第三十話 狩りの時間だ(1)
天文十六年(1547年)10月
香道の師匠の志野宗温先生から次なる茶の湯の師匠として武野紹鴎先生を紹介して貰っていた。
武野紹鴎先生はすぐにでも教えに来るつもりだったらしいのだが、どうにも俺が居なかったせいで待ってもらっていたらしい。
川端道喜殿の筋からお詫びの品を送り、改めて茶の湯の指導に来てもらうことになった。
そのことを義藤さまに詫びると。
「別にお主と一緒に習いたくて、待っていて貰ったわけではないぞ。勘違いするでない」
とのことであった。
思わず悶絶しそうになるくらいのツンデレだったが、丁度そこにいた新二郎を無理やりさそって耐久腕立てデスマッチをすることでなんとか回避した。
武野紹鴎はまあ有名なのでさらっと紹介する。
ようするに千利休の師匠である。
堺で革屋(武具、皮革製品)を営む商人で、若狭武田氏がその出自だとされるが正直胡散臭い。
武田家の若狭守護就任が1440年で1502年生まれの武野紹鴎の父と祖父を若狭武田氏に繋げるとか結構無茶だとしか思えない。
たくさん居る他の武田をあたってくださいと個人的には思っている。
武野紹鴎先生は元々は連歌師を目指していたのだが、ぶっちゃけるとヘタクソだったので茶道に走った人である(個人の偏りまくったヘンケン艦長です)。
だが茶道では神様みたいな人なので尊敬しなければならない。
史実でも足利義輝や細川藤孝はこの人から茶道を習ったとされている。
ほかには商人では今井宗久に津田宗及、武家では松永久秀、三好実休、荒木村重が弟子とされる。
いわゆる天下三宗匠(千利休、今井宗久、津田宗及)の師なのである。
茶道界に広く影響を与えたお方なのだ。
武野紹鴎に師事するにあたり、後年千利休が作った「泪の茶杓」なるものをパクって作って紹鴎師に差し上げた。
茶杓とは竹で作った耳かきの化け物みたいなやつで、抹茶の粉を茶碗にすくって入れる匙(スプーン)である。
豊臣秀吉に切腹を命じられた千利休が弟子の古田織部に託し、後世の茶杓の見本ともなった名品であるが、見れば誰でも作れるので、がっつりパクった。
案の定、俺の工夫を評価され、武野紹鴎に可愛がられる俺である。
ちょろいもんだ。
師匠には本業である革屋さんのほうでも50人分の具足を発注したのでけっこう喜ばれた。
武野紹鴎先生は堺の商人であり、堺と繋がりを持つことは大いに意味がある。
茶道のコネを使って今井宗久あたりとは早めにコンタクトを取りたいと思っている。
紹鴎師の茶の湯の指導は公方様と二人で東求堂でみっちり習った。
紹鴎師も東求堂内の茶室の元祖となったといわれる「同仁斎」を見学していた。
わび茶の創始者ともされる村田珠光なども茶を立てたと思われるので、感慨深げに同仁斎を見つめていた。
茶室の参考にでもするのだろうかな。
さすがに師の前で、国宝の茶室の同仁斎で蕎麦などは茹でていない。
多分、香道の師匠の志野宗温殿には、同仁斎がなぜか蒲焼臭いのがバレていたと思うが、まあ何も言われなかったのでよしとしよう。
茶の湯はまあ大体こんなもんでいいだろう。(大分失礼です)
茶道を誰に学んだのかが重要なのである。
志野宗温と武野紹鴎というこの時代における究極の茶の湯の師である二人に学んだのだ。
これ以上の箔はないだろう。
あとは志野茶碗(国宝です)とかそれっぽい茶器を適当に買っておくぐらいでよいのではないかな。
曜変天目茶碗(だから国宝です)とかどこかその辺に落ちていないかな?
さていい加減文化的な活動にも飽きた(失礼ですし、藤孝は本来文化人です)ので、経済活動にも動かなければならない。
◆
メープルシロップを通年使える分だけ確保し、できればもみじ饅頭以外の用途にも使用範囲を広げていきたいので、『カエデ』の確保を考えたい。
カエデの確保とはようするに山を買えばいいのだ。
というわけで山を買おう。
とりあえず山城国の最北端を買いあさることにする。
山城国の最北端に久多荘があった。
現在の京都市左京区の久多地域と大原大見町、大原百井町にまたがる広大な荘園である。
久多荘は時代が下り久多郷ともよばれ承久の乱の恩賞などで足利家領となっている。
室町期に久多荘は足利家から醍醐寺三宝院に寄進される。
三宝院が幕府に貢献したとはいえ御料所少ないのに何をやっているのだと文句を言いたくなる。
この時代の久多荘の荘園領主である醍醐寺三宝院門跡は九条政基の子の義堯であり、代官は土倉の大森氏であった。
この久多荘の代官職は奉公衆の朽木稙綱も狙っていたのだが強引に金の力とコネで押し切った。
朽木は大事な公方様の避難先であり、今は朽木稙綱とは揉めるわけにはいかないのだが、久多荘を朽木に渡すわけにはいかないのである。
九条家は没落しまくっており三宝院門跡の義堯には援助があまりなかったようなので、三宝院門跡にはワイロが良く効きました。
朽木稙綱とは妥協する必要があり、朽木谷の南部にある葛川谷の代官職も購入し、稙綱の次男で俺と同じく御部屋衆の朽木藤綱に代官職をプレゼントした。
仲介に関してはメープルシロップ確保のためだと公方様にお願いをした。
使えるコネは公方様だろうが何だろうが使えるモノは使っとけ。
朽木稙綱とその嫡男の晴綱とは多少しこりが残ったが、朽木藤綱殿には喜ばれたからまあいいだろう。
葛川谷は青蓮院門跡の尊鎮法親王の支配を受けるが、修験道の葛川明王院の管理下にあり修験道の聖地として山林開発が制限されている。
メープルシロップの採取がやりにくいので俺にとってはいらない土地である。
青蓮院門跡と葛川明王院にワイロを貢ぎまくって代官職を買ったが美味しくないので、よろこんで朽木藤綱にあげた。
朽木藤綱殿にはソバと山菜などのお買い上げの話も持って行ったのでこれも喜ばれた。
現代の大原百井町は、はっきり言えば限界集落である。
大原大見町などは廃村になっている。
昔は木材と炭焼きで多少は栄えたらしいが、木材と炭焼きしかないともいえる。
木材の搬送ルートである大見川、百井川も扱いにくく、正直大した土地ではない。
久多地区も百井や大見よりはマシだが現在はやはり過疎地区である。
だが俺には宝の山である。
メープルシロップが採れれば採算がとれるのだ。
余人にとってはろくな土地ではなので、お得にお安く買えたのは幸いだ。
久多地区は現在の自分の領地の中では一番規模が大きいのだが、飛び地に近いので統治しにくいのが難点である。
今のところ人材がいないので角倉吉田家に代官を委任した。
大見、百井は近いので巡回しながら小出石村と一緒に統治する。
領地を開発しているヒマも人材も居ないので今はシロップと山菜が採れれば十分だと妥協した。
小出石村と百井村、大見村は貧相だが街道が繋がっているので、統治はしやすい。
山城国北部から大量のメープルシロップを採取するため、小出石村には饅頭屋宗二殿と相談してシロップの第2生産工場を作ることにした。煮詰めてシロップにしてから洛中に運んだほうが楽ちんなためだ。
◆
【狩りの時間だ(2)へ続く】
なんとか書けた。説明が多くて申し訳ないです。
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