表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連載版】呂布の武と郭嘉の知を授かった俺、信長の乱世で成り上がる  作者: あちゅ和尚


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/49

第2話 戦の後、信長の目

 敵が崩れても、戦はすぐには終わらなかった。


 逃げる者を追う足音。


 降る者を縛る声。


 倒れた味方を呼ぶ声。


 勝った側の陣にも、血と泥と息切れが満ちていた。


 龍之介は、槍を握ったまま動けずにいた。


 手が震えている。


 指を開けば槍を落としそうで、握れば握るほど、柄にこびりついた血のぬめりが掌に戻ってくる。


 人を倒した。


 一人ではない。


 何人も。


 首は取っていない。敵将も殺してはいない。そう自分に言い聞かせても、倒れた兵の顔が視界の端に残っていた。


 六十年、生きてきた。


 喧嘩くらいは見たことがある。怒鳴り合いも、殴り合いも、若い頃なら遠くなかった。


 だが、人が槍で潰れる音は知らなかった。


 鎧の隙間に穂先が入る感触も知らなかった。


 それを、身体は知っている。


 いや、知ってしまった。


「……吐くなら、あっちで吐け」


 低い声がした。


 龍之介が顔を上げると、大柄な武者がそばに立っていた。


 太い腕。鋭い目。血の匂いを嫌がるどころか、戦場の一部として身にまとっているような男だった。


 先ほど若き信長に口を挟んだ男だ。


「申し訳ございませぬ」


 龍之介は頭を下げた。


「謝ることではない。初めてなら、吐く者は吐く」


 大柄な武者はそう言ったが、声は少しも柔らかくなかった。


「だが、戦場で膝をつくな。味方も敵も見る」


「……承知しました」


「それと」


 男の目が細くなる。


「今の震えが、殺した恐れならまだよい。だが、斬り足りぬ震えなら、若の側へは置けぬ」


 龍之介の息が詰まった。


 図星だった。


 殺しが怖い。


 それは本当だ。


 だが、その奥で、まだ身体が熱を帯びている。もっと前へ出ろと、腹の底が囁く。


 敵はまだいる。


 追えば崩せる。


 踏み込めば取れる。


 そんな声がある。


 龍之介は槍を持つ手に力を込めた。


「怖いのは、人を斬ったことです」


「それだけか」


「……それだけではございませぬ」


 大柄な武者の眉が動いた。


 龍之介は正直に言った。


「己の身体が、まだ前へ出たがっております。それが怖い」


 男は黙った。


 龍之介は、斬られるかもしれないと思った。


 得体の知れぬ流れ者が、戦の後にそんなことを言えば、危険と見られて当然だ。


 だが、男はすぐには太刀に手を伸ばさなかった。


「隠さぬのか」


「隠しても、いずれ見抜かれます」


「誰に」


 龍之介は、少し離れたところにいる若武者を見た。


 織田三郎。


 馬を下り、捕らえた敵将の前に立っている。顔にはまだ若さがある。だが、敵を見る目に甘さはなかった。


「三郎様に」


 大柄な武者は鼻を鳴らした。


「ならば、まだ愚かではない」


 褒められたのか、切り捨てられなかっただけなのか分からない。


 男は背を向けた。


「来い。若がお呼びだ」


 龍之介は泥を踏み、信長の方へ歩いた。


 敵将は縄を打たれていた。


 落馬した衝撃で顔色は悪い。だが、命はある。


 信長はその前に立ち、じっと相手を見下ろしていた。そばには白髪交じりの老臣が控えている。背筋の伸びた、静かな男だった。


 名はまだ知らない。


 だが、信長の近くにいて、他の者が自然に一歩引く。その姿だけで、ただの家臣ではないと分かる。


 信長が振り返った。


「龍之介」


「はっ」


「こやつを見て、何が分かる」


 いきなりだった。


 龍之介は一瞬、言葉に詰まった。


 敵将を見る。


 年は四十前後。鎧は悪くない。太刀も使い込まれている。雑兵上がりではない。だが、大将として大軍を率いる器には見えない。先ほどの布陣も、勝ち筋を自分で作ったというより、用意された形に乗っていた。


 龍之介の視界が、また冷たく澄んだ。


 捕らえられた男の目。


 足元の泥。


 縄を打たれた手。


 周囲にいる捕虜の位置。


 逃げた兵の方角。


 残された荷の少なさ。


 さっき見た旗。


 全部が、細い線でつながる。


「……この者が、本当の芯ではございませぬ」


 信長の口元が動いた。


「続けよ」


「兵はこの者の号令で動いておりました。ですが、布陣がこの者の癖に見えませぬ。橋へ追い込む形は整っておりましたが、右手の林側が薄かった。地を選んだ者は別におります」


 捕らえられた敵将の顔がかすかに強ばった。


 信長はそれを見逃さなかった。


「ほう」


 龍之介は続けた。


「この者は、勝ちが見えたため前へ出ました。逃げ道も決めておりました。つまり、自分の命を惜しむ者です。その者が、あの橋を使った殺し場を一から作るとは考えにくい」


 白髪交じりの老臣の目が、静かに龍之介へ向いた。


 大柄な武者も黙っている。


 信長が捕虜の顔を覗き込んだ。


「だそうだ」


 敵将は唇を噛んだ。


「何を、流れ者の戯言を……」


「戯言か」


 信長は笑った。


「ならばなぜ、顔が変わった」


 敵将は黙った。


 信長は龍之介へ視線を戻した。


「では、誰だ」


 龍之介はすぐには答えなかった。


 見える。


 読み筋はある。


 だが、ここで言い切るのは危うい。


 この時代の人名、土地、家のつながりを、龍之介は知識としては持っている。だが、目の前の細かな勢力関係まですべて分かるわけではない。


 六十年生きた知識と、この場で見たものを混ぜて、断言すれば足元をすくわれる。


「名までは分かりませぬ」


 信長の目が細くなった。


「逃げるか」


「分からぬことを分かると言えば、三郎様を誤らせます」


 周囲がざわついた。


 若き信長に向かって、ずいぶん踏み込んだ物言いだった。


 龍之介はすぐに頭を下げた。


「無礼を申しました。されど、見えぬものまで口にすれば、私の言葉は毒になります」


 白髪交じりの老臣が初めて口を開いた。


「己の言葉が毒になると分かっておるか」


「はい」


「ならば、先ほどの戦で、お主が見たものも毒になり得る」


 静かな声だった。


 責めているのではない。


 釘を刺している。


 龍之介は深く頭を下げた。


「肝に銘じます」


 信長はくつくつと笑った。


「面白い」


 大柄な武者が眉をひそめる。


「若」


「権六、そう怖い顔をするな」


 そこで龍之介は、初めてその男が権六と呼ばれていることを知った。


 大柄な武者――権六は、信長を見たまま声を低くする。


「怖い顔にもなりまする。こやつ、武が尋常ではございませぬ。その上、戦場も読む。身元は知れず、言うことも妙に筋が通る。危のうございます」


「だから側に置くと言った」


「危ういからこそ、遠ざけるべきでは」


「遠ざければ、誰かが拾う」


 信長の声が低くなった。


「先ほどの戦で分かった。龍之介は一人で槍列を裂ける。だが、それより厄介なのは、どこを裂けばよいか見えることだ。敵に回れば、面倒では済まぬ」


 龍之介の背に汗が流れた。


 信長は、はっきり分かっている。


 龍之介を助けた相手としてではなく、危険な道具としても見ている。


 その上で、そばに置くと言っている。


 白髪交じりの老臣が静かに言った。


「若の御気性なら、珍しき刃を拾われることは止めませぬ。されど、刃は鞘に入れねばなりませぬ」


「誰が鞘になる」


「まずは我らが目となりましょう」


 老臣の視線が龍之介へ向いた。


「山本龍之介」


「はっ」


「若の側に置かれるということは、ただ強ければよいということではない。若の前で振るわれる刃は、若を傷つけぬことが第一じゃ」


「承知しております」


「まだ承知しておらぬ」


 老臣の言葉は鋭かった。


 龍之介は口を閉ざした。


「お主は己の力を怖いと言うた。それはよい。だが、怖いと思うだけでは足りぬ。怖い力をどう収めるかを覚えねば、いずれ味方をも恐れさせる」


 龍之介は返す言葉がなかった。


 その通りだった。


 先ほど、味方の兵たちは龍之介を見て吠えた。だが、その目には喜びだけではなく怯えもあった。


 敵を裂いた力は、味方の目にも同じように映る。


 頼もしい。


 だが、怖い。


 信長が言った。


「爺の言う通りだ。龍之介、お前はまだ己の力を使えておらぬ」


「……はい」


「力に使われておる」


 その言葉は、槍より深く刺さった。


 龍之介は唇を噛んだ。


「ただし」


 信長は笑った。


「使われたままで、あれだけ戦を傾けた。ならば、使えるようになればどうなるか。見てみたい」


 周囲の者たちは、誰も笑わなかった。


 信長だけが楽しそうだった。


 追撃の声が遠くで上がった。


 崩れた敵を追っていた織田勢の一部が、林の先まで出ようとしている。


 信長がそちらを見た。


「押せるか」


 誰にともなく問うたように聞こえた。


 権六が答える。


「敵は崩れております。今ならさらに首を取れましょう」


 若い武者の一人が声を上げた。


「逃がす手はありませぬ!」


 荒い声だった。目に血気がある。先ほどから龍之介を何度も見ている若武者だ。


 その隣にいる細身の若者は、声を上げず、林の奥を見ていた。


 龍之介は二人をちらりと見た。


 名はまだ知らない。


 けれど、信長の近くにいる若い者たちであることは分かる。


 血気の多い者。


 黙って見る者。


 どちらも、ただの雑兵ではない。


 だが、今はそれどころではなかった。


 林の奥。


 逃げる敵。


 追う味方。


 地面の湿り。


 木々の間隔。


 敵が崩れた方向。


 龍之介の頭に、また冷たい線が走った。


 違う。


 追いすぎると、まずい。


 敵は全軍が崩れたわけではない。右が破れ、大将が落ち、中心が乱れた。だが、左の後詰めはまだ形を保っていた。逃げる兵を餌に、林の奥で足を止められたら、追った味方が逆に包まれる。


 しかも織田勢は疲れている。


 勝った興奮で足は出るが、息は切れている。


 槍の間も乱れている。


 ここで欲をかけば、勝ちが傷になる。


 龍之介は迷った。


 また言うのか。


 見えたものを。


 言えば、信長の判断に口を挟むことになる。


 だが、言わなければ、死ぬ者が出る。


 信長がふいにこちらを見た。


「龍之介」


「はっ」


「何が見える」


 試されている。


 龍之介は、腹を括った。


「追いすぎてはなりませぬ」


 血気の多い若武者がこちらを向いた。


「何だと? 敵は逃げておるぞ」


 龍之介はその若武者を見た。


 ここで下手に出すぎれば、舐められる。だが、信長の前で荒く返せば、身の程知らずになる。


 龍之介は信長へ向けて言った。


「敵の左手はまだ崩れきっておりませぬ。林の奥は道が狭く、追う側の列が伸びます。こちらは勝った直後で息が上がっております。逃げる兵を追って奥へ入れば、横から槍を入れられます」


 黙っていた若者の目が少し動いた。


 血気の多い若武者は不満げだ。


「なら、逃がすのか」


「逃がすのではない。崩れた敵を見せつけた上で、こちらの息を整えます。今取る首より、ここで失わぬ兵の方が大きい」


 言ってから、龍之介は自分の言葉に寒気がした。


 兵を数で見ている。


 損得で見ている。


 人の命を、勝ち負けの重さで量っている。


 郭嘉の知が、冷たくそう告げている。


 だが、それを言わねば、もっと死ぬ。


 信長は林の方を見た。


 ほんの短い間だった。


 そして、声を張った。


「追うな! そこで止まれ! 旗を立て直せ!」


 伝令が走る。


「追撃止め! 追撃止め!」


 前へ出かけていた兵が足を止める。まだ追いたがる者もいたが、信長の命が飛べば止まるしかない。


 直後、林の奥から矢が飛んだ。


 数は少ない。


 だが、もし追っていれば、先頭の兵に刺さっていただろう。


 血気の多い若武者の顔が変わった。


 黙っていた若者は、表情を変えずに龍之介を見ていた。


 権六も林を睨み、低く唸った。


「伏せておったか」


 信長は笑った。


「見えたか」


 龍之介は頭を下げた。


「見えたというより、そうでなければ不自然にございました」


「何が不自然だ」


「崩れた割に、奥へ逃げる足が揃いすぎておりました。恐れて逃げる兵は、もっと散ります。ですが、あれは道を知る者に従っておりました」


 信長はしばらく黙った。


 それから、低く言った。


「武だけではない」


 その言葉に、周囲の空気がまた変わった。


 先ほどは、戦の最中だった。


 血と怒号の中で、龍之介が何をしたのか、細かく見た者は少ない。


 だが今度は違う。


 信長が問うた。


 龍之介が答えた。


 命が出た。


 そして、林の奥から矢が飛んだ。


 見ていた者たちにも、分かってしまった。


 龍之介は、ただ槍を振るうだけの男ではない。


 その日の夕刻、織田勢は近くの陣所へ戻った。


 大勝というほどではない。


 だが、負けかけた戦をひっくり返し、敵将を捕らえ、追撃の罠を避けた。


 兵たちの顔には疲労と興奮が混じっていた。


 龍之介は陣の端で水を渡された。


 手を洗う。


 血が落ちる。


 何度も擦る。


 それでも、匂いが残っている気がした。


「擦りすぎると皮が剥けるぞ」


 声がした。


 顔を上げると、先ほどの血気の多い若武者が立っていた。


 年は若い。龍之介の今の身体とそう離れていないように見える。だが、目つきは荒く、腰の動きにも隙が少ない。


 若武者は龍之介の手元を見て、にやりと笑った。


「初陣か」


 龍之介は少し迷い、頷いた。


「はい。戦場は、初めてにございます」


「だろうな。あれだけ暴れておいて、戦の後に死人みたいな顔をしておる」


 若武者は遠慮なく笑った。


「されど、腕は化け物だ。あの槍さばき、どこで習った」


「分かりませぬ」


「分からぬ?」


「身体が、勝手に動きました」


 若武者の笑みが少し消えた。


「ますます化け物だな」


「そう見えるでしょう」


「否定せぬのか」


「否定できるほど、自分でも分かっておりませぬ」


 若武者は腕を組んだ。


「妙な奴だ。強いなら強いで、胸を張ればよかろうに」


 その後ろから、別の声がした。


「胸を張るには、強すぎると己でも思っているのだろう」


 林の奥を黙って見ていた若者だった。


 若武者より静かな目をしている。こちらを面白がるというより、刃物の重さを量るような目だ。


 龍之介は頭を下げた。


「山本龍之介と申します」


「聞いた。俺は新五」


 若者は短く名乗った。


 龍之介はその名を聞き、胸の奥がわずかに跳ねる。


 新五。


 その名だけで断じるのは早い。


 だが、信長の近くにいて、この年頃で、この目をしている。


 龍之介の知る名の一つが、頭の奥をかすめた。


 すぐに口には出さない。


 今ここで余計なことを言えば、自分の首を絞めるだけだ。


 血気の多い若武者が鼻を鳴らす。


「おい、新五。お前、さっきから見てばかりだな」


「見なければ分からぬ」


「見て分かったか」


「分からぬことが分かった」


 若武者が笑った。


「それは何も分かっておらんのと同じだろう」


「違う」


 新五は龍之介を見たまま言った。


「武だけなら、力比べで測れる。だが、この男は測りどころが違う。若が側に置くなら、俺たちも目を離せぬ」


 龍之介は、その言葉に軽い痛みを覚えた。


 敵ではない。


 だが、仲間でもない。


 見張られる存在。


 当然だ。


 自分は突然現れ、戦を変えた。身元も語れない。力も異常。そんな者をすぐに信じる方がおかしい。


 若武者が一歩近づいた。


「なあ、龍之介」


「はい」


「今度、木槍で合わせろ」


 龍之介は目を瞬いた。


「私と、ですか」


「他に誰がおる」


「怪我をさせるかもしれませぬ」


 若武者の口元が吊り上がった。


「言うではないか」


 まずい。


 煽ったつもりはなかった。


「そういう意味では」


「よい。そういう意味で受け取っておく」


 若武者は楽しそうだった。


 新五がため息をつく。


「又左、若の許しもなく揉めるな」


 龍之介は、そこで初めて血気の多い若武者の名を知った。


 又左。


 その名にも、龍之介の胸は小さく騒いだ。


 又左。


 新五。


 名だけなら、知っている。


 だが、目の前の二人は書物の中の武将ではない。


 まだ若く、血気があり、警戒心があり、信長の近くで息をしている。


「揉めぬ。試すだけだ」


「同じだ」


 龍之介は二人を見て、胸の奥に妙な感覚を覚えた。


 この者たちも、これから名を上げていくのか。


 まだ分からない。


 この時代は、龍之介の知る流れと同じとは限らない。


 だが、今ここにいる。


 生きて、喋って、龍之介を警戒し、興味を持っている。


 乱世の書物に並んでいた名が、人として目の前に立っている。


 その重みが、急に迫ってきた。


「どうした」


 新五が問う。


 龍之介は首を振った。


「いえ。ただ、私はとんでもないところへ来たのだと」


 又左が笑った。


「今さらか。ここは若の陣だぞ。まともなところなものか」


 その言葉に、新五がわずかに口元を動かした。


 少しだけ、空気が緩んだ。


 だが、その緩みは長く続かなかった。


 陣の中央から呼び声が来た。


「山本龍之介、若がお呼びである!」


 又左が肩をすくめる。


「ほら見ろ。まともではないところの真ん中へ呼ばれておるぞ」


 新五は静かに言った。


「行け。だが、言葉を選べ」


「はい」


 龍之介は立ち上がった。


 膝が少し重い。


 疲れではない。


 これから自分が踏み込む場所の重さだった。


 信長は陣幕の内にいた。


 そばには権六、白髪交じりの老臣。ほかにも数名の家臣が控えている。灯された火が、信長の横顔を揺らしていた。


 龍之介が入ると、視線が集まった。


 誰も歓迎していない。


 信長だけが、面白そうにこちらを見ている。


「来たか」


「はっ」


「座れ」


 龍之介は示された場所に腰を下ろした。


 信長の正面ではない。


 少し下がった位置。


 まだ家臣ではない。客でもない。捕虜でもない。


 置き場所に困る者の席だった。


 信長は杯を手にしていたが、酒は飲んでいないようだった。


「龍之介。お前をしばらくわしの側に置くと言うた」


「はい」


「だが、家中の者は納得せぬ」


 権六が当然だと言わんばかりに黙っている。


 白髪交じりの老臣も表情を動かさない。


 信長は続けた。


「そこで、まずは役を与える」


 龍之介は背筋を伸ばした。


「役、でございますか」


「わしの近くで、見たものを申せ」


 陣の空気がわずかに動いた。


 信長は続ける。


「ただし、軍配を預けるわけではない。物を決めるのはわしだ。お前は見ろ。戦場、兵、道、敵の息、味方の乱れ。見えたものを隠さず申せ」


「……承知しました」


「嘘を言えば斬る」


「はい」


「分からぬことを分かると言っても斬る」


「心得ました」


 信長の目が鋭くなる。


「そして、わしを操ろうとしても斬る」


 龍之介は、ゆっくり頭を下げた。


「その時は、斬られて当然にございます」


 白髪交じりの老臣が静かにこちらを見ていた。


 権六も同じだ。


 信長は杯を置いた。


「よい返事だ。だが、返事だけなら誰でもできる」


 龍之介は黙った。


「明日、那古野へ戻る。そこで改めて、お前の身の置き場を決める。それまでは権六の目の届くところにいろ」


 権六の眉が動いた。


「私でございますか」


「不満か」


「不満ではございませぬ。ただ、若は厄介なものを私に預けるのがお好きで」


「頼りにしておるからだ」


「そう言われては、断れませぬな」


 信長は笑った。


 権六は笑わない。


 龍之介は深く頭を下げた。


「権六様、お手数をおかけいたします」


「手数で済めばよいがな」


 権六は低く言った。


 信長はふいに、龍之介へ問うた。


「怖いと言うたな」


「はい」


「まだ怖いか」


「はい」


「何が一番怖い」


 龍之介は少し考えた。


 戦場。


 人を斬ること。


 信長の側に置かれること。


 自分の力。


 どれも怖い。


 だが、一番は違う。


「見えすぎることにございます」


 信長の目が止まった。


「見えすぎる?」


「敵がどこで崩れるか。誰を叩けば兵が止まるか。どこを切れば味方が助かるか。それが、あまりに冷たく見えます」


 龍之介は拳を握った。


「人が、人ではなくなるように見える時がございます」


 陣幕の中が静かになった。


 龍之介は続けた。


「私はそれが怖い。武に呑まれれば、人を裂くことを喜びそうになる。知に呑まれれば、人を駒として見る。そのどちらにも、なりとうございませぬ」


 信長は、しばらく何も言わなかった。


 火が爆ぜる音だけがした。


 やがて信長が言った。


「ならば、わしの側で見ておれ」


「はい?」


「乱世では、人を人として見すぎれば負ける。だが、人を駒としてしか見ぬ者も、いずれ足をすくわれる」


 信長の声は若い。


 だが、その目は妙に遠くを見ていた。


「わしも、まだ知らぬ。どこまで人を見て、どこから捨てるべきか。お前が見えすぎると言うなら、その目で見ておれ」


 龍之介は息を呑んだ。


 信長は笑う。


「ただし、わしの前で獣になるな。なれば、斬る」


「……はい」


「冷たい軍師面をして、わしに人を捨てろとだけ申すな。それも、つまらぬ」


 龍之介は、なぜか少しだけ肩の力が抜けた。


 恐ろしい男だ。


 危うい男だ。


 だが、ただの狂気ではない。


 この若き信長は、龍之介の力を恐れず、面白がり、使おうとしている。けれど同時に、危うさも見ている。


 だからこそ、怖い。


 そして、目を離せない。


 信長は立ち上がった。


「明日から、忙しくなるぞ」


「何かございますか」


「勝ったからだ」


 信長は当然のように言った。


「負け戦をひっくり返せば、敵は黙らぬ。味方も騒ぐ。清洲の方にも、那古野の内にも、この話は走る」


 清洲。


 その名に、龍之介の胸が重くなる。


 信長の足場は、まだ固くない。


 外だけではない。


 内にも敵がいる。


 兄弟。


 家臣。


 織田の家中。


 知っている流れの中で、血の匂いがする場所がいくつもある。


 龍之介の表情を、信長は見逃さなかった。


「何か見えたか」


 龍之介は一瞬、口を開きかけた。


 だが、すぐには言えない。


 まだ材料が足りない。


 今ここで未来の名を並べても、狂人にしか見えない。


「今は、まだ」


「まだ、か」


「はい。ですが、外だけを見ていれば足元をすくわれるかと存じます」


 権六の目が鋭くなった。


 白髪交じりの老臣もわずかに眉を動かす。


 信長は笑った。


「外だけではない、か」


 龍之介は頭を下げた。


「無礼を承知で申し上げます。今日の敵は、戦場だけにおりました。ですが、戦場を作る者は、戦場の外にもおります」


 信長は何も言わない。


 けれど、笑みが少し深くなった。


「よい。明日、那古野で聞く」


「はっ」


「それまでに、吐くなら吐いておけ。震えるなら震えておけ。だが、わしの前に立つ時は、見えたものを言え」


 龍之介は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 陣幕を出ると、夜風が頬に当たった。


 血の匂いはまだ消えない。


 遠くで、兵たちが低く笑っている。勝った夜の声だ。だが、負傷者の呻きも混じっている。


 龍之介は空を見た。


 現代の夜とは違う。


 暗い。


 星が多い。


 その下に、若き信長の陣がある。


 そして自分は、そこに入ってしまった。


 もう、ただの流れ者ではない。


 信長の側で、見たものを言う役。


 それは名誉ではなく、首に縄をかけられたようなものでもある。


 嘘を言えば斬られる。


 役に立たねば捨てられる。


 力に呑まれれば斬られる。


 それでも、龍之介は逃げようとは思わなかった。


 橋へ向かって死にかけていた兵の背中を、思い出したからだ。


 見えてしまったものから、目を逸らせない。


 武に呑まれるな。


 知に呑まれるな。


 龍之介は、血の匂いの残る手を握った。


 信長の乱世は、まだ始まったばかりだった。


第2話─了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ