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酷い裏切り


 人にビンタをされた事が俺は無い。散々千火さんにボコボコにされてきたが、全ては戦闘訓練の一環であり、日常生活で手を上げられた事は無かった。叱る上での暴力はされた事がなかった。



 親しき家族と同等の千火さんから受けた事がないならば、全くの他人から受けた事などあるわけもなくて、喧嘩はしたとしても叱られる場面でのビンタなど、これが初めての経験であった。



 俺はそのビンタの張本人である鞠猫を見た。



 彼女は顔を顰め、怒りを露わにしていた。



 「何を本気で言いくるめられそうになっているんですか! あんなの罠に決まっているでしょ!? 見え透いた嘘に飛び込んでいく人がいますか!」



 鞠猫の顔には信じられないと描いてあった。表情が俺がどこまでも愚かだと罵っていた。



 でも俺の心もそこまで言われて、ただ大人しくその意見に賛成するほど柔ではなかった。



 「……嘘だって分かんのかよ」

 「はい……?」

 「あのミスリーの言う言葉が全部嘘だって分かんのかよ」



 鞠猫は困惑したような表情をした。心底信じられないと幻滅したような顔であった。



 「逆に分からないんですか? あの者は人を人と思わない危険な存在ですよ? 貴方が仲間になっただけで殺しを止めるくらいなら、もっと前に既にそうしている筈だとは思わないんですか!? あの淫魔は既に自分が私達の様な存在から命を狙われている事を知っていた。こうなることも予想出来たはずなんです。でもやめなかった、それは止めるつもりなど毛頭ないからです!」

 「だから俺が犠牲になればいいって話だろ!」

 「……なんですって?」

 「俺があいつを監視する、もう金輪際人殺しはしないように。心臓も差し出す、あいつの欲望を抑制する為に。絶対に殺しをやめさせてみせる」



 俺の主張に鞠猫は簡単に首を横に振った。



 「そんなものできるわけがない! 邪魔になればあの女は奏君でさえ始末しますよ! 殺せないとしても封印さえしてしまえばいいんですから。そうなれば永遠の苦しみを味わう事になりかねないんです、貴方は一生苦しみ続けるんですよ! 奏君……貴方自分が特別な人間であるとでも思っているんですか!?」



 その言葉に俺は顔を顰めた。



 特別な人間、それは俺にとって難しい言葉だった。半魔半人の俺にとってそれは相応しい言葉なのだろうか……?



 人間のフリをして……その世界で幸せに暮らしてきた。自分は周りの人間と同じであると錯覚し、仲間であると信じてきた。でも皮を剥いでみれば人間には無い力を備えていて、魅力などという他人を侮辱するような能力もあって……人間とは程遠い気もしてしまう。



 だからその問いはとても苦くて……答えるのも憚れて……



 でも俺は自分がミスリーと共に行く事で色々な人が救われるならば……この世界から去った方が皆の為になるなら、それでいいと思っていた。だから……



 「思っちゃ悪いかよ……」

 「……本気ですか」

 「俺は特別だ……俺は特別だ!! 魅了の力だってある、腕っ節も他の人間と比べ物にならない。 ……俺は人間のフリをしているだけだ。元々ここにいるような存在じゃ……ここに相応しい存在じゃないんだよ!」



 シンと静まる場内。鞠猫を見る。彼女の顔が憐みに満ちていたことに納得がいかなかった。


 俺の犠牲で……ただ人間のフリをしていた淫魔の犠牲で、これ以上の被害が広がらないならそれでいいと思ったのに……



 「その台詞……」



 鞠猫は静かに口を開いた。



 「────千火さんの前でも言えますか」



 ………



 「貴方を……育ててくれた人です。そんな人に同じ事を言えますか?」



 俺は息を飲んだ。そして頭に千火さんの事が浮かんだ。



 感情を表情にあまり出さない彼女の時折見せる笑った顔。怒った顔。馬鹿にしたような顔大丈夫だと言って安心させてくれる顔。俺を鍛えてくれる時の厳格な顔。



 「今の言葉を聞いたあの人が、どんな気持ちになるか分からないわけではないでしょう?」



 共に過ごした7年の年月、千火さんがどんな事を言われれば傷付いてしまうのかは知らないわけじゃなかった。彼女は俺の記憶を辿っても悲しむ顔をそうそう見せる人ではない。でも表情に出ずとも、嫌な気分になっていることは雰囲気でなんとなく分かる。だからもし俺が今の言葉を彼女の前で言ったとしたらどんな気持ちになるか……



 鞠猫に何も言い返せなかった。



 「ここに来る前に千火さんに一つお願いをされました」

 「……え」



 そこまで鞠猫と千火さんは仲の深い間柄では無い筈だ。でもそんな仲でも千火さんは鞠猫にお願いをしたとしたら……それは……



 「どんな事があろうと、貴方の味方であってくれ。それが彼女からの頼みです」



 俺は鞠猫から視線を落とした。真っ直ぐに俺を見る彼女の強さから逃れるように。その力強さは俺には驚異的で───



 「…………俺…」

 「奏君、貴方は行かせません。今回は見逃したようですが……近々再び接触してくることでしょう。でも貴方は連れて行かせない。絶対に」



 ───何も言えなかった。



 

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