第2話 戦の後、信長の目
敵が崩れても、戦はすぐには終わらなかった。
逃げる者を追う足音。
降る者を縛る声。
倒れた味方を呼ぶ声。
勝った側の陣にも、血と泥と息切れが満ちていた。
龍之介は、槍を握ったまま動けずにいた。
手が震えている。
指を開けば槍を落としそうで、握れば握るほど、柄にこびりついた血のぬめりが掌に戻ってくる。
人を倒した。
一人ではない。
何人も。
首は取っていない。敵将も殺してはいない。そう自分に言い聞かせても、倒れた兵の顔が視界の端に残っていた。
六十年、生きてきた。
喧嘩くらいは見たことがある。怒鳴り合いも、殴り合いも、若い頃なら遠くなかった。
だが、人が槍で潰れる音は知らなかった。
鎧の隙間に穂先が入る感触も知らなかった。
それを、身体は知っている。
いや、知ってしまった。
「……吐くなら、あっちで吐け」
低い声がした。
龍之介が顔を上げると、大柄な武者がそばに立っていた。
太い腕。鋭い目。血の匂いを嫌がるどころか、戦場の一部として身にまとっているような男だった。
先ほど若き信長に口を挟んだ男だ。
「申し訳ございませぬ」
龍之介は頭を下げた。
「謝ることではない。初めてなら、吐く者は吐く」
大柄な武者はそう言ったが、声は少しも柔らかくなかった。
「だが、戦場で膝をつくな。味方も敵も見る」
「……承知しました」
「それと」
男の目が細くなる。
「今の震えが、殺した恐れならまだよい。だが、斬り足りぬ震えなら、若の側へは置けぬ」
龍之介の息が詰まった。
図星だった。
殺しが怖い。
それは本当だ。
だが、その奥で、まだ身体が熱を帯びている。もっと前へ出ろと、腹の底が囁く。
敵はまだいる。
追えば崩せる。
踏み込めば取れる。
そんな声がある。
龍之介は槍を持つ手に力を込めた。
「怖いのは、人を斬ったことです」
「それだけか」
「……それだけではございませぬ」
大柄な武者の眉が動いた。
龍之介は正直に言った。
「己の身体が、まだ前へ出たがっております。それが怖い」
男は黙った。
龍之介は、斬られるかもしれないと思った。
得体の知れぬ流れ者が、戦の後にそんなことを言えば、危険と見られて当然だ。
だが、男はすぐには太刀に手を伸ばさなかった。
「隠さぬのか」
「隠しても、いずれ見抜かれます」
「誰に」
龍之介は、少し離れたところにいる若武者を見た。
織田三郎。
馬を下り、捕らえた敵将の前に立っている。顔にはまだ若さがある。だが、敵を見る目に甘さはなかった。
「三郎様に」
大柄な武者は鼻を鳴らした。
「ならば、まだ愚かではない」
褒められたのか、切り捨てられなかっただけなのか分からない。
男は背を向けた。
「来い。若がお呼びだ」
龍之介は泥を踏み、信長の方へ歩いた。
敵将は縄を打たれていた。
落馬した衝撃で顔色は悪い。だが、命はある。
信長はその前に立ち、じっと相手を見下ろしていた。そばには白髪交じりの老臣が控えている。背筋の伸びた、静かな男だった。
名はまだ知らない。
だが、信長の近くにいて、他の者が自然に一歩引く。その姿だけで、ただの家臣ではないと分かる。
信長が振り返った。
「龍之介」
「はっ」
「こやつを見て、何が分かる」
いきなりだった。
龍之介は一瞬、言葉に詰まった。
敵将を見る。
年は四十前後。鎧は悪くない。太刀も使い込まれている。雑兵上がりではない。だが、大将として大軍を率いる器には見えない。先ほどの布陣も、勝ち筋を自分で作ったというより、用意された形に乗っていた。
龍之介の視界が、また冷たく澄んだ。
捕らえられた男の目。
足元の泥。
縄を打たれた手。
周囲にいる捕虜の位置。
逃げた兵の方角。
残された荷の少なさ。
さっき見た旗。
全部が、細い線でつながる。
「……この者が、本当の芯ではございませぬ」
信長の口元が動いた。
「続けよ」
「兵はこの者の号令で動いておりました。ですが、布陣がこの者の癖に見えませぬ。橋へ追い込む形は整っておりましたが、右手の林側が薄かった。地を選んだ者は別におります」
捕らえられた敵将の顔がかすかに強ばった。
信長はそれを見逃さなかった。
「ほう」
龍之介は続けた。
「この者は、勝ちが見えたため前へ出ました。逃げ道も決めておりました。つまり、自分の命を惜しむ者です。その者が、あの橋を使った殺し場を一から作るとは考えにくい」
白髪交じりの老臣の目が、静かに龍之介へ向いた。
大柄な武者も黙っている。
信長が捕虜の顔を覗き込んだ。
「だそうだ」
敵将は唇を噛んだ。
「何を、流れ者の戯言を……」
「戯言か」
信長は笑った。
「ならばなぜ、顔が変わった」
敵将は黙った。
信長は龍之介へ視線を戻した。
「では、誰だ」
龍之介はすぐには答えなかった。
見える。
読み筋はある。
だが、ここで言い切るのは危うい。
この時代の人名、土地、家のつながりを、龍之介は知識としては持っている。だが、目の前の細かな勢力関係まですべて分かるわけではない。
六十年生きた知識と、この場で見たものを混ぜて、断言すれば足元をすくわれる。
「名までは分かりませぬ」
信長の目が細くなった。
「逃げるか」
「分からぬことを分かると言えば、三郎様を誤らせます」
周囲がざわついた。
若き信長に向かって、ずいぶん踏み込んだ物言いだった。
龍之介はすぐに頭を下げた。
「無礼を申しました。されど、見えぬものまで口にすれば、私の言葉は毒になります」
白髪交じりの老臣が初めて口を開いた。
「己の言葉が毒になると分かっておるか」
「はい」
「ならば、先ほどの戦で、お主が見たものも毒になり得る」
静かな声だった。
責めているのではない。
釘を刺している。
龍之介は深く頭を下げた。
「肝に銘じます」
信長はくつくつと笑った。
「面白い」
大柄な武者が眉をひそめる。
「若」
「権六、そう怖い顔をするな」
そこで龍之介は、初めてその男が権六と呼ばれていることを知った。
大柄な武者――権六は、信長を見たまま声を低くする。
「怖い顔にもなりまする。こやつ、武が尋常ではございませぬ。その上、戦場も読む。身元は知れず、言うことも妙に筋が通る。危のうございます」
「だから側に置くと言った」
「危ういからこそ、遠ざけるべきでは」
「遠ざければ、誰かが拾う」
信長の声が低くなった。
「先ほどの戦で分かった。龍之介は一人で槍列を裂ける。だが、それより厄介なのは、どこを裂けばよいか見えることだ。敵に回れば、面倒では済まぬ」
龍之介の背に汗が流れた。
信長は、はっきり分かっている。
龍之介を助けた相手としてではなく、危険な道具としても見ている。
その上で、そばに置くと言っている。
白髪交じりの老臣が静かに言った。
「若の御気性なら、珍しき刃を拾われることは止めませぬ。されど、刃は鞘に入れねばなりませぬ」
「誰が鞘になる」
「まずは我らが目となりましょう」
老臣の視線が龍之介へ向いた。
「山本龍之介」
「はっ」
「若の側に置かれるということは、ただ強ければよいということではない。若の前で振るわれる刃は、若を傷つけぬことが第一じゃ」
「承知しております」
「まだ承知しておらぬ」
老臣の言葉は鋭かった。
龍之介は口を閉ざした。
「お主は己の力を怖いと言うた。それはよい。だが、怖いと思うだけでは足りぬ。怖い力をどう収めるかを覚えねば、いずれ味方をも恐れさせる」
龍之介は返す言葉がなかった。
その通りだった。
先ほど、味方の兵たちは龍之介を見て吠えた。だが、その目には喜びだけではなく怯えもあった。
敵を裂いた力は、味方の目にも同じように映る。
頼もしい。
だが、怖い。
信長が言った。
「爺の言う通りだ。龍之介、お前はまだ己の力を使えておらぬ」
「……はい」
「力に使われておる」
その言葉は、槍より深く刺さった。
龍之介は唇を噛んだ。
「ただし」
信長は笑った。
「使われたままで、あれだけ戦を傾けた。ならば、使えるようになればどうなるか。見てみたい」
周囲の者たちは、誰も笑わなかった。
信長だけが楽しそうだった。
追撃の声が遠くで上がった。
崩れた敵を追っていた織田勢の一部が、林の先まで出ようとしている。
信長がそちらを見た。
「押せるか」
誰にともなく問うたように聞こえた。
権六が答える。
「敵は崩れております。今ならさらに首を取れましょう」
若い武者の一人が声を上げた。
「逃がす手はありませぬ!」
荒い声だった。目に血気がある。先ほどから龍之介を何度も見ている若武者だ。
その隣にいる細身の若者は、声を上げず、林の奥を見ていた。
龍之介は二人をちらりと見た。
名はまだ知らない。
けれど、信長の近くにいる若い者たちであることは分かる。
血気の多い者。
黙って見る者。
どちらも、ただの雑兵ではない。
だが、今はそれどころではなかった。
林の奥。
逃げる敵。
追う味方。
地面の湿り。
木々の間隔。
敵が崩れた方向。
龍之介の頭に、また冷たい線が走った。
違う。
追いすぎると、まずい。
敵は全軍が崩れたわけではない。右が破れ、大将が落ち、中心が乱れた。だが、左の後詰めはまだ形を保っていた。逃げる兵を餌に、林の奥で足を止められたら、追った味方が逆に包まれる。
しかも織田勢は疲れている。
勝った興奮で足は出るが、息は切れている。
槍の間も乱れている。
ここで欲をかけば、勝ちが傷になる。
龍之介は迷った。
また言うのか。
見えたものを。
言えば、信長の判断に口を挟むことになる。
だが、言わなければ、死ぬ者が出る。
信長がふいにこちらを見た。
「龍之介」
「はっ」
「何が見える」
試されている。
龍之介は、腹を括った。
「追いすぎてはなりませぬ」
血気の多い若武者がこちらを向いた。
「何だと? 敵は逃げておるぞ」
龍之介はその若武者を見た。
ここで下手に出すぎれば、舐められる。だが、信長の前で荒く返せば、身の程知らずになる。
龍之介は信長へ向けて言った。
「敵の左手はまだ崩れきっておりませぬ。林の奥は道が狭く、追う側の列が伸びます。こちらは勝った直後で息が上がっております。逃げる兵を追って奥へ入れば、横から槍を入れられます」
黙っていた若者の目が少し動いた。
血気の多い若武者は不満げだ。
「なら、逃がすのか」
「逃がすのではない。崩れた敵を見せつけた上で、こちらの息を整えます。今取る首より、ここで失わぬ兵の方が大きい」
言ってから、龍之介は自分の言葉に寒気がした。
兵を数で見ている。
損得で見ている。
人の命を、勝ち負けの重さで量っている。
郭嘉の知が、冷たくそう告げている。
だが、それを言わねば、もっと死ぬ。
信長は林の方を見た。
ほんの短い間だった。
そして、声を張った。
「追うな! そこで止まれ! 旗を立て直せ!」
伝令が走る。
「追撃止め! 追撃止め!」
前へ出かけていた兵が足を止める。まだ追いたがる者もいたが、信長の命が飛べば止まるしかない。
直後、林の奥から矢が飛んだ。
数は少ない。
だが、もし追っていれば、先頭の兵に刺さっていただろう。
血気の多い若武者の顔が変わった。
黙っていた若者は、表情を変えずに龍之介を見ていた。
権六も林を睨み、低く唸った。
「伏せておったか」
信長は笑った。
「見えたか」
龍之介は頭を下げた。
「見えたというより、そうでなければ不自然にございました」
「何が不自然だ」
「崩れた割に、奥へ逃げる足が揃いすぎておりました。恐れて逃げる兵は、もっと散ります。ですが、あれは道を知る者に従っておりました」
信長はしばらく黙った。
それから、低く言った。
「武だけではない」
その言葉に、周囲の空気がまた変わった。
先ほどは、戦の最中だった。
血と怒号の中で、龍之介が何をしたのか、細かく見た者は少ない。
だが今度は違う。
信長が問うた。
龍之介が答えた。
命が出た。
そして、林の奥から矢が飛んだ。
見ていた者たちにも、分かってしまった。
龍之介は、ただ槍を振るうだけの男ではない。
その日の夕刻、織田勢は近くの陣所へ戻った。
大勝というほどではない。
だが、負けかけた戦をひっくり返し、敵将を捕らえ、追撃の罠を避けた。
兵たちの顔には疲労と興奮が混じっていた。
龍之介は陣の端で水を渡された。
手を洗う。
血が落ちる。
何度も擦る。
それでも、匂いが残っている気がした。
「擦りすぎると皮が剥けるぞ」
声がした。
顔を上げると、先ほどの血気の多い若武者が立っていた。
年は若い。龍之介の今の身体とそう離れていないように見える。だが、目つきは荒く、腰の動きにも隙が少ない。
若武者は龍之介の手元を見て、にやりと笑った。
「初陣か」
龍之介は少し迷い、頷いた。
「はい。戦場は、初めてにございます」
「だろうな。あれだけ暴れておいて、戦の後に死人みたいな顔をしておる」
若武者は遠慮なく笑った。
「されど、腕は化け物だ。あの槍さばき、どこで習った」
「分かりませぬ」
「分からぬ?」
「身体が、勝手に動きました」
若武者の笑みが少し消えた。
「ますます化け物だな」
「そう見えるでしょう」
「否定せぬのか」
「否定できるほど、自分でも分かっておりませぬ」
若武者は腕を組んだ。
「妙な奴だ。強いなら強いで、胸を張ればよかろうに」
その後ろから、別の声がした。
「胸を張るには、強すぎると己でも思っているのだろう」
林の奥を黙って見ていた若者だった。
若武者より静かな目をしている。こちらを面白がるというより、刃物の重さを量るような目だ。
龍之介は頭を下げた。
「山本龍之介と申します」
「聞いた。俺は新五」
若者は短く名乗った。
龍之介はその名を聞き、胸の奥がわずかに跳ねる。
新五。
その名だけで断じるのは早い。
だが、信長の近くにいて、この年頃で、この目をしている。
龍之介の知る名の一つが、頭の奥をかすめた。
すぐに口には出さない。
今ここで余計なことを言えば、自分の首を絞めるだけだ。
血気の多い若武者が鼻を鳴らす。
「おい、新五。お前、さっきから見てばかりだな」
「見なければ分からぬ」
「見て分かったか」
「分からぬことが分かった」
若武者が笑った。
「それは何も分かっておらんのと同じだろう」
「違う」
新五は龍之介を見たまま言った。
「武だけなら、力比べで測れる。だが、この男は測りどころが違う。若が側に置くなら、俺たちも目を離せぬ」
龍之介は、その言葉に軽い痛みを覚えた。
敵ではない。
だが、仲間でもない。
見張られる存在。
当然だ。
自分は突然現れ、戦を変えた。身元も語れない。力も異常。そんな者をすぐに信じる方がおかしい。
若武者が一歩近づいた。
「なあ、龍之介」
「はい」
「今度、木槍で合わせろ」
龍之介は目を瞬いた。
「私と、ですか」
「他に誰がおる」
「怪我をさせるかもしれませぬ」
若武者の口元が吊り上がった。
「言うではないか」
まずい。
煽ったつもりはなかった。
「そういう意味では」
「よい。そういう意味で受け取っておく」
若武者は楽しそうだった。
新五がため息をつく。
「又左、若の許しもなく揉めるな」
龍之介は、そこで初めて血気の多い若武者の名を知った。
又左。
その名にも、龍之介の胸は小さく騒いだ。
又左。
新五。
名だけなら、知っている。
だが、目の前の二人は書物の中の武将ではない。
まだ若く、血気があり、警戒心があり、信長の近くで息をしている。
「揉めぬ。試すだけだ」
「同じだ」
龍之介は二人を見て、胸の奥に妙な感覚を覚えた。
この者たちも、これから名を上げていくのか。
まだ分からない。
この時代は、龍之介の知る流れと同じとは限らない。
だが、今ここにいる。
生きて、喋って、龍之介を警戒し、興味を持っている。
乱世の書物に並んでいた名が、人として目の前に立っている。
その重みが、急に迫ってきた。
「どうした」
新五が問う。
龍之介は首を振った。
「いえ。ただ、私はとんでもないところへ来たのだと」
又左が笑った。
「今さらか。ここは若の陣だぞ。まともなところなものか」
その言葉に、新五がわずかに口元を動かした。
少しだけ、空気が緩んだ。
だが、その緩みは長く続かなかった。
陣の中央から呼び声が来た。
「山本龍之介、若がお呼びである!」
又左が肩をすくめる。
「ほら見ろ。まともではないところの真ん中へ呼ばれておるぞ」
新五は静かに言った。
「行け。だが、言葉を選べ」
「はい」
龍之介は立ち上がった。
膝が少し重い。
疲れではない。
これから自分が踏み込む場所の重さだった。
信長は陣幕の内にいた。
そばには権六、白髪交じりの老臣。ほかにも数名の家臣が控えている。灯された火が、信長の横顔を揺らしていた。
龍之介が入ると、視線が集まった。
誰も歓迎していない。
信長だけが、面白そうにこちらを見ている。
「来たか」
「はっ」
「座れ」
龍之介は示された場所に腰を下ろした。
信長の正面ではない。
少し下がった位置。
まだ家臣ではない。客でもない。捕虜でもない。
置き場所に困る者の席だった。
信長は杯を手にしていたが、酒は飲んでいないようだった。
「龍之介。お前をしばらくわしの側に置くと言うた」
「はい」
「だが、家中の者は納得せぬ」
権六が当然だと言わんばかりに黙っている。
白髪交じりの老臣も表情を動かさない。
信長は続けた。
「そこで、まずは役を与える」
龍之介は背筋を伸ばした。
「役、でございますか」
「わしの近くで、見たものを申せ」
陣の空気がわずかに動いた。
信長は続ける。
「ただし、軍配を預けるわけではない。物を決めるのはわしだ。お前は見ろ。戦場、兵、道、敵の息、味方の乱れ。見えたものを隠さず申せ」
「……承知しました」
「嘘を言えば斬る」
「はい」
「分からぬことを分かると言っても斬る」
「心得ました」
信長の目が鋭くなる。
「そして、わしを操ろうとしても斬る」
龍之介は、ゆっくり頭を下げた。
「その時は、斬られて当然にございます」
白髪交じりの老臣が静かにこちらを見ていた。
権六も同じだ。
信長は杯を置いた。
「よい返事だ。だが、返事だけなら誰でもできる」
龍之介は黙った。
「明日、那古野へ戻る。そこで改めて、お前の身の置き場を決める。それまでは権六の目の届くところにいろ」
権六の眉が動いた。
「私でございますか」
「不満か」
「不満ではございませぬ。ただ、若は厄介なものを私に預けるのがお好きで」
「頼りにしておるからだ」
「そう言われては、断れませぬな」
信長は笑った。
権六は笑わない。
龍之介は深く頭を下げた。
「権六様、お手数をおかけいたします」
「手数で済めばよいがな」
権六は低く言った。
信長はふいに、龍之介へ問うた。
「怖いと言うたな」
「はい」
「まだ怖いか」
「はい」
「何が一番怖い」
龍之介は少し考えた。
戦場。
人を斬ること。
信長の側に置かれること。
自分の力。
どれも怖い。
だが、一番は違う。
「見えすぎることにございます」
信長の目が止まった。
「見えすぎる?」
「敵がどこで崩れるか。誰を叩けば兵が止まるか。どこを切れば味方が助かるか。それが、あまりに冷たく見えます」
龍之介は拳を握った。
「人が、人ではなくなるように見える時がございます」
陣幕の中が静かになった。
龍之介は続けた。
「私はそれが怖い。武に呑まれれば、人を裂くことを喜びそうになる。知に呑まれれば、人を駒として見る。そのどちらにも、なりとうございませぬ」
信長は、しばらく何も言わなかった。
火が爆ぜる音だけがした。
やがて信長が言った。
「ならば、わしの側で見ておれ」
「はい?」
「乱世では、人を人として見すぎれば負ける。だが、人を駒としてしか見ぬ者も、いずれ足をすくわれる」
信長の声は若い。
だが、その目は妙に遠くを見ていた。
「わしも、まだ知らぬ。どこまで人を見て、どこから捨てるべきか。お前が見えすぎると言うなら、その目で見ておれ」
龍之介は息を呑んだ。
信長は笑う。
「ただし、わしの前で獣になるな。なれば、斬る」
「……はい」
「冷たい軍師面をして、わしに人を捨てろとだけ申すな。それも、つまらぬ」
龍之介は、なぜか少しだけ肩の力が抜けた。
恐ろしい男だ。
危うい男だ。
だが、ただの狂気ではない。
この若き信長は、龍之介の力を恐れず、面白がり、使おうとしている。けれど同時に、危うさも見ている。
だからこそ、怖い。
そして、目を離せない。
信長は立ち上がった。
「明日から、忙しくなるぞ」
「何かございますか」
「勝ったからだ」
信長は当然のように言った。
「負け戦をひっくり返せば、敵は黙らぬ。味方も騒ぐ。清洲の方にも、那古野の内にも、この話は走る」
清洲。
その名に、龍之介の胸が重くなる。
信長の足場は、まだ固くない。
外だけではない。
内にも敵がいる。
兄弟。
家臣。
織田の家中。
知っている流れの中で、血の匂いがする場所がいくつもある。
龍之介の表情を、信長は見逃さなかった。
「何か見えたか」
龍之介は一瞬、口を開きかけた。
だが、すぐには言えない。
まだ材料が足りない。
今ここで未来の名を並べても、狂人にしか見えない。
「今は、まだ」
「まだ、か」
「はい。ですが、外だけを見ていれば足元をすくわれるかと存じます」
権六の目が鋭くなった。
白髪交じりの老臣もわずかに眉を動かす。
信長は笑った。
「外だけではない、か」
龍之介は頭を下げた。
「無礼を承知で申し上げます。今日の敵は、戦場だけにおりました。ですが、戦場を作る者は、戦場の外にもおります」
信長は何も言わない。
けれど、笑みが少し深くなった。
「よい。明日、那古野で聞く」
「はっ」
「それまでに、吐くなら吐いておけ。震えるなら震えておけ。だが、わしの前に立つ時は、見えたものを言え」
龍之介は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
陣幕を出ると、夜風が頬に当たった。
血の匂いはまだ消えない。
遠くで、兵たちが低く笑っている。勝った夜の声だ。だが、負傷者の呻きも混じっている。
龍之介は空を見た。
現代の夜とは違う。
暗い。
星が多い。
その下に、若き信長の陣がある。
そして自分は、そこに入ってしまった。
もう、ただの流れ者ではない。
信長の側で、見たものを言う役。
それは名誉ではなく、首に縄をかけられたようなものでもある。
嘘を言えば斬られる。
役に立たねば捨てられる。
力に呑まれれば斬られる。
それでも、龍之介は逃げようとは思わなかった。
橋へ向かって死にかけていた兵の背中を、思い出したからだ。
見えてしまったものから、目を逸らせない。
武に呑まれるな。
知に呑まれるな。
龍之介は、血の匂いの残る手を握った。
信長の乱世は、まだ始まったばかりだった。
第2話─了




