第十集 「南渡の戦 前篇」
麟州刺使 張葉堅 ただし麟州刺使という称号は王律の名の下で郭玄方により与えられたものであり、朝廷からの正式な辞令によるものでは無かった。
彼は麟州の近傍、絆州江聖群の下級役人の家に生まれたが、少年期よりその残虐な性格を発揮していたと言われている。当初は犬猫の類を可虐していたところからやがては近傍の不良少年と徒党を組み、やがては商家に押し入りその一家を凌辱の上殺害するとあっては、完全に常軌を逸した者の行状と言わざるを得なかった。当然彼は司直に追われる処となり、香南の各地を転々としたその末に赤蓮教の聖堂を潜ることとなったのである。それは香南で王律を指導者と担いだ叛乱が勃発するのと、奇しくもほぼ同時期のことであった。
赤蓮教はその教義から朝廷の警戒を買い、それ故に教団の創設以来幾度も弾圧の対象となっては叛乱を起こしている。それでも完全に根絶されることなく教団が存続したのは、その信徒の多きが故、民の統治にむしろ教団を懐柔ことも必要と、時の政権においては判断されたためで、それは結果として共同体より外れた異分子、危険分子の隔離場所として教団が機能し得ることも意味していた。それは一面では、一度叛乱が起きれば、赤蓮教が政権打倒のための貴重な人材供給源としても機能し得るということでもある。
時の赤蓮教の最高指導者、大教主 楊火と、叛乱軍の実質上の指導者たる郭玄方との間に如何なる約定が存在したのかを示す資料は、今となっては残っていない。むしろ無名時代の楊火が香南の大地主たる郭家の食客であったという一点のみが、叛乱軍と赤蓮教との関連を明示する唯一にして確固たる証拠である様にも考えられる。香南の赤蓮教は香南北部の叛乱軍に呼応するように決起し、張葉堅もまた実戦部隊の指揮官として数々の場数を踏む内にその頭角を顕していった。同時に、それまで潜めて来た他者に対する可虐癖をも――張葉堅は軍民を問わず向かう先々で死体の山を量産し、それらを全て官兵と申告することにより、彼は叛乱軍における自身の地位をまるで跳躍するような勢いで高めていった。死体をバラバラに切り刻むことで、殺害した官兵の数を過大に報告するということまで行ったという。
かといって軍才は決して皆無というわけではなく、むしろ高い部類に彼は属した。「本物の」麟州刺使 虞遼星の率いる討伐隊三千を二千あまりの手勢で迎え撃った際、陽動と擬態を駆使して討伐軍を狭隘な地形に誘い込み、前途と退路を断った上で両側面より火矢を放ったのである……はたして、狭路は阿鼻叫喚の地獄と化した。混乱と殺戮の押し寄せる中を、指揮官虞遼星は方々の体で離脱に成功したが、そこで伏兵に囚われ死刑を宣告される。足の指先から人体を一寸刻みに切断し、失血死に至らせるという刑であった。むしろ虞遼星は脛まで切断されるに至った時、余りの激痛と迫り来る死の恐怖に耐えられず、発狂して死に至ったと伝えられている。戦いの結果捕虜となった僅かな官兵を待っていたのもまた地獄であった。占領した城市における公開の斬首――ただし処刑用の大刀によるものではなく錆びた鋸で。
今更ながら、官兵の殺害よりも懐柔による勢力拡充を最善と考えていた赤蓮軍の指導層の中でもこれは問題になった。官兵を体制の被害者として積極的に懐柔しようとせず、むしろ積極的に犬猫のように殺し続けている張葉堅の蛮行に、掣肘を加えるべきではないかという意見が幹部たちの間から出始めたのである。だが赤蓮教団にとっては不幸なことに、このとき大教主 楊火が死んだ。持病であった肺病が悪化した末のことである。王律軍との共闘という方針こそ辛うじて継承したものの、確固たる指導力を欠いた赤蓮教団は複数の勢力に分かれて香南のごく狭い世界の中で迷走を始めた。そして張葉堅は彼らの中で最大の勢力の頭目に、何時の間にか収まっていた。
その張葉堅は、北上を始めている。
ただし彼自身の意思による単独行動では無く、数名の同志と語らった結果としての北上であった。王律軍の根拠地たる晋安まで上り叛乱軍の主導権を奪取するという政治的な目的の他、思うがままに住民の殺害と食糧の略取を続けて来た結果として、配下の膨大な兵力を支える食料が尽きて来たという事情もある。その点、香南に出現していた流民の群と彼らは変わらなかったが、軍としての戦闘力と統制が存在しているという点において、彼ら赤蓮教徒もまた王郁軍と同様の秩序を有していた。
葉堅は、楊鳳と言う名の同志を伴い、晋安を目指している。楊鳳は最近死んだ楊火の従弟に当たる人物であり、楊火亡き後の教団首領の後継者と目されていた。前者は五万、後者は三万の兵を率いそれぞれ異なる方向より晋安を攻略する。ただし葉堅の香南における行状もあり二人の関係は決して良好なものではなく。その点、攻城に当たり齟齬を生じるかもしれない。ただ、そのようなことは実のところ葉堅としては痛痒を感じてはいなかった。
もっとも北上自体は魏六新という者が五万の兵を率いて先行し、葉堅らは彼の後を追う形で進軍していた。魏六新は楊火の代からの赤蓮教団幹部であり、元朝廷の武官であったことから用兵にも明るかった。彼は幽関を出てから葉堅、楊鳳と別れて西に針路を転じる。そこで掠奪を繰り返しつつ勢力を蓄え、ひいては新たな根拠を築く――つまるところ軍隊の行動では無く盗賊の行動であった。しかし軍事行動における侵攻が、敵の領域からの資源と人材の奪取であるという面に目を向ければ、決して兵理にもとる行動とは言えない。五万の兵を以て晋安の周辺に散在する敵を掃討しつつ複数の小城市を囲い、晋安攻略の一助とするという意図も、兵理の面では間違った選択とは言えなかった。
その、葉堅の軍――
「それにしても、意外だったな」
と、軍列の中で共に馬を進める韓亥が言った。赤蓮軍は敵味方の所属を一目で明らかにする術として、旌旗を使う他黒い甲冑の肩の部分を朱に染めている。彼自身、頭に紅い頭巾を巻いている。ただその点だけで、赤蓮軍は王郁軍に比べて外目からの統一性がはっきりとしていた。韓亥は葉堅が地元で不行状を働いて頃からの同志であり、その関係は今に至るまで続いている。韓亥自身は積極的に蛮行に加担する方では無かったが、葉堅の残虐な本質を在るがままに受け入れた結果として彼らの友誼は続いているのだから、韓亥の精神の奥底にも、何かしら葉堅に通じるところがあるのかもしれない。
「意外?……何が?」
若い、だが突き放すような声で張葉堅は言った。短躯に浅黒い肌、癖毛から髷に至るまで逆立った長髪。だが子供と見紛うほどその顔立ちは幼く、一方で死者の様に生気の失せた眼の奥で、じっとりとした光が未だぎらついている。鏡のように磨き上げられた銀色の鎧を纏っていたが、全体にくまなく塗された赤い手形が、禍々しいまでの迫力を止め処なく生み出していた。敵から切り落とした手を血に染め、それを張り付けることで作り上げた紋様である。さらに恐るべきは、騎乗する斑毛の馬に至るまでそうした装飾が為されている。
「幽関がもぬけの殻だったことさ」
「そのかわり壊されてたじゃない」
と、再び素っ気なく葉堅は応じた。主要な通過路たる幽関、王郁軍はそこに兵を配し抵抗を試みるのではないかという観測は少なからずあった。魏六新が特にそれを主張していた。彼が五万の兵を直卒して先鋒たるを願い出た理由でもある。
魏六新の観測を、葉堅は内心で嗤ったものだ――王郁軍におれの万分の一も頭が回るやつがいればそんなことはしない。赤蓮軍をより晋安の近くにまで引き込み、手ごろな場所で決戦を挑むだろう……と葉堅は考えていた。さらに五千分の一も頭が回れば赤蓮軍の幽関通過を見計らい、別働隊を以て幽関への退路を断つという小賢しい真似を弄したかもしれない。そちらの方の観測は外れた。幽関付近に伏兵を置き、別働隊への備えとはしてみたが、後背遮断の気配が一向にないことが葉堅をして敵に対し少し失望させたのだ。
恐らくは王郁を奉じる無教の徒は、晋安付近に持てる全力を振り込む積りなのだろうと葉堅は考えた。何より一兵の姿も無く、しかも火を放たれた幽関の変わり果てた姿が、王郁軍をして幽関とその近傍における迎撃という選択を捨てさせたことを明らかに示していた。
葉堅の軍は完全に壊された幽関を抜け、その後もさしたる抵抗は無く西の耕作地帯に達しようとしていた。同行していた筈の楊鳳はといえばとっくに自軍の歩速を上げて先行してしまっている。先代教主の血縁として赤蓮教団の次代を狙う身からすれば、今次の戦こそが其処までの決して険しくない行程に、過剰なまでの拍を付けたいという意欲が勝っているのだろう。
あほらしい……と葉堅は思う。
「報告ぉーく!」
隊列を逆行し騎馬が疾駆してくる。馬は二人の眼前で前脚を上げて止まり、次に息を弾ませた騎兵の報告が続いた。
「楊鳳様の軍、晋安の西二里にて展開を完了! 晋安に降伏を勧告する由にございます!」
「勿体無いことをするなぁ……殺さずに入城するつもりかい?」
葉堅は笑った。無邪気な子供を思わせる、陰の全くない笑い。それを馬を並行させつつ直視し、韓亥は言った。
「当初の作戦通りにやるんだろ? 晋安など連中にくれてやる。おれたちは晋安の周りを掠めつつ治める……」
「勿論だよ韓亥……おれ達は皿の上の肉が食いたいんだ。見栄えのいい添え物なんてやつにくれてやる」
葉堅の眼が餓狼のそれのように据わった。彼は明らかに飢えていた。血の河と屍の山に――
一方、魏六新の軍――
斥候に放った騎馬が再び近付き、砦を隊列の前方に見出した事を告げる。副官の董貫依が聞き返した。
「何処に? 砦の詳細は!?」
「架邑の外れにございます! 歩塁と柵より成る、急造の野戦陣かと……ただし並みの規模に非ず」
「…………」
どうか?……と、董貫依は主将たる魏六新を顧みる。奪るか?……という問いでもあった。魏六新は黙って頷き、貫依はさらに聞く。
「兵糧の備蓄状態が判るか?」
「一見したところ、凡そ一万の兵を一月養うに足る数かと存じます!」
「……五万ならば、巧く食い伸ばせば半月持つな」
考え込む振りをやめて、六新は微かに笑った。周辺に敵陣がなければ、このまま北上し晋安攻略軍に合流していたところだ。しかしそこに敵陣があり、我が方がそれを奪ったとあれば、晋安の外にいる王郁軍を刺激し得るかもしれない。つまりはそれだけ決戦の機会が近付くということだ。
「野営を敷く手間が省けた。貫依、三万を先行させろ」
「御意!」
それは明白な襲撃命令だった。
「申し上げまぁーす! 架邑の砦、陥落ぁ――く!」
袁家の領内に置かれた本陣、血相を欠き飛び込んできた伝令は本陣に恐慌をもたらしたかのように見えたが、それは湖面に投げ掛けられた小石の波紋を思わせる、また別の静寂を一時生んだだけであった。少なくとも本陣にあって魯春醍の傍にいる袁麗華にはそう思われた。その彼女の眼前で、張葉堅の軍を迎え撃つ一軍の将になったはずの庶服の青年は、先刻からずっと彼の弟分という二人の山賊然とした男を交互に碁を打っていた。貴人の嗜みとして碁を知る優華から見れば、定石も何もあったものではない滅茶苦茶な打ち筋なのだが、他の二人の腕が更に拙いこともあって勝ち続けている……にしても、春醍のそれは単なるざる碁には見えない、印象に残る碁の打ち方だった。
碁盤から目を離さず、春醍は言った。
「兵は?……ちゃんと逃げた?」
「大半が逃走に成功したものの、死者も少なからずと心得ます!」
伝令は平伏した。碁を打ち続ける春醍の横顔に、憂色が翳るのを優華は見た。
「速やかに降伏させた方が良かったかな」
「いや……兄者、そんな簡単に降伏させたら敵が怪しむ。兄者が描いた絵図が台無しになっちまう」と、春醍に向かう隗雲が言う。弟分とは言っても春醍より年長であるだけに、その言葉には軽視できない重みがあった。
「降伏や逃げを装うにも、先ずはちょっと戦って、そろそろ頃合いかなって時に実行に移すもんだ」
「うん……」
春醍は頷いた。兄の説教に従う弟……という様子で、それが優華には微笑ましかった。優華は用意された席から立ち上がり、卓上に広げられた地図の一点、架邑と記された箇所に朱筆で×を書き加える。張葉堅の軍が迫るであろう新たな砦まで、二十里程の距離だった。
領内に布陣する魯春醍の案内役という役目で、優華は春醍の軍に付き従っている。本来ならば本家を守る袁隷に従い家を出ないところを、優華自ら案内役を買って出た……否、案内役をでっち上げて家を出て来たようなものである。それを押し付けられる形となった春醍も、嫌な顔一つせず本陣に彼女の席を用意させたという事実からして、戦について一家言ある人々からの、戦争における常識を知らないとの誹りは免れ得ないであろう。
「……しかし、兵糧が勿体無いなあ」と、傍らで碁を見ていた呉楊がぼやくように言った。張葉堅の北上に際し、架邑から春醍が設定した決戦場に至るまで、三つの拠点を春醍は予め設けている。その規模に比して兵の配置は程々に、しかし兵糧は潤沢に――
「――やつらは飢えた狼だ。道端に肉を置いておくだけで簡単に飼い馴らせるって寸法さ。たとえそれが毒入りの肉でもな」と隗雲。
「そろそろかな……」
と言った春醍の下に、新たな伝令が駆け込んで来る。
「申し上げます! 羅王儀、魯哀、各将軍所定の配置に付きましてございます!」
無言……ただ鷹揚に春醍は頷いた。そして欠伸――同時に打った手に、隗雲が目を見張る。
「あちゃー……また負けた」
「隗雲、呉楊」
「はっ……!」
「ぼくは寝る。その間砦の二つは陥落ているだろう……その時がぼくらも動く時だ。準備をしておいてくれ」
「御意!」
春醍はすっくと立ち上がった。粛然として兄貴分を見送るふたりをそのままに、春醍は彼個人の天幕まで歩いていく。優華もまた後を追った。
「我らは領内から退きのきます。優華どのは、供の者と邸にお戻り下さい」
「勝つ積りで……ございますね?」
「ええ……勝つ積りではいます。ただ……」
「ただ……?」
「多くが流民上がりの戦を知らぬ兵ゆえ、皆には少なからず腹を括ってもらわねばなりませんが」
「お察しいたします」
「皆にそう仕向けねばならない我が身に、心が痛みます」
「…………?」
春醍の最後の言葉、その真意を優華ですら察しかねた。怪訝さに囚われた優華をそのままに、魯春醍は天幕の生む闇と静寂の世界へ、ひと時の癒しを得んと潜り込む――
「やっぱり……向いてないな」
架邑に始まり緑松、稔泉、呉楠と幽関以北に点在する拠点を、魏六新の軍はまるで箒で塵でも叩くような容易さで陥落し続けた。魏六新自身の用兵の巧みさもあるが、彼らは当初の期待通りそこに集積してあった大量の物資を手に入れ、同時に少数の捕虜を得た。むしろ捕虜のもたらした兵糧の所在に関する情報が、六新の軍をして架邑以後の攻略対象を決定してきたかのような観があった。
「……南渡だ。あそこに行けば兵糧がある」
三つめの拠点たる呉楠を攻め落としたときに捕えた敵兵も、やはりそう語って赤蓮軍の兵をして新たな攻略対象を指向せしめた。捕虜になるよりもむしろ兵を寄せるや歩塁を捨てて逃げる兵の方が多く、それ故幹部たちもまた嬉々として語り合ったものだ。
「王郁軍も存外だらしない。これではまるで次の拠点をさっさと攻め落としてくれとでも言わんばかりではないか?」
「まったくだ……特に王郁軍の兵どもは、次に香南を治めるべきは誰か品定めをしているように思える」
「南渡の占拠を以て、愈々この地一帯を新たな本拠と為さん」
呉楠を落とした日の夜、魏六新は彼の配下に告げた。もっとも、当の配下たちとて次に攻めるべきは南渡にある広大な歩塁であると固く信じて疑わなかった。すでに先行させていた斥候のもたらした報告が、葉堅の軍をしてまる半年に亘る行動を可能にするだけの兵糧を南渡に蓄えていることを彼に教えていたためである。
赤蓮軍、南渡に急進中――魯哀が放っていた騎兵斥候のもたらした報告を受けるや、春醍も兵を動かした。名目は、南渡の奪回。
南渡は、丘陵の連続する中に穿たれるように広がる平野が広がる中で、それを東西に別つように建水という川が流れている。具体的には建水の西の畔、最も広い平野に作られた小市を南渡と言った。もっとも、両軍が集結を始める遥か以前から王律軍による間断ない掠奪の結果として住民は兆散し、かつては小都市であった廃墟が佇んでいるのに過ぎない。
そのような地の東側に、春醍は物資の集積地も兼ねた広範な陣地を置いていて、南から赤蓮軍が迫るや陣地の守備兵八百はろくに抵抗を見せないままに陣地を捨てて逃亡してしまった。春醍自身も戦場へ向かっているだけにその報を知るのは早く、守備兵の逃走を知ったところでただ安堵の溜息と共にこう言っただけである。
「よかった……逃げることができたか」
「兄者、建水だ」
と、何度目かに差し掛かった丘陵の頂きに達した時、隗雲が言った。丁度北から南下する形で建水に達したために、彼らは建水の上流を見下ろす位置にある。今のところ水深は徒歩で渡れる程浅いが、ここからさらに数里を下れば、渡河が叶わぬほど水深は一気に深みを増す。布陣は建水の西か、それとも東か――春醍自ら予め策を告げられていた隗雲、呉楊以外の者は当然、西に布陣するものと思い込んでいた。だいいち渡河の困難な川を天然の要害として利用する以外に、圧倒的な数的劣勢を覆す術は無いではないか? ただしその策だと戦況は長期の睨み合いへと変貌し、持てる兵糧に劣る春醍軍の不利は免れ得ないであろう――
「隗雲」
と、春醍は黙って川を指さす。隗雲は心得たと言わんばかりに頷き、そして声を張り上げた。
「全軍に告ぐ! 渡河せよ!」
「――――!?」
全軍に生まれた驚愕は、程なくして恐慌へと転じかける。しかし隗雲の命令は絶対であった。
「南渡の対岸に布陣する! 渡らない奴はこの場で斬る!」
半ば恫喝に近い口調で命じられた結果として、総数八千に及ぶ兵からは逃げるという選択肢も、命令を拒否するという選択肢も一片に失われていた。恐慌が慄然、次には粛然に席を譲り、秩序を取り戻した兵の列は一気に建水を渡る……この辺りは、元山賊の威力というものだろうか?
一方で渡河を終え、再び南進を開始した兵の列に在って、隗雲はあることに気付いている。
兵の顔が変わった。帯甲し、武器を持たせても消えなかった男たちの顔付きが変わった。何時飢死にするか判らぬ明日に怯え、夜盗に怯えて来た流民、元庶民の顔が、この瞬間を境に戦に臨む兵の顔になった。
小市南渡の対岸、西側の畔は一軍を展開させるのに十分な広さを有していたが、両脇を崖山に挟まれている。そのから回廊のように広がる地形を抜けた先に、狭いながらもまた開けた地が存在し、そこは平和な時期には普通に耕作地であった。そこからさらに前方に、小振りな丘陵の群が波のように地を畝って拡がり、春醍が奪るべき陣地との間を隔てている。決戦を挑むとすれば川の畔か前述の元耕作地かといったところだ……春醍は後者を択んだ。
両脇を厚く。中央を薄く――河畔へと通じる道を塞ぐように春醍は兵を配する。昔読んだ兵書……中原のものではなく、中原よりさらに西方の国で活躍したという異邦人の王の逸話に、このような兵の配置があったことを彼は思い出していた。張葉堅は既に此方の数、そして配置を知り、攻めるか否か思案を深めている筈だ。春醍は、攻めてくる方を願った。
「隗雲、呉楊」
「ここに!」
「予定通りだ。各々二千の兵を率いて北上せよ」
「承知!」
彼らに率いられた四千の兵が抜ける。陣地を奪い返すと見せかけるために放たれた四千。一方で春醍は後に残された四千と共に待つ。
「……そろそろなんだけどな」
春醍の呟きは、急にざわめき始めた草原のうねりの中に掻き消され、誰の耳にも聞こえなかった。
「敵兵五千余り、我が陣地に向け接近中!」
前衛よりもたらされた報を、最初に嗤ったのは董貫依であった。
「狂ったか? おとなしく建水の東側に引っ込んでいればいいものを!」
「……たかが五千で、何が出来る?」
独白するように、魏六新も言った……と同時に、彼は配下の将二名の名を呼ぶ。
「胡牛、剛按子」
「ここに!」
同時に声を発した二名を、六新は睨んだ。
「二万与える。敵の死兵を掃って来い」
「はっ!」
……もっとも、敵の布陣が六新と貫依には不可解なものに映っていた。特に建水の東岸への布陣――王郁軍は何故自らの退路を断つような真似をするのか? そのうえで奴らは陣地の奪回を企図して北上している。しかし一連の行動が何か重要な意図を秘めているというより、戦争のやり方を知らない者の、稚拙な挙動であるように彼らには見えたのだ。
「貫依、わしも出るぞ」
「何を仰られます六新様、お前が――」
「早とちりはよせ。単に外に出て両名の働きを見物するだけだ」
「それなら……」
戸惑いつつ貫依は承諾する。実のところ、六新が言い出さなかったら自分が出る旨告げていたところであった。
四千と二万の正面からの衝突、普通の戦の流れを勘案すれば、それだけの兵力差だけで戦争の帰趨は半分以上が決する。しかし南渡の陣地を巡る戦ではそうならなかったのは、彼らの主戦場が大軍の展開に適した平地では無く、低い丘陵の連続し、あるいは点在する複雑な地形であったからに他ならない。胡牛、剛按子といった葉堅軍の将からすれば、その主力たる槍兵から成る方陣の強みが生かせず、一方で隗雲、呉楊の両将率いる春醍軍前衛が彼らから距離を取りつつ矢と投げ槍、そして投石を以て出血を強いているとあっては、焦燥も募ろうというものであった。
「怯むな! 進め!」
彼自身馬上に在って、胡牛は檄を飛ばす。その馬上から臨む自軍の前列は丘陵を生かして放たれる矢や石礫を前にして僅かながら壊乱が生じ始めていた。後退と停滞が生む更なる出血よりも、出血と同時に得られる前身を胡牛は択ぶ。傍らに布陣する剛按子とてそれは同じであった。
前方の敵に確たる陣は無く、彼らは丘陵の各所に散り、思い思いの場所から矢を射かけ投石を続けている。少数ならば兎も角、それが数千の単位で行われているとあっては累積する損害は決して馬鹿にはならなかった。重い盾を番えて兵が前進し、それらが織り成す人間の津波から逃れんと、敵兵が散り散りに逃げ始めるのを胡牛は見る。その瞬間に彼は勝利を確信したが、それは束の間の余韻でしかなかった。また新たな弓兵と投槍兵が表れ、隊列を整えようとした自軍の兵が彼らに捉えられてバタバタと斃れていく。
「弓兵前へ!」
剛按子が声を荒げる。散開しつつ弓を放ってくる敵軍とは違う、秩序だった、面を制圧するための射撃だ。
「放て!」
指揮官の号令一下、弦から離れた矢束が天を埋め尽くさんばかりに蒼空に広がり、加速を付けて地に降り注ぐ。逃げ遅れた王郁軍の兵が体の数か所を同時に貫かれて斃れ、山肌を削る様に転がる。再び弾みを付けて前身を始めた赤蓮軍の兵を前に、今度は横列陣が立ちはだかる。赤蓮軍よりも密度の薄く、練度も稚拙な陣。だがそれでも赤蓮軍の前進速度を止めるのに十分な力があった。鍔競り合いの内に王郁軍をじりじりと押しながらも、両将に募る更なる焦燥――そして何時しか彼らの焦燥は、占領した陣地にあって前哨戦を傍観していた魏六新にも伝染している。
「貫依、わしも出るぞ」
「さらに一万を投じるだけでよう御座いましょう。何も六新様が出るまでも御座いませぬ」
引き留める貫依の言葉を聞いていないかのように、魏六新は一歩を踏み出した。
「あの敵……釈然とせぬ」
「…………」
低い声ながらも、それに込められた苛立ちを聞き逃すことは出来なかった。我が軍は勝つだろうが、今回の戦いで無様を晒した胡牛と剛按子もただでは済まないだろう。それがこの軍の指揮官、魏六新のやり方であった。
堪らず、魏六新は床几から立ち上がった。
「全軍前へ! 河畔の敵も含めて潰すぞ!」
声を荒げ、同時のその眼元が絶頂に達した憤怒に歪む。
「屑どもめ、挽肉にしてくれる……!」
「隗雲将軍より報告ぉーく! 赤蓮軍全軍、動き始めてございます!」
「――――!」
春醍は既に彼のやるべきことを決めていた。傍らに控えていた兵に合図を送る。兵は木製の筒に点火した。直後に勢いよく上った烽火弾が、白い煙と光を発しつつ空を彩る。恐らくは葉堅軍の抑えた砦からもその様は窺えたであろう。だがその真の意図を掴むことは出来なかった筈である。
「隗雲、呉楊に伝えよ。逃げろ。とにかくここまで逃げて来い、と」
春醍の命に、怪訝な顔を隠さずに伝令は応じた。陣を離れていく伝令と入れ替わりに、今度は前方の丘陵から向こうが急に騒がしさを増していった。戦が近付いていると察し、春醍は眦を険しくする。戦は初心者というわけではなかったが、今は幽関や慶邑を奪った時とは状況が異なる。真の殺し合いを間近に見、あるいはその只中に身を置かねばならぬ――そう思うと、今更のように肝が縮む思いがする。
「報告ぉーく! 赤蓮軍全軍、我が方に接近!」
「未だ構えずともよい! 敵が見えるまで待て!」
浮足立ち始める軍勢に、春醍は叫んだ。ただし語尾が震えるのを隠すことは出来なかった。前方の丘陵、それらを越えて兵や騎馬が三々五々と此方に駆けてくるのが見える。隗雲と呉楊の隊だ。援護と収容を命じ、再び隊列を整えたところに、春醍と彼の軍は接近する敵を見出した。
「波――!」
思わず春醍は言った。秩序も陣形もあったものではなかった。丘陵を乗り越えて迫る武器を持った人間の絨毯、それらが戦場に在る人間としての秩序をかろうじて維持している自分たちを飲み込まんと迫ってくる。馬上に在っても足が竦んだ。春醍にはそう感じられた。呆然――
「――兄者!」
不意に傍らから呼び掛けられ、それが頭に包帯を巻いた呉楊であることに春醍は驚愕する。まるで火事場から逃げて来たかのような酷い汚れ具合が、戦場の神の自分たちに対する嫌がらせである様に春醍には感じられた。そして同時に、命令を下すべき時が来たことを春醍は自覚する。
「弓隊前へ!」
温存していた長弓兵が隊列の前に出る。狙いを付ける必要などなかった。矢を番えた弓兵に向かい、引き抜いた剣を振り上げて春醍は叫んだ。
「放てー!」
敵軍の兵と速度を殺すための矢。それが一斉に天を埋め尽くして殺到する赤蓮軍の兵を頭上から貫き、抉る。ただし大軍の前に在ってそれはただ僅かにその前進速度を削ぐだけで、やがて戦いは、怒涛の如くに突っ込んで来る赤蓮軍と、長槍を突き出し迎え撃つ春醍軍との本格的な衝突へと昇華していく――
衝突は一瞬――気が付けば終わりの無い混迷の中に在って、春醍もまた馬上から剣を揮っていた。護衛の騎兵こそ付いていたが、それを掻い潜り血に飢えた兵が槍を突き出してくる。それを掃い、返す刀で斃す。戦場の神は人を殺めたことに対する良心の呵責など、春醍に一々感じることを許さず。むしろ春醍が戦場の空白の中にそれを感じて恐怖した処で、彼の魂を奪わんと図るであろう。
「――――!」
剣を揮い、兵を叱咤するために各所を駆け回りつつする内に、中央の兵列が徐々に後退を始めているのを春醍は察する……目論見通りだ。逃げようにも後背は河。逃げられないという現実が練度の低い兵をして恐慌を抗戦への覚悟、秩序ある撤退への意思へと変えている。
春醍軍中央の兵列は密度が薄いが故に圧され、一方で分厚い両端はそれ故に敵の突進を食い止めている。自然、赤蓮軍の中央は突出し、春醍軍は彼らの突出を銜えこむ形となっていた。ただし戦場の狭さが、赤蓮軍をしてその兵力全てを生かすことを許さずにいる。より具体的に言えば両軍は山間の狭い平地の中に東西に亘り犇めき合い、それでも春醍軍主力の待ち受ける戦場に殺到した赤蓮軍約二万の中で、敵兵とぶつかり戦闘に参加しているのは最前列から中列の一万ほど、それ故に直接交戦している両軍の兵力は実のところ拮抗していた。
その拮抗の最前線に、春醍はすでに飛び込んでいた。襲い来る敵兵を馬上から斬り伏せ、あるいは衝くのを繰り返す内に、人を傷つけ続ける自分への恐怖、善悪の観念が摩耗するように消えていく。それを戦の最中に在って改めて考えることなど今の春醍には許されることではなかった。突進と後退を繰り返す内に護衛の騎兵ともはぐれ、馬上から見下ろす兵の波に、彼我の区別を忘れた頃にその兵の波間から春醍の眼前に飛び込んできた槍――
「槍――!?」と察したのと同時に、春醍は馬上から身を逸らしてそれを避けた。しかし完全な回避とはいかず、槍の穂先は春醍の尉冠を抉り、同時に生じた激しい衝撃が春醍から一瞬意識を奪う。悲鳴のような嘶きを発し馬が脚を崩し、春醍の眼前で天地が反転した。背中から春醍は地面に倒れ、衝撃は一拍の呼吸を春醍から奪う。
「…………!」
激しい痛みを圧して立ち上がる春醍の眼前に、眼を血走らせた兵が槍を突き出した。反射的に翻した剣が槍を薙ぎ伏せる。距離は完全に指呼の間、長剣で塞いだもう一方の手で引き抜いた短刀が敵兵の胴体、甲の継ぎ目を貫き、切り裂く。目を白黒させて膝を崩す敵兵の腹から短刀を引き抜き、長剣が更なる敵兵の槍を掃い、下に突き出した短刀の刃が敵兵の脛を抉るように斬る。混戦から逃れようと頭を上げた先――春醍に向かい槍を振り下ろさんと構える騎兵の、殺意に歪んだ眼。
「――――!」
背後からの刀の一閃が、敵騎から槍を構える力を奪い、ついには馬を操る意気すら奪った。落馬し動かない敵騎、それを背後から斃した隗雲が春醍に声を荒げる。
「兄者、乗ってくれ!」
「――――!」
馬の尻に飛び付いた春醍を引き摺り上げつつ、隗雲は馬を走らせる。その背後で春醍を追う敵騎と、彼を守らんと参じた味方の騎兵との間でまた衝突が生じている。
馬上で隗雲の背中に縋り姿勢と息を整えつつ春醍は両軍の衝突をの程を見極める。生還を期し難い状況下で奮闘こそしているものの、このまま行けば自分の軍は間違いなく負ける。一方で赤蓮軍からすれば数の威力と兵の練度を生かして突進を続け、春醍軍の中央を打ち破れば全てを終わらせることが出来るであろう――ただし、その均衡が崩壊する瞬間までに何も起こらなければ……の話である。そして、赤蓮軍の吶喊が始まって一時が過ぎようとしていたときに、それは起こった。
「――――!?」
戦場の遥か後方、両軍にとっての共通の戦略目標たる陣地の所在する場所から、昇龍の如く上る烽火弾が一条――機を同じくして、未だ戦闘に参加していない葉堅軍の最後尾から悲鳴が上がった。
「――後背より敵襲! 陣地を奪られた!」
「――逃げ道を塞がれるぞ! 早く逃げろ!」
彼らが見出したのは、唐突に炎上する歩塁と、その煙を縫い猛然と立ち上る「王郁」の旗であった。それも無数。旗の数は、万単位の王郁軍が防備の手薄になった歩塁を一気に蹂躙し、やがては葉堅軍の後背を衝かんとしているように最後尾の兵たちには見えたのである。
その光景だけで、葉堅軍は一気に壊乱した。
「やった! あいつらやりやがった!」
隗雲が声を弾ませた。つい先刻までの突進が一変し、一斉に背を向けて奔り出す葉堅の兵。そして同時に、春醍は反撃の機会が訪れたことを察する。
「逃がすな! 包囲し、追撃せよ!」
「――――!!!」
怒涛の如き喊声が彼らの将に応じる。ある者は槍を突き出し、またある者は剣を振り上げて敵兵の背中を襲う。先刻の中央突破から一転し、完全に春醍軍の懐中に取り込まれた上に、兵の密集した赤蓮の兵が追撃から逃れる術は皆無に等しかった。十重二十重に槍に貫かれ、あるいは逃げ惑う味方に圧し潰され、一方的な殺戮がさらに拡大する。完全な包囲。辛うじてそれを逃れた葉堅軍後衛を、陣地を制した兵が襲う。丘陵を一気に駆け下り、秩序を失った葉堅の兵に吶喊する騎兵の群――
「――――!」
厳重な防備を誇る方陣には無力な騎兵、しかし秩序を失い逃げ惑う兵に対し彼らは無慈悲なまでの破壊力を誇る。槍剣を揮い敵兵を薙ぎ、衝く騎兵の群を前に為す術も無く崩れ、四方八方に逃れ行く赤蓮の兵。そこに前衛を蹂躙し尽くした春醍軍本隊が殺到した――一方的な殺戮は以降一時に亘って続き、その一時が過ぎ去った後には、生きている赤蓮の兵はその地には殆どいなくなった。
「勝った! 勝ったぞ!」
何処からともなく上る勝鬨が幾重にも重なる。呉楊から手当てを受けつつ、春醍はそれを聞く。流れる血が片目を塞いでいたが、呉楊は自ら水を汲んで来てまで血と汚れを拭ってくれた。
「呉楊……隗雲は?」
「隗兄ぃならば追撃に……」
「無用だ……引き留めてくるんだ」
後はぼくがやるから……と、春醍は呉楊から濡れた手拭いを取った。
「深追いすると碌なことにならない」
呉楊が去り、彼と入れ替わるように馬を駆って魯哀、羅王儀が来た。春醍の姿を認めるや、二人は慌てて下馬し、そして春醍を拝礼する。
「春醍どのに拝謁致します! 春醍どの、この度の戦勝おめでとうございます! 大勝利ですぞ!」
声が弾んでいた。低頭したままの二人に、春醍は身を引き摺るようにして這い寄る。疲労とそれに伴う脱力感で、腰に力が入らなかった。
「君たちのお陰だ……とにかく生きていて良かった」
春醍は二人の前で正座し、そして低頭した。魯哀と王儀は慌ててそれを止めた。
「いけません! さあ春醍どの、馬にお乗りください」
「馬に乗る?……何故?」
「兵が列を整え、あなたをお待ちしておりますよ?」
魯哀が撫でるような口調で言った。春醍はああ……そうなのか? と言いたげな表情で応じ、次に所在無げに周囲を見回した。
「馬が……敵兵に斬られてしまった」
魯哀と王儀は互いに顔を見合わせた。立ち上がろうにも未だ足に力が入らなかった。王儀の肩を借り、やっとのことで立ち上がった春醍の元に、隗雲が呉楊を伴い戻って来た。状況を察した隗雲が呉楊に目配せし、呉楊は笑って春醍の股下にいきなり頭を潜らせた。
「おい……!」
急に持ち上げられ、揺れる上半身を呉楊の頭に捉まって支える。その見晴らしは呉楊個人の巨体も相まって馬上に負けないほど良好だった。春醍一人を肩車したまま呉楊は歩き始め、馬上の魯哀らも続いた先――
『ウオオオオオオォォォォォォ――!!!』
戦勝に酔った兵の、秩序だった叫び。それが呉楊の上に自分を見出したが故の歓声であることを春醍自身が察するのに、少しばかりの間が必要であった。
『春醍! 春醍! 春醍! 春醍!』
見下ろした先、そこに自分の名を呼ぶ声が嫌でも聞こえ、響き渡る。半ば愕然とし、呆然とした春醍の傍らに拠った羅王儀が、春醍の背中越しに語り掛けた。
「春醍どの」
「…………?」
「さあ、応えておあげなさい。兵たちはあなたを主君と仰いでいるのだ」
「主君?……わたしが?」
王儀は微笑み、黙って頷いた。言われるがまま、戯れ程度に手を上げた途端、先刻よりもさらに高い声が春醍を向ける。槍を振り、剣を掲げて彼らに勝利をもたらした青年に報いる兵、兵、兵士たち――圧倒的なその様に幻惑され、もはや夢現の領域に足を踏み入れかけたそのとき、春醍は弾かれた様に我に返った。
「王儀どの」
「はっ?」
「晋安が気掛かりだ。今すぐ動かせる兵の数は?」
「騎兵二千にて」
「わたしと一緒に晋安に行ってくれるか?」
「承知!」と、王儀は合掌し応じる。
「隗雲」
「ここに!」
「兵を明日一日休ませた後、兵四千を率いてぼくに追及せよ。晋安の近傍で合流だ」
「心得ました! では残余の兵を魯哀と呉楊に率いさせ、陣地の奪回に充てますか?」
「うん」
春醍は頷いた。
「袁隷どのにも援軍を仰ぎますか?」と王儀が言った。
「そうしよう……兵は多ければ多いほど助かる」
尚も歓声を浴びせてくる兵の海を見下ろしつつ、春醍は頷いた。
「兵糧を、なるべく回収できるといいのだけど……」
大桑二四一年の初秋、後世に言う「南渡の戦」はこうして幕を閉じた。戦に投じられた兵の数は魯春醍一万四千に対し魏六新は五万四千。而して両軍の損害は魯春醍約二千に対し魏六新約五万。戦の結果は幾下の兵に強い生還への意思を喚起し、本隊を囮とし敵の後背を衝いた魯春醍の、圧倒的な数的劣位を覆した会心の勝利に終わった。魏六新を南渡に陽動すべく春醍が配した三つの陣、それらを占拠した赤蓮軍守備隊の抵抗は微弱だった。むしろ戦勝の余韻を駆る魯哀、呉楊の勢いに圧され、進んで陣を捨てて降伏した兵が多かったのであった。
この戦を契機として、中原における時の流れは急激に傾斜を増していくのであるが、さすがに青年 魯春醍の神ならぬ身では、それを悟ることは未だできてはいなかった。




