第50話 切られる名
「俺はもう、荷札にされた」
休み小屋へ逃げ込んできた男は、作兵衛にそう言ったという。
清洲が大殿へどの名を出すのか。
その返りを那古野が待っている間に、切られる側の名が先に動いた。
朝の庭で、作兵衛は土埃をつけたまま膝をついていた。急いで来たのだろう。息は浅く、膝に置いた両手が震えている。
信長は、すぐには声を荒らげなかった。
庭には、平手、新五、龍之介、勝三郎、藤吉郎、彦右衛門、又左がいる。権六は勘十郎の館へ向かう前で、源太と孫七も少し離れて控えていた。
「市助とは誰だ」
信長が問うと、作兵衛は喉を鳴らした。
「清洲門前で、荷担ぎや小者の口をまとめていた男にございます。米屋、鍛冶宿、休み小屋、渡し場へ顔だけ出す男です。名を前へ出す者ではございませぬが、下の者は皆、あの男の声を気にします」
龍之介は、胸の奥が冷えるのを感じた。
多吉や前掛けの男の、さらに上にいた小者。
清洲門前の腹のあたりで、人を動かしていた男。
信長は短く言った。
「逃げてきたか」
「はい」
作兵衛は深く頭を下げた。
「清洲で、市助の名が書かれていると聞いたそうにございます。坂井様方の名を騙り、荷筋を乱した者として」
藤吉郎が小さく呟いた。
「人なのに、荷札」
その言葉に、庭の空気がわずかに沈んだ。
人を荷札にする。
清洲は、荷の札を替え、縄を替え、米を混ぜ、銭の噂を置いた。そして今度は、人の名を替えようとしている。
信長は笑わなかった。
「大膳が切る名か」
平手が静かに答える。
「大殿から名を問われた以上、清洲は何かを示さねばなりませぬ。その名が市助であれば、筋は作れます」
「坂井の名を騙った小者がいた。市助が勝手に荷筋を乱した。清洲も困っていた。そういう形か」
新五が言うと、作兵衛の肩が震えた。
「市助は、そう申しておりました」
又左が低く唸る。
「都合が悪くなれば、下を切るか」
「それが一番早い」
信長は冷たく言った。
「だが、早い手は跡が残る」
龍之介は、信長の横顔を見た。
怒っている。
だが、怒りで走っていない。
市助を助けるためだけに走れば、那古野が清洲の者を奪った形になる。見捨てれば、清洲は市助の名で全部を終わらせる。
どちらも、清洲に道を作る。
「市助は何を持っている」
信長が問うと、作兵衛は少し顔を上げた。
「小さな帳面を抱えております。全部ではない、と申しておりました。ただ、自分がどの日に、どの場所へ顔を出したか。それだけは残していたと」
「上の名は」
「書いておらぬようです」
平手が目を細めた。
「用心深い」
「いえ」
龍之介は、思わず口を開いた。
「怖かったのでしょう」
皆の目が向く。
「上の名を書けば、自分が殺される。書かなければ、今度は自分だけが切られる。だから、全部は残せない。けれど、何も残さないのも怖い。そういう帳面ではないでしょうか」
作兵衛が驚いたように龍之介を見た。
「その通りのことを、市助も申しておりました」
信長は、少しだけ口元を動かした。
「なら、行く」
又左が顔を上げる。
「今度こそ、動けますな」
「斬るな」
「分かっております」
「今、早かったな」
「今度は本当に分かっております」
藤吉郎が口元を押さえた。
信長は勝三郎へ向いた。
「勝三郎。市助を追う者を見る。捕らえるより、誰が連れ戻そうとするかを見ろ」
「承知」
「新五、龍之介。市助を見る。助ける者か、使う者か、泣きつく者か。見誤るな」
「はい」
信長は最後に作兵衛へ言った。
「休み小屋は閉じるな。市助を隠したことを言いふらすな。だが、荷は通せ」
作兵衛は、額を土につけた。
「承知しました」
人が切られる。
だが、道は止めない。
その難しさを、庭にいる者たちはもう知っていた。
休み小屋へ着いた時、市助は土間の隅に座っていた。
年は三十半ばほど。
細い体に、よく動く目をしている。小者をまとめる男らしく、身なりは汚れすぎていない。だが、顔はひどく青い。
右の頬に殴られた跡があった。
袖の下には、何かを抱えている。
作兵衛が声をかけた。
「市助」
市助はびくりと肩を震わせた。
新五が前へ出る。
「林新五郎正秀」
市助の顔がさらに青くなった。
「林様」
「話を聞く。嘘をつけば、すぐ分かると思え」
市助は、乾いた笑いを漏らした。
「嘘をつく元気もございませぬ」
龍之介は、市助の手を見た。
震えている。
だが、帳面だけは離していない。
死にたくない者の手だった。
同時に、何かを差し出せば助かるかもしれないと考える者の手でもあった。
「俺は、坂井様方の名を騙ったことにされます」
市助が言った。
新五は問う。
「騙ったのか」
「名を使いました」
市助は、目を逸らさず答えた。
「だが、勝手ではございませぬ」
「誰の命だ」
市助は口を閉じた。
又左の眉が動く。
だが、新五は待った。
市助は、長く息を吐いた。
「名は、言えませぬ」
「なら、何を持ってきた」
市助は袖の下から小さな帳面を出した。
古い紙を綴じただけの粗末なものだ。表紙は煤け、角は擦れている。大きな帳簿ではない。人に見せるためのものでもない。
「俺が動かした日と、場所だけです。誰から、とは書いておりませぬ。書けば、その日のうちに消されます」
新五が受け取ろうとした時、市助は手を引いた。
「ただでは渡せませぬ」
又左が一歩出かけた。
龍之介は、先に言った。
「命の値ですか」
市助は龍之介を見た。
目に、怒りと恐怖が混じる。
「命以外に、今の俺に何がございます」
その言葉は、汚くもあり、正直でもあった。
藤吉郎が小声で言う。
「腹が空いている顔です」
市助の目が藤吉郎へ向いた。
「飯の話をしている場合か」
「飯を食べてない人は、だいたい変なことをします」
藤吉郎は真剣だった。
市助は、返す言葉を失ったようだった。
龍之介は作兵衛へ目を向ける。
「粥はありますか」
「あります」
「出してください」
市助が警戒した。
「毒か」
作兵衛の顔が歪んだ。
「俺がそんなことをするか」
市助は黙った。
作兵衛は粥をよそい、土間へ置く。市助はしばらく見ていたが、やがて椀を取った。
一口食べる。
手が震えた。
二口目で、少しだけ肩が落ちた。
新五は、その間も待った。
信長の言葉通り、助ける者か、使う者か、泣きつく者かを見る。
市助は粥を半分食べてから、帳面を差し出した。
「全部は信じなくてよい。ただ、日を見てくだされ」
新五が帳面を開く。
龍之介と彦右衛門も横から見た。
日付。
場所。
灰小屋。
橘屋裏。
升屋北蔵。
渡し場。
休み小屋。
鍛冶宿裏。
そこに、短い印がついている。
大きな名はない。
坂井とも、大和守とも、守護とも書かれていない。
だが、日付が合う。
これまで那古野が見てきた出来事と、恐ろしく合う。
彦右衛門が低く言った。
「これは、荷の控えではない。人を動かした控えですな」
市助は顔を伏せた。
「いつ、どこへ顔を出したかを書いただけです。誰を脅したかまでは、書いておりませぬ」
「なぜ残した」
龍之介が問うと、市助は唇を噛んだ。
「怖かったからです」
あまりにも単純な答えだった。
「上の名を言えぬ者は、下の名にされる。俺は、ずっとそうしてきた。だから、いつか自分もそうなると分かっておりました」
市助は笑った。
笑いは、ひどく乾いていた。
「分かっていたのに、逃げるのが遅れました」
外で、勝三郎が指を鳴らした。
短い合図だった。
新五が帳面を閉じる。
龍之介は土間の入口へ目を向けた。
道の向こうから、二人の男が近づいてくる。
武士ではない。
だが、ただの荷担ぎでもない。腰に短刀を差し、顔には急ぎを隠す硬さがある。
市助の顔から血の気が引いた。
「来た」
新五が問う。
「連れ戻しにか」
「はい」
「殺しにではなく」
市助は答えなかった。
その沈黙が答えだった。
男たちは休み小屋の前で止まる。
一人が声を張った。
「作兵衛。市助がここへ来ているだろう」
作兵衛は、小屋の外へ出た。
「荷は通っております」
「そんなことは聞いていない」
「荷は通っております」
作兵衛の声は震えていた。
だが、言葉は崩れない。
男が苛立った。
「市助は清洲の用で探している。出せ」
新五が土間から出た。
「清洲の誰の用だ」
男たちは、そこで初めて新五に気づいたように顔を強張らせた。
「林殿」
「誰の用かと聞いた」
「清洲門前の騒ぎで、聞きたいことが」
「誰が聞く」
男は答えない。
新五は続けた。
「大殿より、清洲には名を出せとの問いが向かっている。その最中に市助を連れ戻す。誰の名で連れ戻す」
二人の男は顔を見合わせた。
龍之介は、市助の息が荒くなるのを聞いた。
逃げ出すかもしれない。
恐怖で、場を壊すかもしれない。
だから、龍之介は小さく言った。
「市助殿。立たないでください」
「俺を渡すのか」
「渡すなら、粥を出しません」
市助は、何かを言いかけて黙った。
外では、男の一人が声を低くした。
「こちらで預かる筋の者だ」
新五が即座に返す。
「筋とは、どの筋だ」
「清洲の」
「清洲の誰だ」
また沈黙。
そこへ又左が、少し離れた道から姿を見せた。
槍は担いでいるだけだ。
だが、二人の男の逃げ道が、自然に狭くなる。
勝三郎は逆側にいた。
追い詰めすぎない。
だが、顔は見る。
源太と孫七も、さらに後ろで道の者のように立っている。筒は見せない。槍も構えない。ただ、動くなら見ているという距離だ。
男たちは、それ以上押せなかった。
「市助へ伝えろ。戻らねば、知らぬ者になる」
そう言って、一人が吐き捨てる。
その言葉に、市助の肩が跳ねた。
多吉が言った言葉と同じだった。
戻らぬ者は、知らぬ者になる。
龍之介は、男たちを見た。
清洲の手は、同じ言葉で下を縛っている。
戻れ。
戻らねば切る。
切った後は、知らない。
新五が静かに言った。
「その言葉、誰に教わった」
男は答えない。
「戻らぬ者は、知らぬ者になる。多吉も同じようなことを言った」
二人の男の顔が、ほんのわずかに変わった。
多吉の名に反応した。
勝三郎が、その顔を覚える。
男たちは、それ以上何も言わずに去った。
追わない。
今は、市助を切らせないことが先だった。
休み小屋の中へ戻ると、市助は粥の椀を握ったまま固まっていた。
「多吉は」
声がかすれている。
「生きています」
龍之介が答えると、市助は目を閉じた。
「そうか」
「前掛けの男も生きています」
市助は、今度は苦い顔をした。
「なら、俺だけでは済まぬな」
新五が帳面を掲げる。
「この帳面では、まだ上の名には届かぬ」
「分かっております」
「だが、市助一人の勝手とも言いにくくなる」
市助は黙った。
龍之介は言った。
「あなたは助かりたい。そのために帳面を渡す。そうですね」
「そうです」
市助は、今度は迷わず答えた。
「俺は善人ではございませぬ。多吉も使った。作兵衛も脅した。飯屋にも口を置いた。俺のせいで、困った者はおります」
「そうでしょう」
龍之介は短く返した。
藤吉郎が目を丸くした。
龍之介は続ける。
「ですが、あなた一人の名で全部を終わらせれば、同じことがまた起きます」
市助は顔を上げた。
「それを止められますか」
「止めるために、あなたを今すぐ清洲へ戻さない」
市助は、力が抜けたように壁へ背を預けた。
新五は作兵衛へ向いた。
「市助は那古野へ連れていく。だが、休み小屋から奪った形にはしない」
「では」
「市助は、大殿の問いに関わる者として預かる。作兵衛、お前は市助を隠したのではない。逃げ込んだ者に粥を出し、こちらへ知らせた。それだけだ」
作兵衛は深く頭を下げた。
「はい」
信長の命令が、そのまま形になっていた。
休み小屋は閉じない。
作兵衛に重すぎる罪を背負わせない。
市助を切らせない。
だが、市助を無罪にも扱わない。
難しい道だった。
那古野へ戻ると、信長は市助を広間ではなく、庭の端で会わせた。
わざとである。
大きな場に出せば、市助は清洲から奪った証人になる。奥へ隠せば、那古野が人をさらった形になる。
庭の端。
人目はあるが、騒ぎにはならない場所。
市助はそこで膝をついた。
信長は、しばらく市助を見ていた。
「お前が市助か」
「はい」
「切られる名だな」
市助の顔が歪んだ。
「そのようで」
「己がしてきたことは、分かっているか」
「分かっております」
「なら、まず謝るな」
市助は驚いて顔を上げた。
信長は冷たく続ける。
「ここで謝れば、自分が悪うございました、で終わる。それでは清洲の思う壺だ。お前は悪い。だが、お前一人が悪い形にされようとしている。そこを分ける」
市助は、何度も瞬きをした。
謝れば楽になる。
泣けば少しは許される。
そう考えていたのかもしれない。
だが、信長はそれを許さなかった。
「帳面は見た」
信長は続ける。
「上の名はない。だが、日と場所がある。灰小屋、橘屋、升屋、渡し場、休み小屋、鍛冶宿。こちらが見てきた日と合う」
市助は額を地につけた。
「名は書けませんでした」
「だろうな」
信長は、少しだけ声を低くした。
「だが、書かなかったから生きている。書いていれば、今ここにいない」
市助は震えた。
「お前は、しばらく那古野で預かる。多吉と同じだ。飯は出す。水も出す。傷も見せろ。だが、逃げれば知らぬ」
「はい」
「それと、お前を使って清洲をすぐ責めることはせぬ」
市助が顔を上げる。
「なぜ」
「お前の名を出せば、清洲は言うだろう。ほら、市助がいた。こいつが勝手にやったのだ、と」
信長は笑った。
笑みは薄い。
「切られる名を、こちらが先に差し出してどうする」
龍之介は、その言葉に息を呑んだ。
市助を証人としてすぐ使えば、こちらに有利なようでいて、清洲の筋に乗ることになる。
清洲は、市助一人の勝手にしたい。
なら、市助だけを前に出してはいけない。
市助の帳面は、証ではなく筋の一部。
それ以上にしてはいけない。
平手が静かに言う。
「大殿へは、どういたしますか」
「すぐ送る」
信長は答えた。
「市助という名が動いた。清洲から名が出る前に、こちらは市助を預かったと父上へ知らせる。だが、市助がすべてやったとは書くな」
「承知しました」
「書くのは、こうだ」
信長は庭の土に指で線を引いた。
「清洲より名が示される前に、市助なる者が休み小屋へ逃げ込んだ。市助は己が荷筋へ関わったことを認めたが、単独の所業とは断じがたし。日と場所の控えあり。大殿の御下知を待つ、と」
平手は深く頷いた。
「それなら、清洲が市助の名を出してきても、こちらが先に市助を押さえていたことになります」
「そうだ」
信長は市助へ目を戻した。
「お前は、まだ助かったわけではない」
「分かっております」
「だが、切られて終わる名にはしない」
市助の肩が震えた。
それは安堵ではない。
恐怖でもない。
たぶん、初めて自分の名が荷札ではなく、人の名として扱われたことへの震えだった。
夕方、清洲からの文が大殿へ向けて出たという報せが入った。
予想通りだった。
文には、清洲門前の小者、市助が坂井様方の名を騙り、荷筋を乱した疑いあり、と記されているらしい。
信長は、それを聞いて口元を吊り上げた。
「遅い」
又左が笑った。
「こちらが先ですな」
「先に市助を取ったのではない。先に市助が逃げたと知らせたのだ」
信長は言った。
「そこを間違えるな」
又左はすぐに頭を下げた。
「承知しました」
龍之介は、清洲の文の意味を考えていた。
清洲は市助を切るつもりだった。
だが、市助は切られる前に逃げた。
しかも、那古野は市助を清洲へ突きつけず、大殿へ預かりを知らせた。
これで清洲は、市助一人の勝手と簡単には言い切れなくなる。
なぜなら、市助は生きている。
帳面もある。
多吉も、前掛けの男もいる。
作兵衛もいる。
それぞれが、少しずつ別の場所を指している。
一人の首では、覆いきれない。
藤吉郎がぽつりと言った。
「荷札にされる前に、人として逃げてきたんですね」
信長が藤吉郎を見た。
「そうだ」
「でも、市助殿は悪いことをしました」
「した」
「じゃあ、飯は出すけど、許すわけではないんですね」
「そうだ」
藤吉郎は難しい顔をした。
「飯は、許すことではないんですね」
信長は少し笑った。
「違う。飯は、生かして話を聞くためのものだ。許すかどうかは、その後だ」
藤吉郎は深く頷いた。
「分かりました」
龍之介は、そのやり取りを静かに聞いていた。
飯を出す。
水を出す。
傷を見る。
だが、罪を消すわけではない。
この線を引けなければ、清洲と同じになる。
人を使い捨てるか。
人を甘やかすか。
その二つではない道を、信長は選ぼうとしている。
その夜、清洲では坂井大膳が市助の逃亡を聞いていた。
さらに、市助が那古野に預けられ、大殿へその旨が先に送られたことも。
大膳は、しばらく何も言わなかった。
部屋の空気が凍る。
控えの男は、額を畳につけていた。
「申し訳ございませぬ。市助が、思ったより早く」
「違う」
大膳の声は低かった。
「市助が早かったのではない。三郎が、切られる名を見るのが早かった」
控えの男は答えられない。
大膳は、指で膝を叩く。
一度。
二度。
三度。
「市助一人では切れぬな」
「はい」
「多吉もいる。前掛けもいる。作兵衛も生きている。鍛冶宿の灰も戻らぬ。これでは、市助だけで終わらせるには線が多すぎる」
「では、いかが」
「次の名を用意する」
控えの男が顔を上げた。
大膳は静かに言った。
「小者で足りぬなら、商人の名だ。清洲門前で勝手に荷を回し、坂井の名を騙り、市助を使った商人がいた。そういう形にする」
「商人を切るので」
「首を落とすとは限らぬ。店を潰す。名を汚す。逃げさせる。それで足りることもある」
大膳は目を細めた。
「だが、今度は慎重に選ぶ。三郎に見られていない名を探せ」
控えの男は震えながら頭を下げた。
「承知しました」
大膳は、ふと窓の外を見た。
「信秀殿は、こちらへさらに問うだろう。三郎は、その問いの後ろで笑っている」
声には、苛立ちよりも冷えた警戒があった。
「龍之介もいる」
その名を口にした時だけ、大膳の指が止まった。
「流れ者が、切る名と切られる人間を分けて見ている。厄介だ」
清洲の夜は、切るべき尾を失い、次の身代わりを探し始めていた。
那古野の小蔵で、市助は粥の椀を見ていた。
多吉とは別の部屋である。
前掛けの男とも会わせていない。
互いに話を合わせられては困るからだ。
だが、飯は同じように出された。
水も同じように置かれた。
龍之介は戸の外で、その椀を見た。
市助は気づいて、苦く笑う。
「食えば、話せということでしょうか」
「食わなくても、話してもらいます」
「厳しい」
「飯は許しではないそうです」
市助は、少しだけ目を伏せた。
「若様が」
「はい」
「怖い方だ」
「そうですね」
龍之介は否定しなかった。
信長は怖い。
だが、その怖さは、市助をすぐ切る怖さではない。
切られる名として使わせない怖さだ。
市助は粥を一口食べた。
「俺は、助かりますか」
「分かりません」
龍之介は正直に答えた。
市助は笑った。
「嘘でも、助かると言ってくれぬのですな」
「嘘で助かるなら、清洲へ戻った方が早い」
市助は笑いを消した。
しばらくして、小さく頷いた。
「その通りで」
龍之介は戸口に立ったまま、清洲の方角を思った。
市助は悪い。
多吉も悪い。
前掛けの男も悪い。
作兵衛も、黙って荷に手を入れさせた。
だが、悪い者を一人ずつ切って終わりにすれば、その上にある手は残る。
清洲は、名を切って筋を作ろうとしている。
こちらは、切られる名の奥にある筋を見なければならない。
龍之介は、自分の手を見た。
火傷の痛みは、だいぶ引いていた。
だが、別の重さが残っている。
人を斬るより難しいものがある。
人を切り捨てず、罪だけを軽くせず、上へつながる道を残すこと。
呂布の武は、その答えを持っていない。
郭嘉の知は、道筋を示す。
だが、最後にその線をどう扱うかは、龍之介自身が決めなければならない。
今回、龍之介が握るべきものは刀ではなかった。
切られようとしている名と、その奥へ続く細い筋だった。
夜の小蔵の中で、市助は粥を食べ続けていた。
切られるはずだった名は、まだ生きている。
清洲が次に切ろうとする名も、どこかで震えているのかもしれない。
龍之介は静かに息を吐いた。
清洲は、自分の影を削り始めた。
削られた影が、どちらへ逃げるか。
そこに、次の道がある。




