新生活の始まり
「大変なことになっちゃったね……」
キッチンの引き出しに細かな物を収納しながら夏生がぼやく。
夏生の荷物は悠よりはかなり多かったが、仕分けがきっちり出来ていた。冬物衣類など緊急度の低い物はまだダンボールの中で、今必要な物はすぐ使えるようになったらしい。
「そうだな。さすがに疲れた」
気疲れ半分、身体の疲れ半分といったところだ。普段は飲みたいと思わないが、生クリームが山盛りになっている甘いコーヒーが今は無性に飲みたい。
引っ越しの終わり間際に高見沢がやってきて、「これ、私の実家でよく食べる葬式まんじゅうと同じ店なんですけど、美味しいので引越祝いにどうぞ」と紅白まんじゅうを置いていった。
甘い物を差し入れてくれる気遣いは嬉しいのだが、一言余計な気がするし固形物より液体が今は欲しい。それに、引っ越しならば蕎麦ではなかろうか、とぼんやりした頭で思う。
「よし、せっかくだから、今夜は景気づけにふたりで引っ越しパーティーでもしようか。桑さんたちが乱入してきそうだけど、明日以降にしてくれって先に言っておこう。ハルくんは何が食べたい? 何でも作ってあげるよ」
「本当か?」
夏生の言葉に、悠は勢いよく振り返った。我ながら現金すぎるが、いつもは夏生の計画に沿って作られた料理を試食しているだけなのだ。夏生が本気で作る、いわゆる初心者向けではない料理はまかない以外は食べたことがない。
「肉、だな。ローストビーフとか。クリスマスには食べられるとわかってるんだが、あんたの作った本気のローストビーフを食べてみたい。あとは……卵料理」
「卵料理かい?」
「夏生の料理で初めて食べたのが玉子焼きだっただろう。あの味は忘れられないんだ。玉子焼きじゃなくてもいい。あんたがうまいと思ってる卵料理を作ってくれたら」
「そういえば、あの時ももっと食べたいって言ってくれてたね。うっ……作るよ! いつも美味しいって言ってくれるハルくんの為なら、玉子焼き毎日100個くらい作る!」
夏生はいつもリアクションが大きいが、殊更に喜ぶのはやはり料理を褒められたときだ。嬉しさのあまりか、顔を覆って泣き出しそうな情けない声を上げている。
「落ち着け。100個は食べられない」
「ハハハ、そうだね。キッチンはもうすぐ片付くから、僕は買い物に行ってくるよ。ハルくんはどうする? 一緒に行くかい?」
「俺も行く。甘いコーヒーが飲みたい」
「ああ、わかるなあ、それ。スーパーの近くにバックスコーヒーの路面店があるからそこに寄ってから買い物しようか。カフェモカチーノのチョコレートシロップ増量、生クリーム追加」
夏生の考えていることが殆ど自分と一緒だったので、悠は夏生の視線がこちらを向いていないのを確認してひっそりと笑った。
唐突に夏生との同居生活は始まったが、思っていた以上にそれは快適だった。
親以外と一緒に暮らしたことのない悠も、突然夏生と暮らすことになって不安がなかった訳ではない。何が、と具体的に言えるタイプの不安ではなくて、何が起きるかわからないという不安だ。
だが、夏生は悠が鬱陶しいと思わない程度の世話を焼いてくれて、それが心地よい。お互いに何かを強制することもなく、軽い気遣いの範疇で生活が回っている。
あまり欲のない悠と、世話焼き上手の夏生はうまく噛み合っていた。
兄がいたらこんな感じなのかなと思うこともあったが、理彩や自分のような親族の中で、こんなに穏やかで人当たりのいい夏生が育つ訳はないと思って我に返った。
同居してからも度々食卓にナポリタンが並んだ。ケチャップは冷蔵庫に4種類、更にトマトソースまであるという具合で、夏生は思い出の味を再現するのに苦慮している様子だった。
「……ナポリタンばっかり作って、とか思ってたりする? やっぱり頻度高いかな」
ある日夏生が心配そうに尋ねてきたので、悠は首を振ってそれを否定した。
「全然思わない。ケチャップなのかトマトソースなのかによって味も違うし、夏生の作ってくれるナポリタンはうまいから。……俺がひとり暮らししてたときは、1週間続けて夕食が冷凍パスタだったこともある」
「そ、それは……飽きなかったのかい?」
「飽きたが、他に適当な値段で自分が作れるものは即席ラーメンしかなかった」
がくりとうなだれた夏生が「そうだった……ハルくんって料理スキルマイナスだった……」とぼやいている。
「だから、週3くらいナポリタンでも全然気にならないし、むしろ夏生のナポリタンは俺の好物だ」
「週3は多過ぎだね! でもそう言ってもらえて安心したよ。好物って言ってもらったのも嬉しい」
やはり夏生は料理を褒められるのが一番嬉しい様だ。彼の眩しいほどの笑顔につられて、思わず悠も軽い笑みを浮かべていた。




