第3話 那古野の異物
夜が明けると、織田勢は那古野へ向かった。
勝った後の帰陣とはいえ、明るいものではない。
負傷者を乗せた馬。
肩を貸されて歩く足軽。
血の固まった布を腕に巻いた若者。
捕らえられた敵兵。
そして、泥を乾かしたまま黙って歩く者たち。
勝った。
負け戦をひっくり返した。
それは確かだ。
だが、戦場に落ちた者は戻らない。
龍之介は列の後ろ寄りを歩きながら、何度もそれを思い知らされた。
六十年生きた現代の記憶がある。
人の死が、数字や文章ではなく、荷車に乗せられて運ばれていく。呻き、血の匂いを残し、土の上を引きずられていく。
これが戦国。
好きだった時代。
胸を熱くして読んだ乱世。
その中に自分はいる。
だが、読んでいた頃には分からなかった重さが、足元の泥と一緒に絡みついていた。
「遅れるな」
前を歩く権六が振り返らずに言った。
「申し訳ございませぬ」
「謝る前に歩け。若に拾われた初日に倒れられては、俺の目が悪いことになる」
言葉は厳しい。
だが、昨夜よりは少しだけ棘が薄い。
龍之介は歩幅を整えた。
権六の後ろ姿を見る。
太い背だ。
若き信長に口を挟めるだけの近さがあり、同時に、信長の無茶を真っ先に受け止める役でもあるのだろう。
龍之介はまだ、この男の姓を知らない。
権六。
それだけだ。
けれど、その名だけで胸の奥に浮かぶものはある。
言わない。
思い浮かべた名を口にしたところで、何の得にもならない。
むしろ危うい。
この時代の人間が知らぬはずのことを知っている。
その事実は、力よりも危険だ。
「おい、龍之介」
横から声が飛んだ。
又左だった。
槍を肩に担ぎ、戦の疲れなどまるでない顔で歩いている。だが、よく見れば足取りは重い。若さと気の強さで隠しているだけだ。
「はい」
「お前、昨日の夜は眠れたか」
「少しだけ」
「俺はよく眠れた」
又左は笑った。
「勝った後の飯はうまい。もっとも、お前は飯を見て青い顔をしていたがな」
「血の匂いが残っておりましたので」
「戦の後はそんなものだ」
軽く言う。
だが、それは無神経なのではない。
慣れようとしているのだ。
死にすぎる場所で、毎度まともに受け止めていては、心がもたない。
そういう時代なのだと、龍之介は思った。
又左の後ろから、新五が静かに言った。
「又左も初めての頃は吐いていた」
「おい、新五」
「吐いたことは吐いた」
「余計なことを言うな」
「嘘は申しておらぬ」
龍之介は思わず小さく笑いそうになった。
その時、新五の目がこちらへ向いた。
「笑ったな」
「いえ」
「笑った」
又左がにやりとした。
「よし。少しは死人の顔でなくなった」
龍之介は言葉に詰まった。
からかわれている。
だが、不思議と不快ではなかった。
監視されているのは変わらない。
信用されているわけでもない。
それでも、昨日の戦場で見られていた「得体の知れぬ刃」だけではなく、一人の若者として扱われたような気がした。
もっとも、龍之介の魂は六十年を生きている。
又左や新五から見れば同年代に見えるだろうが、内側は違う。
そのズレが、なんとも落ち着かなかった。
那古野が見えてきた。
龍之介は思わず足を止めかけた。
城。
そう呼ぶには、後の時代の巨大な城郭を思い浮かべてはいけない。
土の匂い。
木の柵。
門。
堀。
兵の目。
石垣のそびえる近世城郭ではない。
だが、ここには確かに、人を集め、命令を出し、周囲の村や道を押さえる力があった。
信長の那古野。
まだ天下からは遠い。
だが、ここから始まるものがある。
門の前に出てきた者たちが、帰ってきた一行を見てざわめいた。
「若が戻られたぞ!」
「勝ったのか」
「敵将を捕らえたらしい」
「いや、負けかけたと聞いたが」
「見慣れぬ若者がおるぞ」
視線が龍之介に集まる。
血と泥のついた身なり。
借り物のように握った槍。
そして、信長の列の中で権六の近くを歩かされていること。
目立つなという方が無理だった。
信長は馬上で振り返りもせず、門をくぐった。
その姿を見て、門番たちが慌てて頭を下げる。
「若様、お戻りにございます!」
「うむ」
信長は短く返す。
勝った者の帰還にしては、笑みが少ない。
いや、違う。
信長は周囲の反応を見ている。
誰が喜び、誰が安堵し、誰が顔を曇らせ、誰が噂を探るか。
龍之介はそう感じた。
信長がただ前を向いているだけで、場が締まる。
若い。
まだ家中すべてを掌に載せた当主ではない。
だからこそ、周囲の目は一枚岩ではない。
信長を誇る者。
心配する者。
呆れる者。
怖れる者。
そして、信長の勝ちを素直に喜ばぬ者。
龍之介の頭の奥で、冷たい知がまた線を引き始める。
戦場だけではない。
ここもまた、形を持った陣だ。
門。
庭。
廊下。
人の立つ位置。
誰が信長の近くに寄り、誰が半歩下がるか。
言葉の前に、立ち方がものを言う。
「何を見ている」
権六が言った。
「人の立つ場所を」
「それで何が分かる」
「まだ、分かるとは申せませぬ」
「分からぬと言えるならよい」
権六は短く言った。
「ここでは、戦場より口の傷が深くなることもある。余計なことを言えば、槍より面倒だ」
「心得ます」
「本当に心得ておけ」
権六の声は重かった。
龍之介は頷いた。
奥へ通される前に、龍之介は水を浴びることを許された。
完全に身体を清めるほどではない。
だが、泥と血を落とし、粗末な着物を替えるだけで、いくらか人心地が戻った。
着替えは織田方から与えられたものだ。
身体に合っている。
若い肉体。
引き締まった腕。
傷一つない肌。
水面に映った顔を見て、龍之介は改めて息を呑んだ。
知らない若者がいた。
だが、目だけは自分だった。
六十年の疲れと、昨日の戦場を見た目。
「……俺は、誰なんやろうな」
呟いて、すぐに首を振る。
答えは決めたはずだ。
呂布ではない。
郭嘉でもない。
山本龍之介。
そう決めた。
ならば、そうあり続けなければならない。
外へ出ると、新五が待っていた。
「若がお呼びだ」
「分かりました」
「その前に一つ」
新五は龍之介を正面から見た。
「お前は、どこまで己のことを話せる」
「……難しい問いです」
「難しいなら、難しいと言え。下手な嘘は、すぐに割れる」
龍之介は少しだけ黙った。
新五の言葉には敵意だけではない。
忠告も混じっている。
「出自を問われれば、遠国の生まれとしか申せませぬ。今は主も家もありません。兵法を問われれば、誰に学んだとも申せませぬ」
「それでは怪しい」
「はい」
「分かっていて言うか」
「分かっていて、他に言いようがないのです」
新五は目を細めた。
「妙な男だな」
「よく言われます」
「誰に」
龍之介は言葉に詰まった。
現代で、とは言えない。
新五はそれを見て、小さく息を吐いた。
「今のような詰まり方を、若や爺の前でするな」
「爺、とは」
「平手様だ」
龍之介はそこで初めて、白髪交じりの老臣がそう呼ばれていることをはっきり聞いた。
平手。
胸の奥に、重い名が落ちる。
平手政秀。
信長の傅役として知られる名。
だが、ここで驚きすぎてはいけない。
龍之介は頭を下げた。
「忠告、かたじけのうございます」
「礼はよい。お前が変なことを言えば、こちらも面倒になる」
言い方は冷たい。
だが、言葉の奥は悪くなかった。
龍之介は新五の背を追った。
信長は広間にいた。
上座に座っているわけではない。
けれど、どこに座っていても、視線は自然とその若者へ集まっていた。
そばには権六。
少し離れて平手と呼ばれた老臣。
又左も壁際にいる。新五は龍之介を連れて入ると、そのまま又左の近くへ下がった。
龍之介は畳に手をつき、頭を下げた。
「山本龍之介、参りました」
信長は片肘をつき、こちらを見ている。
「顔を上げよ」
「はっ」
「昨日よりは死人の顔ではないな」
「水をいただきましたので」
「水で流れるものだけなら、楽でよい」
信長の言葉に、龍之介は返せなかった。
血の匂い。
人を倒した感触。
あれは水では流れない。
信長はその沈黙を見て、少しだけ笑った。
「さて、龍之介。ここは戦場ではない。ゆえに、聞くことが増える」
「はい」
平手が静かに口を開いた。
「まず、出自を申せ」
来た。
龍之介は息を整えた。
「遠国の生まれにございます」
「国は」
「はっきりとは申し上げられませぬ」
広間の空気がわずかに硬くなる。
権六が目を細めた。
平手は表情を変えない。
「なぜ申せぬ」
「申しても、信じていただけぬ話になります」
「神隠しにでも遭うたか」
又左が小さく笑いかけ、新五に肘で止められた。
龍之介は頭を下げたまま答えた。
「それに近いもの、としか」
権六が低く唸る。
「ますます怪しい」
「怪しきことは承知しております」
「ならば、まことを申せ」
権六の声に圧がこもる。
龍之介は顔を上げた。
「まことを申せば、私はこの世の者ではなかったと言うことになります」
広間が静まり返った。
又左の顔から笑いが消える。
新五の目が鋭くなる。
権六の手が、わずかに太刀へ近づいた。
平手だけが静かだった。
信長は、目を細めた。
「続けよ」
「死んだはずでした。気づけば、昨日の戦場におりました。若き身体となり、己でも分からぬ武と、見えすぎる目を持っておりました」
龍之介は、神のことをそのまま話さなかった。
祠。
白い闇。
呂布と郭嘉の名。
それを言えば、話が遠くなりすぎる。
ただでさえ怪しいのだ。
今は、嘘を混ぜず、すべてを語らず、狂人に見えぬぎりぎりを選ぶしかない。
信長が問う。
「誰かに遣わされたか」
「いいえ」
「わしを狙っていたか」
「いいえ」
「では、なぜわしを助けた」
龍之介は少しだけ視線を落とした。
昨日の橋が浮かぶ。
逃げる兵。
槍の列。
川へ落ちていくはずだった命。
「橋が、殺し場に見えました」
「それは昨日も聞いた」
「はい。あのままなら、多くが死んでおりました。私は、それが見えてしまった。見えてしまった以上、黙っておれませなんだ」
「わしを助けるためではないと」
「最初は、兵を死なせぬためでした」
龍之介は正直に答えた。
「ですが、三郎様を見た時、この方をここで倒してはならぬと思いました」
信長の目が光った。
「なぜだ」
「目が、折れておりませなんだ」
広間の空気が少し動いた。
龍之介は続けた。
「負けかけている場で、逃げ道を見ながら、それでも敵を見ておられた。橋へ逃げれば死ぬ。前を見ても死ぬ。ならば、どこを裂くか。それを探しておられたように見えました」
信長は何も言わない。
「私は、その目を見て、声を出しました」
「それだけか」
「それだけにございます」
信長はしばらく黙った。
それから、ふっと笑う。
「よい」
権六が信長を見た。
「若」
「出自は怪しい。話も怪しい。だが、筋は通っておる」
「怪しいものは怪しいままにございます」
「だから見張る。捨てるには惜しい」
信長は龍之介へ視線を戻した。
「お前はわしを神仏のごとく崇めておるわけではない。そうだな」
「はい」
思わず即答してしまった。
権六の目がさらに鋭くなる。
信長は笑った。
「よい。崇める者は、見えたものを言わぬ。わしの機嫌を見て、耳触りのよいことを言う」
平手が静かに頷いたように見えた。
信長は続ける。
「龍之介。お前は、わしが間違うと思えば申すか」
「申すべき時であれば」
「その時を誰が決める」
「若様が決める前に、私が一度申し上げます。聞くかどうかは若様の御判断にございます」
信長の口元が上がった。
「言うではないか」
「無礼を申しました」
「いや、よい」
信長は立ち上がった。
「ならば、試す」
またか。
龍之介は腹の中で息を呑んだ。
信長は庭へ出た。
権六、平手、又左、新五、数名の家臣が続く。
龍之介もその後に出た。
庭には、昨日の捕虜の中から連れてこられた二人の男がいた。縄は打たれているが、歩ける程度には扱われている。
一人は顔に傷のある足軽。
もう一人は、身なりこそ粗いが、足軽より落ち着いていた。
信長は二人を見てから、龍之介へ言った。
「この二人、どちらがよく物を知っておる」
龍之介は眉を動かさないようにした。
また、見ろということだ。
顔の傷。
手の汚れ。
足の置き方。
縄を打たれた後の肩の力。
視線。
一人は怯えている。
だが、怯え方が素直だ。自分の命だけを心配している。目が右へ左へと泳ぎ、逃げ場を探している。
もう一人は、顔を伏せている。
しかし、耳が動いている。周囲の言葉を拾っている。足元も乱れていない。縄の中で、手首の痛みを最小にするように力を抜いている。
知っている。
捕らえられた時の振る舞いを。
「右の者にございます」
龍之介は答えた。
顔を伏せていた男の肩がわずかに動いた。
信長が笑う。
「なぜだ」
「左の者は己の命しか見ておりませぬ。右の者は周囲を聞いております。怯えるふりをして、こちらの立つ者、呼び方、距離を測っております」
右の男が顔を上げた。
権六が一歩近づく。
「貴様、何者だ」
男は黙った。
信長が龍之介へ問う。
「では、どう割る」
龍之介はすぐには答えなかった。
割る。
つまり、口を開かせる。
痛めつければ早い。
この時代なら、そういう手も当然あるだろう。
だが、龍之介の中の冷たい知は、別の道を示した。
「左の者から離します」
「なぜ」
「右の者は、左の者を見捨てる覚悟をしております。ですが、左の者は右の者を頼りにしております。二人を離し、左の者へ水と飯を与え、右の者に見える場所で休ませます」
庭にいる者たちが黙った。
龍之介は続ける。
「右の者は、自分が黙っている間に、左の者が余計なことを喋るのを恐れます。左の者が本当に何も知らぬとしても、右の者には分かりませぬ」
信長の笑みが深くなる。
「痛めつけぬのか」
「痛めつければ、言われたことを言うだけの者もおります。急ぐなら別ですが、今はこの者の口より、恐れの向きが大事かと」
平手の目が静かに細まった。
権六は腕を組んだ。
「小賢しい」
「申し訳ございませぬ」
「褒めてはおらぬ。だが、外れてもおらぬ」
信長が短く命じた。
「分けろ。左の者に水をやれ。右の者は見えるところに置け」
兵たちが動く。
右の男の顔が初めてはっきり変わった。
それを見て、又左が低く呟いた。
「当たりか」
新五は黙ったまま龍之介を見ていた。
龍之介はその視線を感じながら、自分の内側にある冷たさを押さえ込んだ。
今の読みも、人を駒として見た。
だが、無駄に血を流さぬためでもある。
そう思わなければ、足元が崩れそうだった。
夕刻、龍之介の当面の身の置き場が決まった。
正式な家臣ではない。
信長直属の近習でもない。
権六の目付のもと、信長の近くで戦場や人の動きを見る役。
名目としては、雑用もこなす。
槍を持てと言われれば持つ。
馬の世話を見ろと言われれば見る。
使えるかどうかを見る期間。
それが、今の龍之介の立場だった。
又左は不満そうに言った。
「何だ、結局よく分からぬ役だな」
新五が答える。
「よく分からぬ者には、よく分からぬ役が合う」
「なるほどな」
「納得するな」
龍之介は苦笑しかけて、すぐに表情を戻した。
気を緩めすぎてはいけない。
ここはもう、自分の知る安全な世界ではない。
夜、与えられた狭い部屋で、龍之介は一人になった。
畳の匂い。
外を歩く足音。
遠くの話し声。
那古野の夜は、静かではなかった。
人が動いている。
噂が走っている。
若が妙な男を拾った。
その男は槍で敵陣を裂いた。
戦場を読んだ。
捕虜の腹まで読んだ。
そんな話が、もう城内に広がり始めているのだろう。
目立ちすぎた。
だが、目立たなければ死んでいた。
龍之介は膝の上で拳を握った。
呂布の武。
郭嘉の知。
どちらも強すぎる。
そして、強すぎる力は、人を寄せる。
信長は使おうとする。
権六は警戒する。
平手は戒める。
又左は試したがる。
新五は測ろうとする。
それぞれの目が、龍之介に向いている。
「……えらいところへ来たな」
小さく呟く。
その時、廊下の向こうで声がした。
「若様、清洲より使いが」
龍之介は顔を上げた。
清洲。
その名が、夜の空気を少しだけ重くした。
まだ、龍之介が何かを語れる段階ではない。
だが分かる。
今日の勝ちで、戦場は終わっていない。
むしろ、動き出した。
尾張の中で。
織田の家中で。
信長を巡る目の中で。
龍之介は立ち上がりかけ、すぐに座り直した。
今の自分は、勝手に動ける立場ではない。
見えたからといって、何でも口にすればいいわけではない。
まずは、生き残る。
信長の側で、見たものを言える位置に残る。
そのうえで、武に呑まれず、知に呑まれず、自分の意志で選ぶ。
廊下の足音が遠ざかる。
那古野の夜は深くなっていく。
龍之介は暗闇の中で、己の手を見た。
昨日、人を倒した手。
今日、人の腹を読んだ手。
この手を、ただの獣の爪にも、冷たい駒取りの指にもしてはならない。
そう思った時、遠くから信長の笑い声がかすかに聞こえた。
若い。
危うい。
だが、折れない声だった。
龍之介は目を閉じた。
尾張の夜が、静かに動いていた。
第3話─了




