第1話 信長の負け戦を裂く
山本龍之介は、六十年生きた。
長いようで、短い人生だった。
家族を養い、働き、老い、気づけば身体のあちこちが軋むようになっていた。若い頃から好きだったものは、最後まで変わらなかった。
三国志。
戦国。
乱世に生きた男たちの名を読むたび、龍之介の胸は妙に熱くなった。
呂布奉先。
郭奉孝。
織田信長。
もし自分があの時代にいたなら――などと、酒を飲みながら何度も考えた。もちろん本気ではない。六十を過ぎた男の、少しばかり都合のいい夢だ。
ただ、一つだけ、人に話したことのない習慣があった。
家の近くに、忘れられた小さな祠があった。
誰が祀られているのかも分からない。鳥居は傾き、木の札は腐りかけ、近所の者もほとんど気に留めない。
龍之介はなぜか、その祠を放っておけなかった。
散歩のついでに落ち葉を掃き、たまに水を替え、気が向けば手を合わせた。
願いなどなかった。
ただ、忘れられるのは寂しかろうと思っただけだ。
その祠の前で、龍之介は死んだ。
胸を掴まれたような痛みが走り、膝が崩れた。倒れ込む視界の先に、小さな祠があった。
ああ、掃除をしておいてよかった。
最後に思ったのは、それだった。
目を開けると、白い闇の中にいた。
闇なのに、白かった。
前も後ろも分からない場所に、ひとつの影が立っていた。男にも女にも見えず、老人にも子供にも見えない。
『よう守ったな』
声がした。
耳ではなく、頭の奥に響いた。
「……誰や」
『忘れられたものを、忘れぬ者に名乗るほど、わしは偉くもない』
影は笑ったように見えた。
『山本龍之介。お前は六十年を生きた。大きな名は残さなんだ。だが、小さな祠を見捨てなんだ』
「それで、ここはあの世か」
『近い。だが、お前には一つ、渡せるものがある』
「渡せるもの?」
『お前が夢に見た乱世だ』
龍之介は黙った。
冗談にしては、声が冷たすぎる。
『若き肉体をやる。だが、それだけではすぐ死ぬ。ゆえに、器を与える』
影の奥から、二つの気配が生まれた。
一つは、獣のように荒い。
山を割り、馬ごと人を薙ぎ、敵陣を一人で裂くような、猛々しい気配。
『呂布奉先の武に近い器』
もう一つは、氷のように冷たい。
人の息、兵の足、旗の傾き、地の濡れ、馬の疲れ、士気の亀裂。あらゆるものを盤上の点として見下ろすような気配。
『郭奉孝の知に通じる眼』
龍之介は息を呑んだ。
「俺が、呂布や郭嘉になるんか」
『ならぬ』
影は即座に言った。
『お前はお前だ。武に呑まれれば獣になる。知に呑まれれば人を駒としか見ぬ冷たい者になる。使うのは、お前の意志だ』
「行き先は」
『お前が愛した、もう一つの乱世』
白い闇が割れた。
土の匂いがした。
血の匂いがした。
馬の嘶きと、人の悲鳴が押し寄せた。
『そこで、お前の名を決めよ』
影の声が遠ざかる。
『山本龍之介。お前は、何を守り、何を斬る』
次の瞬間、龍之介は泥の上に膝をついていた。
耳が痛かった。
怒号。
槍のぶつかる音。
逃げる兵の足音。
矢が風を裂く音。
そして、誰かが死ぬ音。
「……っ!」
龍之介は泥に手をつき、顔を上げた。
身体が軽い。
いや、軽いどころではない。
立ち上がるだけで、地面を蹴り割れそうな力が足に宿っている。腕に触れる風の重さまで分かる。指を握ると、骨の奥に熱が走った。
若い。
龍之介は自分の手を見た。
皺も、染みも、長年の疲れもない。だが、これはただ若返っただけの身体ではなかった。
前へ出たがっている。
戦場の真ん中へ。
人を裂く場所へ。
腹の底から、獣が吠えていた。
「落ち着け……俺は、俺や」
声は若かった。
だが、舌に馴染む名は一つだけだ。
「山本龍之介や」
その時、すぐ近くで兵が倒れた。
腹を押さえ、泥を掴み、口から血を吐く。
龍之介は反射的に手を伸ばしかけた。だが、視界の端で別のものが動いた。
旗。
黒ずんだ空の下、いくつもの旗が乱れている。
味方と思われる一団が、川沿いへ押し込まれていた。背後には細い橋。前には敵の槍列。逃げる兵たちが橋へ向かおうとしている。
その瞬間、龍之介の頭の中で、戦場が冷たく組み上がった。
橋は退路ではない。
殺し場だ。
狭い橋へ兵が殺到すれば、先頭が詰まる。後ろは押す。横へ逃げられない。そこへ敵が槍を入れれば、兵は川へ落ちる。落ちた者は鎧の重みで沈む。
逃げ場に見せた、処刑場。
「違う……そっちやない」
龍之介は呻いた。
何だ、これは。
考えたのではない。
見えた。
橋へ向かう兵の足。敵の槍の角度。川岸の泥の深さ。風に揺れる旗の遅れ。兵の息の乱れ。馬の首の向き。
全部が、一度に見えた。
敵陣の右。
雑木林側。
そこだけ、薄い。
木が邪魔で横へ広がれず、槍の穂先が揃っていない。後ろの弓も射線を取りにくい。しかも敵将は勝った気で、馬の頭を左後ろへ向けている。
逃げ道まで決めている。
龍之介の背筋に寒気が走った。
人の命が、線と点に見える。
あそこを裂けば、敵は崩れる。
そう分かってしまう。
「やめろ……人やぞ」
そう呟いた時、逃げる若い兵の背に敵の槍が突き立った。
兵は振り返ることもできず、前のめりに倒れた。
橋へ向かう味方が、さらに乱れた。
その奥に、一人の若武者がいた。
細身だが、目だけが異様に強い。兜の下から覗く視線は、戦況が崩れているにもかかわらず、まだ折れていなかった。
周りの兵が叫ぶ。
「三郎様、橋へ!」
「お退きくだされ!」
「ここはもうもちませぬ!」
若武者は橋を見た。
だが、渡らない。
馬上でわずかに身を起こし、敵の陣を睨んでいる。
龍之介は、その顔を見た瞬間、胸の奥を掴まれた。
三郎。
織田三郎。
まさか。
若き日の、織田信長。
「……ここで死なせる相手やないやろ」
龍之介の足が動いた。
自分で動かしたのか、身体が勝手に出たのか分からない。
落ちていた槍を拾う。
軽い。
まるで枯れ枝のようだった。
敵兵がこちらへ向いた。
「何者だ!」
槍が突き出される。
龍之介は避けた。
いや、避けたというより、槍の来る場所が先に分かった。半歩横へずれるだけで、穂先は空を切る。
身体が沈む。
槍の石突きが跳ねる。
敵兵の足が払われ、喉元へ柄が入る。
鈍い音。
人が倒れた。
龍之介の手が震えた。
やった。
人を倒した。
それでも、戦場は待ってくれない。
二人目が来る。
三人目が来る。
龍之介の身体は、恐怖より早く動いた。
槍を払う。
肘を砕く。
膝を蹴る。
穂先を反転させ、鎧の隙間へ叩き込む。
強すぎる。
腕が、足が、腰が、全部、知っている。
どうすれば人が倒れるか。
どうすれば馬が怯むか。
どうすれば槍列に穴が開くか。
頭は冷たく道を示し、身体は熱くそれを実行した。
敵の右。
雑木林側。
あそこへ行け。
龍之介は叫んだ。
「橋へ寄るな! 右へ振れ! 林側が薄い!」
味方の兵が振り返る。
当然、すぐには動かない。見知らぬ若者の叫びなど、戦場では風と同じだ。
だが、信長だけがこちらを見た。
鋭い視線が、龍之介の指した先を追う。
橋。
敵槍。
雑木林。
乱れた右手。
信長の目が細くなった。
「……橋ではない」
信長が呟いた。
次の瞬間、馬上から声が飛んだ。
「橋へ寄るな! 右へ斬り込め! 林側を裂け!」
兵たちの足が変わった。
ただ逃げていた群れが、無理やり向きを変える。まだ乱れている。まだ弱い。だが、橋へ吸い込まれる流れが、横へ曲がった。
敵がわずかに迷った。
その迷いを、龍之介は見逃さなかった。
「そこや!」
地を蹴る。
泥が跳ねた。
敵の槍列に真正面から当たれば死ぬ。だが、龍之介の目には槍の隙間が見えていた。穂先と穂先の間。兵の肩と肩の間。恐怖で半歩引いた足。
槍を寝かせ、身体ごと突っ込む。
敵兵が吹き飛んだ。
一人。
二人。
三人。
龍之介は止まらない。
雑木林の枝が頬を掠める。敵は横へ広がれない。長槍が木に引っかかる。弓は味方を恐れて射てない。
薄い。
ここだけ、薄い。
龍之介はそこへ、熱い刃のように入った。
敵の士気が鳴った。
いや、音ではない。
だが、確かに聞こえた。
崩れる。
今だ。
「押せ! ここで押せ!」
信長の声が重なった。
織田勢が食らいつく。
さっきまで逃げていた兵が、背を向けた敵を見て息を吹き返した。人は勝てると思った時、足が前へ出る。敵は勝ったと思った時に崩されると、心が先に折れる。
龍之介の中の冷たい知が、それを当然のように告げた。
敵将の馬が動いた。
左後ろ。
読んだ通り。
勝ちを確かめるため前へ出ていた敵将が、右の崩れを見て馬首を返そうとしている。周囲の護衛が慌てて道を開ける。
そこが逃げ道。
そこを断てば、全体が崩れる。
「行くな」
龍之介は自分に言った。
敵将を追えば、人を殺す。
それも、ただの兵ではない。戦の流れを決める首だ。
だが、行かなければ、味方が死ぬ。
橋で殺される。
信長がここで潰される。
龍之介の中で、何かが軋んだ。
呂布の武が前へ出ろと吠える。
郭嘉の知がそこを斬れと囁く。
龍之介は歯を食いしばった。
「俺が決める」
足が沈む。
次の瞬間、龍之介は駆けていた。
護衛の槍が三本来る。
一つ目を柄で跳ね、二つ目を肩で流し、三つ目を掴んで引く。敵兵が前のめりになる。その背を踏み台にして、龍之介は馬の横へ飛び込んだ。
敵将の顔が歪む。
「こやつ!」
太刀が抜かれる。
遅い。
龍之介はそう思ってしまった。
その冷たさに、自分でぞっとした。
だが、もう止まれない。
槍の柄で馬の首筋を叩く。馬が暴れ、敵将の身体が浮く。龍之介は穂先を返さず、石突きで敵将の胸を打った。
鎧ごと、息が潰れる音がした。
敵将が落馬する。
護衛が叫んだ。
旗が揺れた。
敵の足が止まった。
龍之介は敵将の首を取らなかった。取れた。取れる位置にあった。けれど、手が動かなかった。
代わりに、槍を敵将の喉元へ向けて叫んだ。
「大将は落ちた! まだ死にたい奴だけ前へ出ろ!」
声が、自分のものとは思えないほど太く響いた。
敵兵の顔から色が消えた。
織田勢が吠えた。
勝敗は、その瞬間に傾いた。
戦場の音は、急に遠くなる。
ついさっきまで耳を潰していた怒号が、風の向こうへ退いていく。
敵は崩れた。
逃げる者。武器を捨てる者。味方の兵に追われる者。
龍之介は泥の中に立ち尽くしていた。
手が震えている。
槍の柄が血で滑る。
自分の血ではない。
誰の血かも分からない。
喉の奥から、吐き気が込み上げた。
勝った。
生き残った。
信長を助けた。
そう分かっているのに、身体の奥の熱はまだ戦いたがっていた。
もっと行け。
もっと裂け。
敵はまだいる。
その声が腹の底で暴れている。
「違う……俺は、そういうもんになるために来たんやない」
龍之介は槍を握り直した。
その時、馬蹄の音が近づいた。
顔を上げると、若武者が馬上からこちらを見下ろしていた。
織田三郎信長。
泥と血の中でも、その目だけは濁っていなかった。
周囲には家臣がいる。鬼のような顔をした大柄な男。白髪交じりの老臣。若い荒武者たち。
誰もが龍之介を見ていた。
味方を見る目ではない。
獲物を見る目でもない。
得体の知れぬ刃を見る目だった。
信長が口を開いた。
「名は」
龍之介は膝をついた。
身体が勝手にそうした。いや、六十年の記憶が、この場で立ったまま名乗る愚を止めた。
「山本龍之介と申します」
「どこの者だ」
「……流れ者にございます」
嘘ではない。
たぶん、この時代では。
信長は笑った。
若い笑みだった。
だが、目は笑っていない。
「流れ者が、わしの負け戦に落ちてきて、橋を殺し場と見抜き、敵の薄い右を裂き、大将の逃げ道まで潰したか」
周囲がざわめいた。
龍之介は黙った。
信長は馬上で身を乗り出す。
「武だけなら、まだ分かる。腕自慢はどこにでもおる。だが、お前は違う」
信長の視線が、龍之介の手にある槍から、顔へ移った。
「お前は戦場の形を変えた」
龍之介の背に、別の汗が滲んだ。
この男は、見ていた。
ただ強いところではない。
どこを読んで、どこを裂いたかを。
信長は、ゆっくりと言った。
「山本龍之介」
「はっ」
「お前を、しばらくわしの側に置く」
周囲の空気が固まった。
大柄な男が一歩出る。
「三郎様、得体の知れぬ者にございます」
「だから置く」
信長は即座に返した。
「離せば、どこの刃になるか分からぬ。側に置けば、わしの目で見られる」
老臣が低く言う。
「力が強すぎまする。御身の近くに置くには、危ういかと」
「危ういものを遠ざければ安全か。違うな」
信長は龍之介を見たまま、口の端を上げた。
「危ういものほど、使い方を見極めねばならぬ」
龍之介は頭を下げたまま、奥歯を噛んだ。
信長の側。
それが何を意味するか、分からぬほど愚かではない。
ここから先は、ただ生き残ればいい場所ではない。
織田家中。
尾張。
清洲。
美濃。
三河。
今川。
そして、天下へ続く長い道。
知っている名が、いくつも胸を過ぎた。
だが、目の前にいる信長は、まだ天下人ではない。
負け戦の泥を浴び、家臣に警戒され、それでも目だけは前を向いている若武者だった。
この男の側にいれば、乱世の真ん中へ引きずり込まれる。
呂布の武は喜ぶだろう。
郭嘉の知は冷たく笑うだろう。
だが、選ぶのは自分だ。
龍之介は顔を上げた。
「承知いたしました」
信長の目が細くなる。
「怖くないのか」
「怖うございます」
龍之介は正直に答えた。
周囲の家臣がわずかに眉を動かす。
龍之介は続けた。
「己の力も、この戦場も、信長様の側に置かれることも、怖うございます」
信長は黙った。
「されど、先ほど橋へ向かった兵を見ました。あのままなら、多くが死んでおりました。見えてしまった以上、動かずにはおれませなんだ」
信長が、ふっと笑った。
「見えてしまった、か」
「はい」
「ならば、これからも見ろ」
信長は馬首を返した。
「そして、見えたものをわしに言え。嘘を申せば斬る。役に立たねば捨てる。だが、役に立つなら使う」
龍之介は深く頭を下げた。
「はっ」
信長の背を見ながら、龍之介は泥の中で息を吐いた。
戦場には、まだ血の匂いが残っている。
自分の手にも、消えそうにない感触が残っている。
それでも、道は開いてしまった。
六十年を生きた男の魂。
若き肉体。
呂布の武。
郭嘉の知。
そして、織田信長。
龍之介は震える手を握りしめた。
武に呑まれるな。
知に呑まれるな。
この力を振るうのは、呂布でも郭嘉でもない。
山本龍之介だ。
遠くで、信長の声が飛んだ。
「龍之介、来い!」
龍之介は立ち上がった。
泥の重みを踏みしめ、血の匂いを吸い込み、若き信長の背を追った。
その日、尾張の小さな戦場で、一人の異物が織田の陣に入った。
まだ誰も知らない。
その男が、信長の乱世を大きく傾けていくことを。
第1話─了




