桑鶴の秘策
高見沢以外の4人は雪山で遭難したような表情で熱いカフェオレをすする。夏生が作ってくれたカフェオレは緊張がふっと緩む様な優しい甘さで、夏生曰く砂糖の加減もだが牛乳にもこだわりがあるらしい。
それが半分まで減った辺りで、ようやく桑鶴が言葉を発した。
「さてと、殴ってきた相手への対処は雛子に任せるとして、一度ネットに流出してしまった以上は情報を完全に消し去るのは不可能だ。こちらも想定していた次の段階へ進もう」
「引っ越し、だね」
「予想していたのは確かだが、本当にこんなことが起きるとはあまり思ってなかった……」
悠にとって自分の身に起きたことは恐ろしいが、桑鶴や悠の危惧として既に想定されていたことだった。
ある程度覚悟がされていた事柄なので、思ったよりもショックではなかったのが自分でも驚きだ。
「ハルキチだけじゃなくてナツキチの住所特定も時間の問題だな。やっぱり殆どの情報が秘匿されていたからこそ、ハルキチの方が先に晒される羽目になったんだろう。
ハルキチ、ナツキチ、君たちにセキュリティの厳しい部屋を社員寮として貸し与えようと思う。ただ、同居になっていいなら、だが。ちょうどいい物件がひとつあってな」
「夏生と同居? それは聞いてない」
「ハルくんと一緒? 僕は構わないけど、何か理由があるのかい?」
きょとんとした悠と夏生に、桑鶴はにやりと笑う。いたずらを思いついたときの子供の様でもあり、狡猾な犯罪者のようでもあった。
「ああ。実はな、このマンションのひとつ上の階に空き部屋があるんだ。不動産屋は複数声を掛けておいたんだが、最近になってこの物件情報が出て来てな。もちろん俺も最初は個別の部屋をと考えてたんだが」
「このマンション……って確か家族向けじゃなかったっけ。ふたりで住む方が家賃は結果的に安く付くから?」
首を傾げる夏生に、笑って首を横に振りながら桑鶴は説明を続ける。
「既に打診はしてあって、先に他の入居者が現れない限りは即日契約できることも不動産屋に確認済みだ。2LDKの間取りも同じだからふたりで暮らしても特に狭いということはないだろうし、ここ以外ではあり得ないとんでもないメリットがひとつある」
そこで桑鶴は言葉を一度切った。キラキラとした目は楽しい遊びを思いついた子供そのままだ。こういうときの彼は碌な事を考えていないのだが、今回はその悪戯心が良い方へ動いたようだった。
「君らがこのマンションに出入りしても、出勤してきていると思われるのさ! クレインマジックの会社所在地はバレているんだから、ここに出入りする限りは全く不自然さがない。――どうだ?」
「そうか!」
桑鶴の言葉は悠にとって目から鱗だった。桑鶴や理彩が以前から泊まり込みをしているくらいだし、同じマンションの別の部屋に住んだら確かに目立たないだろう。
大学に行くときには変装が必要かもしれないが帰りは必要ないし、そんな事態が長く続くとは元々思っていない。高見沢も以前言っていた通り「人の噂も七十五日」ということわざもあるし、人間は意外に飽きっぽいものだと悠も知っている。
「君たちがいいと言うなら、今この場で不動産屋に電話して、契約をするぞ。クリーニングは最近してあるから、即日入居可能だ。まあ、遅かれ早かれこうなるかもしれないと、手は回しておいたためなんだがな。……すまない、会社の都合で君らには不便を強いることになった」
「社長は気にしなくていい。CMに出ることを了承したときから、あくまで最悪の場合としてだが想定はしていた。あのボーナスは、危険手当みたいなものだって。――むしろ、社長が迅速な対応をしてくれたことは助かる。俺は上京してからそれほど時間も経ってないし、荷物も少ないからすぐに引っ越しをしよう。夏生は?」
「僕も、荷物はできる限りまとめてあるんだよね。業者さえ来てくれれば、最後の荷物をまとめて今日にでも引っ越しできる」
「よし、決まりだな。まずは今日か明日にでも動ける引っ越し業者を捕まえよう。速水、悪いが今の雛子を邪魔すると怖いから手伝ってくれ」
「わかりました」
桑鶴と理彩は即座にパソコンで業者を調べ、電話番号が有名な業者には電話を架け始める。悠と夏生は荷物をまとめるためにその場で帰宅することになった。
業者のトラックに荷物を積み込み、追跡者がいた場合を考慮して一度引っ越し業者の倉庫に荷物を運び入れてから別の車に荷物を移す。これは桑鶴が事情を話して対応を取って貰っていた。
翌朝になってから、他人の引っ越しの為に出発するトラックに紛れて、悠と夏生の荷物を一緒に積んだトラックがクレインマジックの入っているマンションへと向かう。
荷物の少なさが幸いし、ふたりの引っ越しが完了したのは翌日の午後だった。
身バレ騒動の発覚から、僅か26時間後。悠と夏生は「社員寮」で細々としたものを収納する引っ越しの仕上げをしていた。
荷物を所定の場所に収納するところまで業者には手伝ってもらい、引っ越ししたばかりだというのに新居では既に日常生活が送れる状態になっていた。悠が上京してからまだ4ヶ月も経っていなかったし、元々物を多く持つタイプではないので引っ越しは驚くほどスムーズだった。
ただ、上京してきた時はこんなにすぐには部屋が片付いた覚えはない。「お片付けまでフルパック」の業者の力は凄いな、と少し他人事のように悠は思った。
引っ越しすることとその事情を告げたとき、悠の親はさすがに心配した。だが、従姉の理彩も付いているし、引っ越し先は会社が入っているマンションの別室で、更に年上の同居人がいるということは彼らにとってはかなりプラスの要素になったようだ。
悠の両親もクレインマジックのCMは何度も見て、悠が元気そうに美味しいものを食べているところを見て安心していたらしい。
「でも、ああいうことをするなら先に一言言いなさいね。こっちも驚くんだから」
最後に母の小言を聞いて素直に頷き、悠の報告は終わった。




