第42話 船頭の名
噂は、縄よりも細く、縄よりも早く渡し場へ届いた。
弥平は那古野についた。
湊屋は那古野へ米を流している。
あの渡しを使えば、清洲に目をつけられる。
そんな声が、朝にはもう岸の飯屋で囁かれていた。
藤吉郎がそれを拾って戻ってきた時、信長はまだ庭で縄を見ていた。前日に渡し場から持ち帰った、濡らされ、泥をつけられ、古く見せられた新しい縄である。
藤吉郎は息を整えながら言った。
「弥平殿の舟に、客が減っています」
信長は顔を上げた。
「舟が壊れたわけではないな」
「違います。川も悪くありません。でも、岸の飯屋で、あの舟は那古野の舟だと」
庭にいた者たちの顔が引き締まった。
平手、新五、龍之介、勝三郎、彦右衛門、又左。少し離れて源太と孫七も控えている。権六は勘十郎の館へ出ていた。
信長は縄を置いた。
「来たな」
平手が静かに頷く。
「道具を守れば、次は評判を濁す。清洲らしい手です」
「弥平をこちらで抱えるか」
又左が言うと、信長は首を横に振った。
「抱えれば噂の通りになる」
龍之介も頷いた。
「弥平殿を守るつもりで那古野の船頭にしてしまえば、渡し場そのものが細ります」
「では、どうする」
又左は腕を組む。
龍之介は、昨日の渡し場を思い浮かべた。
小舟。
岸の小屋。
飯屋。
縄。
船頭。
待つ者の少ない岸。
あれは弥平一人の場ではない。渡し場は、船頭だけでは成り立たない。岸の飯屋、縄を売る者、舟板を直す者、荷を担ぐ者、待つ者。そこが全部繋がっている。
「弥平殿だけを守るのではなく、渡し場を守るべきかと」
龍之介が言うと、信長の目が向いた。
「続けろ」
「弥平殿の舟だけを使えば、噂は強くなります。なら、湊屋の荷を弥平殿だけでなく、別の船頭にも少しずつ渡してもらう。弥平殿はその一人にする。渡し場全体が普通に動いていると見せる方がよいかと」
新五が頷いた。
「一人を特別にせず、複数に分ける」
「はい。さらに、那古野から直接銭を渡さず、湊屋と岸の飯屋を通す。船頭が那古野に雇われたのではなく、普通の荷を普通に渡した形にします」
藤吉郎が小さく手を上げた。
「飯屋も使えます」
信長が少し笑う。
「言ってみろ」
「弥平殿だけに飯を出すと、那古野の飯になります。でも、渡し場の船頭や荷担ぎが、働いた分だけ飯屋で食べられるようにすれば、弥平殿だけではありません」
彦右衛門が低く言った。
「渡し場の飯札か」
「飯札?」
藤吉郎が首を傾げる。
「働いた者に、飯一つ分の札を渡す。飯屋で飯に替える。銭ではなく、飯だ」
藤吉郎の目が輝いた。
「それ、いいです」
新五がすぐに言う。
「輝くな。食う話ではない」
「働いた飯の話です」
「余計に輝くな」
信長は笑ったが、すぐに真顔に戻った。
「悪くない。銭をばらまけば、雇ったと言われる。だが、荷を運んだ者に飯札を出し、岸の飯屋で食わせるなら、渡し場の働きの中に収まる」
平手が慎重に言った。
「ただし、飯札に那古野の名を出しすぎてはいけませぬ」
「湊屋の荷札を使う」
信長は即座に言った。
「湊屋が荷を頼み、渡し場の者が働き、岸の飯屋で飯を食う。那古野は裏で水桶と縄を整えるだけだ」
龍之介は、信長の言葉に頷いた。
弥平を救うには、弥平だけを抱えない。
渡し場の中へ戻す。
那古野の舟ではなく、渡し場の船頭の一人として動かす。
噂を消すのではなく、噂が乗る場所を広くして薄める。
信長は立ち上がった。
「今日は渡し場へ行く。弥平を励ますな。励ませば、弱っていると見られる。普通に荷を渡せ」
「承知しました」
龍之介たちは、一斉に頭を下げた。
渡し場は、前日より静かだった。
川の流れは穏やかで、空も明るい。舟を出せぬ理由はない。だが、岸で待つ者は少なく、飯屋の客も減っていた。
弥平は岸にいた。
昨日より顔が硬い。
舟の縄を確かめる手はいつも通りだったが、周囲の目を気にしている。自分が那古野についたと言われていることは、もう耳に入っているのだろう。
龍之介たちは、すぐには弥平へ近づかなかった。
新五、龍之介、藤吉郎、彦右衛門。又左は少し離れて立ち、源太と孫七はその後ろに控える。勝三郎も今日は来ていた。信長の近くの目として、人の顔を見るためである。
湊屋の手代が、小さな荷を三つ持ってきた。
米俵一つ。
塩樽一つ。
縄束一つ。
それぞれを別々の船頭へ頼む形にする。
弥平だけではない。
隣の舟を持つ甚助、もう一人の年若い船頭の小六にも声をかける。
弥平の顔が、少しだけ動いた。
自分だけが使われるのではないと分かったのだ。
飯屋の主人は、不安そうに岸を見ていた。
藤吉郎が小声で言う。
「飯屋も怖がっています」
「なぜ分かる」
勝三郎が問うと、藤吉郎は答えた。
「客が少ないのに、飯を炊きすぎていません。今日は人が来ないと知っていた顔です」
「なるほど」
勝三郎は、素直に頷いた。
藤吉郎は少し嬉しそうだったが、新五に見られて顔を引き締めた。
湊屋の手代が、飯屋の主人へ小さな札を渡した。
「今日、荷を渡した者へ飯を出してください。湊屋の荷の分です」
主人は札を見た。
那古野の名はない。
湊屋の印だけがある。
「湊屋様の」
「はい。荷を手伝った者の飯です。余れば、明日の分に」
主人は少し考え、頷いた。
飯屋が動いた。
その瞬間、岸にいる荷担ぎたちの顔が変わった。
ただ見物していた者が、少し近づく。
飯が出る。
ただし、誰でももらえる飯ではない。
働いた者の飯だ。
藤吉郎が小声で言う。
「顔が変わりました」
「飯か」
龍之介が問うと、藤吉郎は頷く。
「はい。でも、ただの飯ではありません。働くなら食える飯です」
龍之介は、岸の空気がわずかに動いたのを感じた。
清洲は、噂で人を遠ざけた。
こちらは、働いた飯で人を戻す。
銭ではなく飯。
那古野の名ではなく湊屋の荷。
弥平だけでなく、複数の船頭。
この形なら、噂は少し乗りにくい。
最初の荷は、弥平ではなく甚助が渡した。
米俵一つ。
小舟は少し揺れたが、縄は問題ない。彦右衛門が結びを見て、甚助自身も確かめる。対岸へ渡ると、荷担ぎが米俵を受け取り、湊屋の札を確認した。
次に、弥平が塩樽を渡した。
弥平の舟が動くと、岸で誰かが小さく呟いた。
「あれが那古野の舟か」
龍之介の耳にも届いた。
又左の眉が動く。
だが、動かない。
勝三郎が声の方を見た。
呟いたのは、岸の飯屋の裏にいた男だった。昨日の小屋番風の男ではない。だが、服の裾に同じような泥がついている。渡し場に慣れていない泥だ。
新五が一歩だけ近づく。
「どの舟が那古野の舟だ」
男は顔をそらした。
「ただ、そう聞いただけで」
「誰に」
「皆、言っている」
「皆とは誰だ」
男は答えない。
また名のない噂だった。
新五はそれ以上詰めなかった。
代わりに、飯屋の主人へ声をかける。
「今の声、聞いたか」
主人は顔を青くした。
「聞きました」
「この渡し場に、那古野の舟はあるか」
主人は迷った。
答え方一つで、噂に巻き込まれる。
その時、藤吉郎が飯札を指差した。
「今日の飯は、湊屋の荷を手伝った人の飯ですよね」
主人は藤吉郎を見た。
「そうだ」
「じゃあ、舟も湊屋の荷を渡しているだけです」
子供の言葉だった。
だが、だからこそ逃げ道があった。
主人は、少し息を吐いた。
「そうですな。弥平も甚助も小六も、湊屋の荷を渡しているだけでございます」
新五は頷いた。
「その通りだ」
呟いた男は、面白くなさそうに黙った。
弥平の舟は、無事に対岸へ着いた。
塩樽は濡れていない。
弥平は戻ってきた時、飯屋の主人から飯札を渡された。
「荷を渡した分だ」
主人がそう言うと、弥平はしばらく飯札を見ていた。
それから、深く頭を下げた。
「いただく」
那古野からではない。
湊屋の荷を運び、渡し場の飯屋で飯を食う。
それは普通の姿だった。
普通に戻すこと。
それが、今日の戦だった。
三つ目の縄束は、小六が渡した。
小六は若い船頭で、まだ自信がないのか、何度も縄を確かめていた。彦右衛門が横から一言だけ助言する。
「結びの余りを、内に入れろ。外へ出すと引っかかる」
小六は素直に直した。
それを見ていた弥平が、短く言った。
「それでいい」
小六の顔が少し明るくなる。
渡し場の中で、船頭同士の声が戻り始めていた。
清洲の噂は、弥平を孤立させようとしていた。
だが、弥平、甚助、小六の三人がそれぞれ荷を渡し、同じ飯屋で飯札を受ければ、弥平だけが那古野についたという話は少し弱くなる。
完全には消えない。
だが、薄まる。
龍之介は岸を見ていた。
噂を流した男は、まだいる。
だが、さっきより声を出しにくそうだった。
飯屋の主人が、働いた者へ飯を出す。
船頭が三人、荷を渡す。
湊屋の手代が札を改める。
彦右衛門が縄を見て、勝三郎が顔を見る。
新五が筋を問う。
場が、少しずつ普通に戻っていく。
普通に戻ることが、噂への返しになっていた。
藤吉郎が龍之介の袖を引いた。
「あの男、飯を食べません」
「噂を言った男か」
「はい。飯屋にいるのに、飯を見ていません」
龍之介は男を見る。
確かに、男は飯札のやり取りにも飯にも興味を示していない。見ているのは、人の反応だ。
噂を食わせる側であって、飯を食う側ではない。
「勝三郎殿」
龍之介が小さく言うと、勝三郎は頷いた。
「見ている」
勝三郎は、さりげなく男の立ち位置を変えるように歩いた。
追い詰めるのではない。
ただ、男が誰と目を合わせているかを見る。
男は、岸の小屋の裏へ視線を送った。
そこにもう一人いた。
草履の濡れ方が浅い男。
昨日の小屋番風の男とは違うが、同じように水辺に慣れていない。
勝三郎は、それ以上動かず、顔だけ覚えた。
那古野へ戻ると、信長は報告を聞いて笑った。
「普通に戻したか」
「はい」
新五が答える。
「弥平だけでなく、甚助、小六にも荷を渡しました。飯札は湊屋の印で、岸の飯屋から出ています」
「よい」
信長は頷いた。
「弥平を抱えず、渡し場に戻した。そこがよい」
藤吉郎が少し胸を張る。
「飯も働いた飯です」
「そこもよい」
「はい」
「ただし、食ったのか」
「食べていません」
「本当か」
「少しも」
新五が横から言った。
「食べてはいません。匂いは嗅いでいました」
「藤吉郎」
「すみません」
場に笑いが生まれた。
だが、勝三郎がすぐに表情を引き締めた。
「噂を言った男が一人。さらに、小屋裏にもう一人いました。どちらも水辺に慣れていません」
信長の目が細くなる。
「清洲の口か」
「おそらく」
平手が言う。
「捕らえますか」
信長は首を横に振った。
「まだだ。噂を言っただけでは弱い。捕らえれば、那古野が渡し場の者を脅したと言われる」
龍之介は頷いた。
「ですが、顔は見ました。次に別の渡し場や飯屋で同じ噂が出れば、線になります」
「そうだ」
信長は満足げに言った。
「噂は斬れぬ。だが、噂を運ぶ足はある。顔もある。飯を食うか食わぬかもある」
藤吉郎が真剣に頷いた。
「飯を食べないのに飯屋にいる人は、だいたい別のものを食べています」
又左が首を傾げる。
「何を食うんだ」
「噂です」
藤吉郎が真顔で言うと、又左は困った顔をした。
「お前の例えは、時々怖いな」
信長は笑った。
「よい例えだ」
そして、すぐに声を低くする。
「渡し場は、これで一つ戻った。だが、大膳は次に別の渡し場へ噂を撒くか、湊屋そのものを揺らす」
報せを受けて呼ばれていた甚右衛門が、深く頭を下げた。
「湊屋の名が出るなら、こちらも黙ってはおれませぬ」
「怒り方を選べと言ったな」
「はい」
「今は、道を増やせ。弥平、甚助、小六だけでは足りぬ。もう一つ、別の小さな渡しを探せ」
「承知しました」
信長は龍之介へ向いた。
「龍之介。次は噂の道を見る。米や縄と違って、噂は軽い。だが、軽いものほど遠くへ行く」
「はい」
「飯屋、渡し場、馬留め、寺。どこで同じ言葉が出るかを拾え」
「承知しました」
清洲の手は、道具から口へ移った。
なら、こちらも口の道を見るしかない。
その夜、清洲では坂井大膳が報せを聞いた。
弥平は孤立しなかった。
湊屋の飯札が渡し場で使われた。
弥平だけでなく、甚助と小六も荷を渡した。
那古野は船頭を抱え込まず、渡し場全体を普通に戻そうとしている。
大膳は、しばらく黙っていた。
「普通に戻すか」
控えの男は頭を下げる。
「噂は、まだ残せます」
「残る。だが、薄まる」
大膳は目を閉じた。
「三郎は、こちらが濁した水を、桶で掬って澄ませようとはしない。別の水も流し込む」
「いかがいたしましょう」
「湊屋へ行け」
控えの男が顔を上げる。
「湊屋に?」
「渡し場を揺らしても、湊屋が道を増やす。なら、湊屋の客を揺らす。湊屋は那古野に寄りすぎている。そう囁け」
「商人同士へ」
「そうだ。商人は客の顔を気にする。荷の道より、客の噂を恐れる時がある」
大膳は薄く笑った。
「船頭の次は、商人の信用だ」
清洲の影は、渡し場から湊屋の客筋へ伸び始めた。
那古野の夜、龍之介は庭で飯札を見ていた。
湊屋の印が押された、小さな木札である。
これ一つで、船頭や荷担ぎが飯を食える。
銭ではない。
褒美でもない。
働いた飯の印だ。
清洲が噂で弥平を孤立させようとした時、この小さな札が、弥平を渡し場へ戻した。弥平だけではなく、甚助や小六も同じ飯を食った。それによって、弥平は那古野の舟ではなく、渡し場の船頭の一人に戻った。
小さなことだ。
だが、小さなことが人を動かす。
藤吉郎は隣で、飯札を羨ましそうに見ている。
「食えないぞ」
龍之介が言うと、藤吉郎は首を振った。
「分かっています。ただ、これで飯が出るのはすごいです」
「欲しいか」
「少し」
「何を働く」
藤吉郎は考えた。
「飯の大きさを見ます」
「それはもうやっている」
「では、噂を食べている人を見ます」
龍之介は思わず笑った。
「それは役になるかもしれないな」
藤吉郎は嬉しそうにした。
しかし、龍之介はすぐに清洲の方角を見た。
次は湊屋そのものが狙われるかもしれない。
船頭の名を濁し、渡し場を濁し、それが薄まれば商人の名を濁す。
噂は、どこまでも流れる。
川の水より軽く、米俵より重く、人の腹へ入り込む。
龍之介は手を開いた。
まだ斬る時ではない。
だが、斬れぬものと戦う時間が長くなっている。
名。
飯。
縄。
米。
船頭。
商人。
それらを守るには、武だけでは足りない。
知だけでも足りない。
人が帰ってこられる道を作る。
その道を、清洲は次々に濁してくる。
なら、こちらは濁りを追い、別の流れを作るしかない。
那古野の夜は、湊屋の飯札を小さく光らせながら更けていった。
第42話─了




