夏生の秘密
「ハルくん、僕コーヒー飲むけど、君もいる?」
夏生がコーヒーを淹れてくれるのは、あくまで「自分が飲むついで」だ。だから悠も遠慮無く「飲む」と言える。
全くの偶然だが、リビングには各々色違いの人間を駄目にする系クッションが置かれていた。夏生のは本家本元の一番高価なもので、悠は「ジェネリック駄目クッション」と言われているネット販売されているもの。見た目はそっくりだが、悠のクッションの方が少し柔らかく、長く使っていると中身のへたれ方に違いが出てくるらしい。
悠は夏生と一緒に暮らすまで、コーヒーを飲むために豆を挽くところから始めるのを見たことがなかった。それまでそれほど美味しいと思ったこともなかったものだったが、夏生が毎回挽き立ての豆で丁寧にドリップするコーヒーは、淹れているときの香りからしてリラックス効果が違う。
紅茶とも緑茶とも違って、不思議と緊張をほぐす力のある香りだ。
悠も夏生のコーヒーを飲むようになってからは、まず香りを楽しんでから味わうようになった。理彩が徹夜をするためにガバガバと飲むような飲み方ではなく、コーヒーは一区切りしてリフレッシュするための飲み物になった。
夏生の持ち込んだローテーブルに、ふたつのカップが置かれる。夏生はクッションに埋もれてから自分のカップに手を伸ばした。
酸味と苦みのバランスが取れた香りの良いコーヒーを一口飲んで、夏生は深い溜息を漏らす。これは悠も毎回やることだ。嫌なことがあるとかとは関係なく、座ると溜息が漏れてしまうクッションなのだから。
「なんか、大変だけどさ……実は今の状況、僕にとって悪くないんだ」
夜の情報バラエティ番組をぼんやりと眺めながら夏生が呟く。おしゃべりなくせに夏生が自分のことを話すのは珍しくて、悠はコーヒーを飲みながら無言で彼の言葉に耳を傾けた。
「僕のしていることで知名度が上がるのは、願ったり叶ったりの部分もあって。僕の外見で得ている人気もあるだろうけど、料理が支持されているのも間違いない事実だろう? 僕のやり方は間違ってなかったって、これで胸を張れる」
「……何に対して、だ?」
聡い悠の問いかけに、夏生は少し寂しそうに微笑んだ。またコーヒーを一口飲んでから、カップをテーブルに置いて長い指を組む。
「僕の、父に。僕の実家は有名料亭なんだよ。『うめ咲』って聞いたことないかな、新聞に載ってる首相の1日の行動にもよく出たりする店でね」
残念ながら悠は、新聞に首相の1日の行動が掲載されることすら知らなかった。だが、首相が来るという事実だけでも、その店が格式の高い料亭なのだろうということは想像が付く。
夏生は話し始めたはいいが何かに迷っているようだった。それを急かすことなく、悠はじっと彼の話の続きを待つ。
やがて、夏生は俯いて視線を床に落とした。耐えがたい何かが、彼に重くのしかかっている様だった。
「僕の本名は、梅崎夏生。四本っていうのは母方の姓なんだ」
「梅崎……ああ、そうか、そういうことか」
今回の引っ越しで、いくつか悠と夏生ふたりの記名が必要になる書類があった。その時夏生は必ず悠の後に記名していたのが若干不思議だったのだ。
夏生は大人だから、悠が書き損じをしていないかチェックしてくれているのではないかと勝手に思っていたが、夏生は「梅崎夏生」という本名を悠から隠していたのだろう。
「クレインマジックでも、動画でも、僕は当たり前に『四本夏生』で、『うめ咲』から離れて自由にやってきた。ただ、幼い頃から跡継ぎだと、梅崎家のひとり息子だと言われて育った僕は、その自由にどこか罪悪感を感じてたみたいだ。
会社のみんなにも、偽名で接してたわけだしね」
「はははっ」
自分でも珍しいと思うが、悠はつい笑いを漏らしていた。
夏生は真面目すぎる。悠ですら、接客業などで本名を避けてビジネスネームを使ったりすることがあるのを知っているのだ。
夏生が四本夏生でも、梅崎夏生でも、悠にとっては変わらない。
理彩と同じく8歳歳上なのに時々少年の様な純粋さを見せ、変人揃いのクレインマジックの中で近くにいればほっとする様な穏やかさと優しさを持った人――それが夏生だ。
料理を作るのが大好きで、美味しい物を食べるのも好きだけれど、自分の作った料理を人に食べて貰う方が好き。
見ていて心配になるくらいストイックに努力を重ねているかと思えば、試食中の悠を見て「あーーーーーーー、その笑顔癒やされるーー」なんて温泉にでも浸かっているような声を出していることもある。
夏生は、夏生だ。それを分かっていないのは、多分本人だけだろう。




