第44話 銭箱のない場
銭の噂は、飯の噂よりも人の耳に残った。
那古野は、荷改めを口実に通し銭を取るつもりだ。
最初は渡し場の飯屋で囁かれた。
次に、寺の馬留めで聞こえた。
昼前には、浜屋利兵衛の手代が、荷を出す前に足を止めたという話まで届いた。
湊屋甚右衛門は、那古野の庭で唇を結んでいた。
「若様。通し銭の噂が出ました」
信長は、すぐには答えなかった。
庭には、平手、新五、龍之介、藤吉郎、彦右衛門、勝三郎、又左がいる。権六は勘十郎の館へ出ていた。若衆の場にも、商人が那古野へ銭を吸われるらしいという話が、薄く流れ始めているらしい。
信長は、土に線を引いた。
湊屋。
浜屋。
縄屋。
渡し場。
飯屋。
寺の馬留め。
休み小屋。
「銭の噂は早いな」
平手が静かに頷く。
「商人にとって、荷を止められる噂も痛うございますが、銭を取られる噂はさらに響きます。今日一文なら、明日は二文になるのではと考えます」
又左が不満げに言った。
「取らぬと言えばよいのでは」
「言うだけでは弱い」
信長は答えた。
「取らぬと言いながら、銭箱があれば終わりだ。飯札を銭の代わりだと言われても終わる」
藤吉郎が飯札を見下ろした。
「飯札は銭ではありません」
「お前はそう知っている。だが、知らぬ者から見れば、札は札だ」
信長は藤吉郎へ目を向けた。
「飯札で飯が出る。なら、次は札を買わされるのではないか。そう思う者が出る」
藤吉郎は黙った。
自分が良いと思った仕組みが、噂の中では別の顔にされる。それを初めて実感したのだろう。
龍之介は言った。
「銭を取らない場を、目に見える形にする必要があります」
「どうする」
信長が問う。
「まず、銭箱を置かないことです。次に、飯札は荷主が働いた者へ出す飯であって、通る者すべてから集める札ではないと分ける。さらに、荷を見る役を那古野が座って務めない。商人同士で見て、それぞれ自分の帳面へ書く」
新五が頷いた。
「那古野の帳面に集めれば、後で銭を取るための帳面だと言われます」
「はい。商人自身の帳面に残す方がよいかと」
彦右衛門が低く言う。
「荷の顔を持つのは、荷主自身ですな」
信長は少し笑った。
「なら、今日は銭箱のない場を作る」
藤吉郎が首を傾げた。
「銭箱がないことを見せるのですか」
「そうだ。人は、ある物を見る。だが、ない物も見せ方次第で分かる」
信長は甚右衛門へ向いた。
「湊屋、浜屋、縄屋をまた集めろ。渡し場の飯屋でよい。荷は小さくてよい。今日は荷より、銭の行き先を見る」
「承知いたしました」
「飯札は使ってよい。ただし、荷主ごとに札を分けろ。湊屋の飯札は湊屋の飯。浜屋の飯札は浜屋の飯。縄屋の飯札は縄屋の飯。まとめるな」
甚右衛門ははっとした顔になった。
「まとめれば、場が銭を集めているように見えますな」
「そうだ」
信長は続ける。
「渡し賃は船頭へ。飯代は飯屋へ。荷の用心は商人自身の帳面へ。那古野へ入る銭はない。その形を見せる」
龍之介は、信長の判断に深く頷いた。
否定するのではない。
流れを分ける。
銭がどこへ行くかを見えるようにする。
それが、銭の噂への答えになる。
渡し場の飯屋には、また三つの商いが集まった。
湊屋は塩樽を一つ。
浜屋は米俵を一つ。
縄屋仁助は縄束を一つ。
前日と違うのは、飯屋の前に銭箱がないことだった。
そもそも、いつもの飯屋には銭を置く小さな箱がある。飯代を受け取るためのものだ。だが、今日はそれすら奥へ下げられていた。飯屋の主人は不安そうだったが、湊屋の手代に言われた通り、飯代は後で荷主ごとに受け取ることになっている。
飯屋の柱には、小さな木札が三つ掛けられた。
湊屋の印。
浜屋の印。
縄屋の印。
どれも飯札である。
だが、一つにまとめられてはいない。
働いた者は、どの荷を手伝ったかで札を受け取る。飯屋はその札を見て飯を出し、後でそれぞれの荷主へ飯代を請う。
渡し場を通るための銭ではない。
荷を手伝った飯である。
その違いを、目で分かるようにした。
那古野側は、いつもよりさらに下がっていた。
新五、龍之介、藤吉郎、彦右衛門、勝三郎は飯屋の外側に立つ。又左は遠く、源太と孫七を連れて道の者に混じった。今日は、とくに武の気配を薄くする。
浜屋利兵衛は、まだ警戒した顔だった。
「銭箱を置かぬのか」
湊屋の手代が答える。
「置きませぬ。通る銭を集める場ではありませんので」
縄屋仁助も、恐る恐る飯札を見た。
「飯札は、荷ごとに分けるのですか」
「はい。縄屋様の荷を手伝った者には、縄屋様の札です」
「うちが飯代を払うのか」
「荷を手伝わせたなら、その飯は荷主が出す。それだけです」
仁助は少し考え、やがて頷いた。
「それなら、通し銭ではありませんね」
その一言を、周りの者が聞いた。
龍之介は、飯屋の端に目を向けた。
いた。
飯を食わずに、場を見る男。
前日の男とは違う。だが、同じように飯へ目が向いていない。見ているのは銭の行き先だ。
藤吉郎も気づいていた。
「また、食べない人です」
「分かっている」
龍之介は小さく答えた。
男は、しばらく場を見ていたが、やがて小さな銭を一枚取り出した。
そして、わざとらしく飯屋の主人へ差し出した。
「通し銭は、ここへ払えばよいのか」
飯屋の空気が固まった。
主人の顔が青くなる。
浜屋利兵衛が目を細めた。
縄屋仁助は、慌てて湊屋の手代を見た。
男は笑った。
「荷を見てもらうのだろう。銭なしでは済むまい」
場の中心へ、銭が置かれようとしている。
受け取れば終わりだった。
通し銭の噂が、形を持ってしまう。
新五が動きかけた。
だが、それより先に浜屋利兵衛が口を開いた。
「それは、何の銭だ」
男は浜屋を見た。
「だから、通し銭だ」
「誰が取る」
「この場が」
「この場とは誰だ。湊屋か。浜屋か。縄屋か。飯屋か。船頭か。那古野か」
男は一瞬、言葉に詰まった。
昨日、荷の顔を見たことで、浜屋は変わっていた。
疑うだけの客ではなく、自分の荷を守る者になり始めている。
湊屋の手代も続いた。
「湊屋は通し銭を取りませぬ。荷を手伝った者には、湊屋の飯札を渡します」
縄屋仁助も、震えながら言った。
「縄屋も、通し銭は取りませぬ。縄を運んだ者に、飯を出すだけです」
飯屋の主人は、差し出された銭を見ていた。
手は出さない。
藤吉郎が小さく息を吐く。
主人は、ようやく声を出した。
「飯を食べるなら、飯代をいただきます。荷を通す銭は、ここでは受けませぬ」
男の顔が少し歪んだ。
勝三郎が、その顔を見ていた。
龍之介も見た。
噂を置く者は、噂が形にならなかった時に、ほんの少し顔を崩す。
男は銭を引っ込めた。
「面倒な場だ」
そう呟き、席を立とうとする。
新五が静かに言った。
「飯は食わぬのか」
男は振り返った。
「腹は減っていない」
「なら、飯屋で何をしていた」
「休んでいただけだ」
「銭を出して、通し銭はどこかと聞き、飯は食わぬ。休むにも変わった客だ」
男は答えず、外へ出た。
追わない。
だが、勝三郎が目で追う。
男は飯屋を出ると、道の向こうで待っていた若い荷担ぎへ何かを伝えた。荷担ぎは頷き、休み小屋の方角へ歩いていく。
線は、また休み小屋へ向いた。
場は、そこで終わらなかった。
銭を差し出されたことで、商人たちの顔が変わった。
今までは、通し銭の噂をただ怖がっていた。だが、実際に銭を置こうとする者を見たことで、その噂が誰かに作られていると分かった。
浜屋利兵衛は、飯屋の主人へ言った。
「飯代は、浜屋の札だけ別に数えてくれ」
「はい」
「荷を手伝った者の名も、分かる範囲で聞いておきたい。銭を取るためではない。誰に飯を出したかを知るためだ」
湊屋の手代が頷く。
「湊屋も同じにします」
縄屋仁助も慌てて続いた。
「うちも」
藤吉郎が小声で言った。
「飯の帰り道ですね」
龍之介は頷いた。
「そうだな」
飯札は便利だ。
だが、便利な札は噂にされやすい。
だから、札の帰り道を見る。
誰が働き、誰が飯を食い、誰が飯を食わずに噂だけ置くのか。
それを商人自身が見る。
那古野が帳面を持つのではない。
商人が、それぞれ自分の飯の帳面を持つ。
その形が、少しずつできていった。
彦右衛門は縄屋仁助の縄束を見て、短く言った。
「結びは昨日より良い」
仁助の顔が少し明るくなった。
「分かりますか」
「分かる。端を揃えたな」
「はい。うちの者に、同じ結びにしろと言いました」
「続けろ」
仁助は深く頭を下げた。
浜屋の米俵も、札紐が昨日とは違っていた。
新しすぎる紐ではない。浜屋の者が結んだと分かるよう、紐の端に小さな捻りがある。
湊屋の塩樽は、いつもの通り縄端が内へ噛んでいる。
三つの荷は、それぞれ顔を持ち始めていた。
そして今日は、銭箱がない。
荷の顔はある。
飯の札もある。
だが、通し銭の受け皿だけがない。
ないものが、確かに見えていた。
那古野へ戻ると、信長は報告を聞いて大きく笑った。
「浜屋が問うたか」
「はい」
新五が答える。
「差し出された銭に対し、それは何の銭か、誰が取る銭かと」
「よい」
信長は満足げに頷いた。
「商人が自分で銭の名を問うた。そこがよい」
平手も静かに頷いた。
「若が言わせたのではなく、商人自身が言ったことに意味がありますな」
「そうだ」
信長は藤吉郎へ目を向けた。
「飯屋の主人は受け取らなかったか」
「はい。飯代なら受ける、荷を通す銭は受けない、と言いました」
「よし」
藤吉郎は少し誇らしげだった。
飯屋が役を果たしたことが、嬉しいのだろう。
勝三郎が続けた。
「銭を出した男は、休み小屋の方角へ使いを走らせました。若い荷担ぎ風の男です。顔は覚えています」
信長の目が鋭くなる。
「また休み小屋か」
「はい」
龍之介が答えた。
「荷に手を入れる場所であり、噂の受け渡しにも使われている可能性があります」
又左が身を乗り出した。
「そろそろ押さえますか」
信長は、少し黙った。
庭に描かれた線を見下ろす。
休み小屋。
飯屋。
渡し場。
寺の馬留め。
湊屋。
浜屋。
縄屋。
そして、清洲門前。
「まだだ」
又左は肩を落とした。
信長は続ける。
「だが、近い。銭を出した男、飯を食わぬ男、荷担ぎ風の受け手、休み小屋。線は太くなった。次に荷に手を入れれば押さえる」
新五が問う。
「手を入れさせますか」
「入れさせる」
信長は即答した。
「ただし、失ってよい荷でだ。湊屋、浜屋、縄屋に、それぞれ顔を決めた小荷を用意させる。休み小屋へ置く。見張る」
龍之介は息を呑んだ。
ついに、休み小屋へ仕掛ける。
炭、鉄、米、馬方、船頭、商人、銭の噂。
ここまで泳がせた手を、荷に触れた瞬間に押さえる。
信長は又左を見る。
「又左」
「はい」
「次は動けるかもしれぬ」
又左の目が輝いた。
「承知しました」
「だが、斬るな」
「……承知しました」
「今、間があったな」
「ありません」
藤吉郎が小さく笑いそうになり、新五に見られて咳払いした。
信長は龍之介へ向いた。
「龍之介。お前は、荷に触れる手を見る。人を殺す手か、荷を替える手か、噂を運ぶ手か。見誤るな」
「承知しました」
信長は最後に言った。
「銭の噂は、ひとまず形を持たせなかった。次は、手に形を持たせる」
庭の空気が変わった。
見るだけの段階が、少しずつ終わりに近づいている。
その夜、清洲では坂井大膳が報せを聞いた。
通し銭の噂は、広がりきらなかった。
銭を差し出した男は、飯屋に受け取らせられなかった。
浜屋が、何の銭か、誰が取る銭かと問い返した。
商人たちは、荷主ごとに飯札を分け、自分の帳面へ飯を書き始めた。
大膳は、しばらく黙っていた。
「銭箱を置かなかったか」
「はい」
「面白い」
控えの男は顔を伏せた。
「申し訳ございませぬ」
「謝るな。三郎は、銭の匂いを消すのが早かっただけだ」
大膳は指で膝を叩いた。
「だが、休み小屋を見ているな」
「そのようです」
「なら、しばらく荷には触るなと言ったはずだが」
控えの男が、言葉に詰まった。
大膳の目が細くなる。
「誰かが焦ったか」
「飯屋の者が、休み小屋へ知らせを走らせました。小屋の者が、証を消そうとしているかもしれませぬ」
大膳は、ゆっくり息を吐いた。
「馬鹿め」
その声は低かった。
「消す時に、跡が残る」
「止めますか」
「間に合えば止めろ。間に合わぬなら、切れ」
控えの男の肩が震えた。
大膳は冷たく続ける。
「休み小屋は、まだ使える。だが、小屋の者が己の身を守るために勝手に動けば、こちらの手が見える」
「承知しました」
控えの男は急ぎ、闇へ消えた。
大膳は、一人残って目を閉じた。
「三郎。お前は、こちらの焦りまで見るか」
清洲の夜に、初めてわずかな苛立ちが混じった。
那古野の夜、龍之介は銭を一枚、掌に置いていた。
飯屋で差し出されたものと同じくらいの小さな銭である。
一枚なら軽い。
だが、噂の中では重くなる。
通し銭。
関銭。
名を変えれば、同じ銭でも人の顔を変える。
今日、浜屋利兵衛は問い返した。
何の銭か。
誰が取る銭か。
それだけで、噂は形を持てなかった。
龍之介は、銭を握った。
呂布の武では、銭は斬れない。
郭嘉の知では、銭の流れは見える。
だが、銭を怖がる人の腹までは、ただの読みだけでは守れない。
場を作る必要がある。
銭箱のない場。
荷主ごとの飯札。
商人自身の帳面。
飯屋が持てるだけの役。
それらが、小さな噂を押し返した。
だが、次は休み小屋だ。
荷が止まり、札紐が替わり、縄の結びが変わった場所。
清洲の手が、そこへ触れている。
龍之介は清洲の方角を見た。
まだ斬る時ではない。
しかし、見るだけでは済まない時が近づいている。
手が荷へ伸びるなら、その手を止める。
ただし、殺さず。
騒がせず。
逃げ道を見ながら。
それがどれほど難しいことか、龍之介の掌はもう知っていた。
那古野の夜は、銭の冷たい感触を残したまま、更けていった。
第44話─了




