和の男だから仕方ないのよとは母の言葉で、夏生が何かをうまくできたときも言葉でわかりやすく褒めることはなかったのだ。
だから、父がこんな言葉を発してくるとは想定外だ。
「僕と、どんな話を」
話しながら、核心に触れることを恐れる気持ちが蘇ってきて、夏生の声の最後を掠れさせた。父はそれを気にせずにテーブルに味噌汁などを並べ、ただ穏やかに答える。
「どんなという訳じゃない。ただ、夏生と話をしたいと思ったんだ。今のおまえの仕事や、母さんのことや、俺がどうしておまえを追い出してしまったかとかを」
「……うん」
夏生が最も危惧していた、戻って家を継げといった話ではないようだ。父が求めているのはただの対話らしくて、それに夏生は安堵した。
「今日は1日いられるのか?」
「僕がこの家で片付けなきゃいけない問題を片付けるまでは、休むって会社には言ってきたよ」
「それを許してくれる職場なんだな」
「うん、いいところだよ」
クレインマジックはいい職場だ。仕事はできるがアクが強い面々を、更に個性が強い桑鶴がうまいことまとめている。
最近ではアシスタントであるはずの悠がマネージャー的な立場を取ることも多く、桑鶴の補佐をするように、会社の業務が円滑に回るようにと気を付けてくれていた。
初対面の時の玉子焼きには度肝を抜かれたが、悠の存在はクレインマジックにとって――そしてなによりも夏生にとってなくてはならないものになっている。
父と向かい合って座ったテーブルの上には、懐かしい朝食が並んでいた。
定番のネギに加えて旬のナスとカボチャ、そして栗が入った一風変わった味噌汁は、梅崎家の秋にだけでるメニューだ。夏生もたびたび作ったし、クレインマジックでも昼に出して「味噌汁に栗は珍しい」と言われたことがある。
炊きたての白いご飯と納豆も目の前にあり、浅漬けの盛り合わせは昔から見ると量が少ない。お悩み相談コーナーにも出て来た通りに作るのにコツがいる温泉卵も、だし付きで当たり前のように食卓にある。
「最近は魚の脂がきつく感じてな」
唯一昔と違うのは鯖などの焼き魚が並んでいないところだと夏生が思っていると、その心を読んだかのように父が漏らす。そんな歳なのかと、改めて夏生も父の老いを感じた。
「いただきます」
「いただきます」
ふたり揃って手を合わせ、夏生はじっくりと父が用意してくれた朝食を味わった。箸も茶碗も以前夏生が使っていたもので、父がそれを処分していなかったことが嬉しい。
「ああ、やっぱり懐かしい味だ」
料亭で使う味噌を家でも使っているので、味噌汁は普通にスーパーで買う味噌で作るものよりも風味がより深い。母が病床に伏してからは夏生が朝食を作っていたが、父の作る味噌汁はやはりどこか違い、それも夏生にとっては懐かしい味だった。
思わず顔を綻ばせた夏生を見て、父は微笑ましいものを見るように目を細める。父のこんなに柔らかい表情は、本当に久しぶりだった。
「味噌が違うからな。これだけは変えたくない」
「わかるよ、スーパーで売ってる味噌じゃ再現できなかったからね」
「少し持って行くか?」
「いいの? じゃあ欲しいな」
母が健在だった頃のように、父と普通の会話を交わせることがどこか不思議だった。けれど、その一方で自分たちに必要なのはこういった会話なのだとも思う。
「栗を入れたお味噌汁を会社で作ったら、珍しいって言われてさ」
「だろうな。あれは母さんが思いつきで作ったんだ。夏生に野菜を摂らせるために、味噌汁には必ず3種類以上の具を入れるようにしていただろう。ありものの組み合わせでたまたま前日に貰った栗を入れたら、思ったよりも美味しくてな」
「栗とカボチャは合うよね」
「それに味噌汁に甘みのある野菜は合う。でも何故か俺は栗を入れるというような発想が持てなかった」
父の言葉は少し悔しそうだ。そこに夏生は驚く。
「お父さんが料理のことで誰かを羨ましいと思うなんて、考えても見なかったよ」
「そんなことはない、俺は人を羨んでばかりだった。母さんのことも、おまえのことも」
「えっ、僕のことを?」
父が自分の何を羨んだか、全く思い当たるような節はなかった。納豆を混ぜている手を止めて夏生が驚いて尋ねると、父はあっさりと頷く。
「母さんががんになって、胃を全摘してから食べる物がうんと制限されて――何度も何度も、亡くなる直前も『夏生の作った餃子が食べたい』って言っていた。俺の料理でも自分の料理でもなく、おまえの餃子じゃないと駄目だったんだ。あの味は、俺にも母さんにも再現できなかったし、母さんの状態ではそもそも餃子は食べられなかった。
悔しかったなあ……。結婚して25年の俺の料理じゃなくて、息子の料理を望まれるのが。俺はおまえに負けたような気になったんだ」
「そうだったんだ……」
初めて聞く話に、夏生は手を止めたまま頷くことしかできなかった。




