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第九集  「再会」

 晋安に向かう道は単調だが、それでも道を彩る風景は見飽きることが無かった。森を為す木々には枯葉の生む朱が宿り始めていたが、自然から潤いが失われたことを感じさせるものではなかった。馬上に在って緑の営みに目を愉しませるうちに時が過ぎ、手綱を握る魯春醍は、今となっては見慣れた晋安の城門を目の当たりにする。気が付けば、それ程の距離にまで晋安が迫っている。


「…………?」

 馬の息が何時に無く粗いことに春醍は気付く。馬を止め、春醍は馬の首を摩りつつその理由を考える……老馬を押して使い続けていることに思い当り、春醍は次には苦笑を覚えて馬から降りた。馬としてもこの年齢まで乗り続けるのはさすがに堪えるのだ。晋安まで近いのは僥倖だった。春醍は手綱を引き、今度は自らの足で晋安に向かうことにする……小路の過ぎる小高い丘を過ぎ、その先で春醍は思わず足を止めた。晋安に通じる街道。その両脇に犇めく様に連なる天幕の群――晋安には兵が集められ、その陣容は日を追う毎に拡がっている。


 兵が集まっているのは、北では無く南に対する備えであるのかもしれない、と春醍は思っている。

 石臨海は、赤蓮軍本隊に妻子を質に取られているが故にそれを渋ったが、最終的には彼が北上する赤蓮軍の指揮を執ることで香南北部を占める叛乱軍の意思は統一された。逆に赤蓮軍を臨海の妻子とともに速やかに北上させ、晋安周辺の叛乱軍主力と合流せしめることを赤蓮教団に要求している。その際に南へ遣わされた使者が帰って来るのが今日であった。春醍も叛乱軍の幹部――言い換えれば朱宇貫の幕僚――として、使者の報告に立ち合うことを要求されている。本人からすれば立ち合う必要など塵ほども認められないことではあったが、袁家にあって募兵の傍ら親孝行に勤しんでいる袁隷の名代をも兼ねているとあれば、無下に固辞するわけにもいかないというわけであった。


 ……もっとも、今の春醍には晋安よりさらに北、国都大封に関する風聞の方が気掛かりであった。淕家の私兵が大封を包囲し、彼らに追い立てられるように建宗皇帝が西玄に逃れ、そこを国都と定めたというのである。王律の懸念が的中し、大桑はさらに混迷を極めようとしているのが春醍の与り知る現状であった……であれば、淕家と通じている叛乱軍の指導部においても近々大きな動きもまたあり得るであろう。さらに遠ざかって行く家路、それを春醍はただ指を咥えて見送ることしかできずにいる。同時に将来への不安もまた止め処なく圧し掛かって来る。


 寧原の戦の際よりも兵の数の増した南門を、春醍はほぼ無誰何で潜る。賊兵と完全に面識が出来た自分自身に対する自嘲が込み上げてくるのも然ることながら、もはや足抜けが難しい立場に、腰まで埋めようとしている自分に怖気すら覚える。

 寧原であれほど手痛い敗北を喫しながら、王律改め王郁の旗の下に集う兵――というより盗賊流民の類――は止め処なく増え続けていた。理由は簡単だ。香南は今年も不作で、州や群が非常用に備蓄していた食料と種子のいずれも叛乱軍がとうに抑えている……であれば、食糧を持っている側に持たざる彼らが靡くのは自然の流れであった。そこに赤蓮教軍の残虐な所業を恐れ、幽関の南から野山を越えて晋安の近傍にまで逃れて来た民も加われば――かくして叛乱軍が抱える兵と民の数は増え、香南は朝廷の統制から益々離れていく……


 足を向けた先は東――叛乱軍の手に陥ちる前は庶民区とされた区域、そこに程近い場所に立つこじんまりとした邸の前で春醍は足を止めた。粗末な門構えを有する平屋。それは補修の為されていないままの土壁と瓦屋根に眼を瞑れば、春醍には故郷大封における下級官人用の邸宅を思わせた。簡素な造りの玄関に面した庭で遊んでいた子供たちが三人、春醍を見て嬌声を上げる。


「春お兄ちゃんだ!」

 実の兄でも遇するように声を上げ、春醍の膝に飛び付いてくる子供たち、その何れもが慶邑から晋安に居を移した王律の子らであった。当然、移住が王律当人の意思に拠るものではないことは自明の理だ。叛乱軍指導者の地位から降りて以来、半ば監視、半ば放置の、言い換えればどっちつかずの状態に彼ら一家は置かれている。晋安で会合がある度に、手土産を持って王律の許を訪れ、彼ら一家の様子を見ている春醍であった。

「黍餅だよ」と、春醍は包みを王律の長女に持たせた。初めて会った時は眼に入れても痛くない程愛らしい幼女であった彼女が、今となっては少女の入口に差し掛かるか否かという感じの雰囲気を漂わせ始めている。つまりはそれだけ、自分は香南に長居し過ぎているのだと春醍は思う。黍餅の包みを抱えた彼女を始め、王律の子供たちがドタバタと屋内に上がって行くのを見届け、春醍は足を邸の中庭へと向けた。その中庭、菜園に身を埋めて韮を採る王律夫婦の姿に、春醍はしばし目を奪われる。菜園の外に佇む気配に気付いた王律が、それまで曲げていた腰を伸ばし、こちらを顧みた。

「春醍どのですか?」

 春醍に向かい顔を上げた王律の顔は、すっかり土に塗れている。


 王律の妻が昼餉の支度を始めていた。王律は昼餉を共にと勧めてくれたが春醍は固辞し、廟議の刻限まで暫しの時間を王律と共に過ごすことにする。

「赤蓮教が叛乱軍の主力と合流するとか」

「……はい、しかし合流するだけで以後暫くは再編に時を費やすこととなりましょう」

 春醍の言葉を聞きつつ、王律は釜から掬った白湯を彼の前に差し出した。

「このようなものしかないが……」

「……では、次に来る時は茶を持って来ましょう」

 春醍は笑い、出された白湯を啜った……微かに香ばしい粟の香りがした。好きな味付けだと春醍は感じる。

「王律どのは、大きな邸にお移りにならぬのですか?」

「私は此処でよい。一家が付かず離れず過ごすのに丁度いい広さだと思っております。それに邸が欲しい者は他に数多いるようですからね。それよりも……」

 そこまで言ったところで、王律は言葉を躊躇わせた。

「……何時郷里への帰還が叶うのか、玄方どのが色良い返事を下さらぬ」

「王律どの……」

 「用済み」になったが故に王律は帰郷を願い、しかし郭玄方がそれを許さないという状況、その結果王律が晋安において飼い殺しに等しい状況に置かれているという現状は、春醍にももどかしいものに感じられた。

「今年は不作ゆえ、民の心は益々刺々しくなっています。帰路の危険も大きくなっておりますし、今の時期に帰郷というのはわたしにも勧められません。玄方どのも恐らくはそのことを勘案されているのではありませんか?」

「それならばいいのだが……」

 やはり躊躇うように言い、王律は表情を曇らせる。


 再会を約し、子供たちに見送られて門を出たところで、春醍はまた足を止めた。馬が一頭、だが春醍が曳いてきた老馬とは体幹の太さも筋肉の付き方もずっと若い瞬馬。その傍らに寄り添い、誇らしげに春醍を見遣る人影が、青龍偃月刀を抱いていた。海狼か……あることを思い出し、春醍は懐から巻物を取り出した。

「丁度良かった……これを渡しとく」

「…………」

 先程の笑顔が一転、明らかな苛立ちが海狼の柳眉を歪めた。巻物を差し出した春醍の顔が、怪訝に曇る。

「どうした?……前は嬉しそうだったのに」

「あんな馬鹿の恋文もらったところで、嬉しかねえんだよっ!」

 春醍の手から巻物を引っ掴むや、海狼は力任せにそれを投げ捨てた。袁隷が作った海狼の美しさを褒めちぎり、彼女に対する想いを詰め込んだ詩、正直言って春醍から見ても巧い詩とは思えなかった。ただ以前、袁隷の名を出さずに渡した第一作を、海狼はその険しい表情を綻ばせ、嬉しそうに受け取ってくれたものだったが……

「阿春、お前は詩を作らないのか?」

「作るかといえば……作る」

「……それで、巧いのか?」

 海狼の瞳が鋭くなり、観察するように春醍を凝視している。春醍は黙って頭を振り、海狼はさらに表情を険しくした。詩なんて、本気で作ったのは科挙で課題に出された時以来数える程しかない。

「好きな女に作ったことぐらいはあるんだろ?」

「そういえば大封にいた頃、伎女に作ってやったことはあったな」

 当然本気では無く、伎女に所望され戯れに作っただけのことだ。ただし純粋な恋愛感情の赴くままに詩を作ったことは未だ無く、それほど烈しい恋に身をやつした経験もない。春醍という初心ないち青年の、男子としての悲しさである。

「そうか……」

 海狼の声が、心なしか沈んだように春醍には聞こえた。神妙に転じた春醍の視線に気付き、海狼は慌てて春醍の曳く馬を顧みた。話題を変えたかったのかもしれない。

「阿春、馬を替えろ。こいつはもう役には立たん。絞めて食っちまおう」

「農耕ぐらいには使えるよ。それに、老馬なんて不味くて食べられるものか」

「そうでもないぜ阿春。馬肉でも四時ほど薬味で煮込んで蒸し焼きにすれば、結構美味しく食べられる」

 だから一緒にどうだ? と言わんばかりに海狼の声が笑った。まるで友人に悪戯を持ちかける子供のように――

「海狼は料理に詳しいんだな。いいお嫁さんになれそうだ」

「あたしが!?……嫁!?」

 途端に海狼の顔が困惑に囚われたまま固まった。春醍は半ば唖然としてそれを見遣る。

「な……何だよ?」

「だっ黙れ!……アンタにあたしの何が判る!?」

 海狼は春醍から目を逸らし、瞬く間に瞬馬に飛び乗った。手綱の僅かな動きで馬の向きを転じ、掛け声一つで一気に疾駆させる。唖然とそれを見送る春醍の眼前から、手本でも見せる様に見事な騎馬姿が消え去っていく……

「何なんだ? あいつ」

 首を捻り、春醍は老馬の手綱を引いた。昼飯時に際し一層活況を呈する往来に戻り、今や叛乱軍本営と化した政庁を目指す。途中で何か少し食べていくべきだろうか……と春醍は考えた。



 春醍が廟議の場に足を踏み入れた時、幹部の占めるべき下座はあらかた埋まってしまっていた。末席に坐すことで傍観を決め込む積りが、すでに着座していた朱宇貫が目敏く春醍の姿を見つけ、自分の傍に来るよう手招きする。武官の占めるべき下座の、文字通りの最前列であった。心なしか、宇貫の纏っている鎧が上等になっている様に思える。

「鎧を新調したのだ。一軍の将たるに相応しい格好だろう?」

 と黄ばんだ、揃いの悪い歯を見せて宇貫は笑った。息が臭いの相変わらずだ。一方で庶服のままの春醍を舐めるように一瞥したあとで、彼は困惑気味に言う。

「春醍は鎧を変えないのか」

「どんなに上等な鎧でも、当たり所が悪ければ人は死ぬ」と、自分でも反論になってないと思う言葉で春醍は応じる。春醍を見つつ苦笑し、宇貫は言った。

「お前も時が来れば万単位の兵を率いることがあるかもしれん。恰好だけはつけておいた方がいいぞ。でないと誰も付いて来ん。人は最初の見た目でその半分を判断される。腐論の徒は違うのだろうが……」

「兵じゃない……単なる流民と盗賊の集まりじゃないか」

 苦々しげに春醍は言う。数だけは揃っていても、効率のよい人の殺し方を知らない限りその数は軍とは呼べぬ、と春醍は見ている。

「あそこにいる奴らはそうとは思っていないようだ」

 と、宇貫は上座に向かい顎を杓った。主たる王郁がいない空のままの上座、その傍らに控える武官然とした初老の男が一人。鼻から下を収まりの悪い、赤みがかった髭に覆われた巨漢は、どう見ても市井の住人とは思えぬ面相の悪い男たちを引き連れ、武官の列に眼を飛ばしていた。

「諌朝大将軍か……山賊の親分が大した出世だな」

 と、宇貫は春醍に語った。


 諌朝大将軍 趙大可。この王律軍にいる十名の大将軍の中で最先任であり、文字通りの主将であった。山賊の長として、上座の主を手の内に置いていたが故に得た地位であることを、今では廟議に加わる誰もが知っている。主将とは言っても、寧原の戦では後方に踏ん反り返る以外にこれといった動きを見せず、それ故に敗退する兵を纏めて軍としての体裁を回復した宇貫や春醍の存在が、叛乱軍内でも光っているというわけであった。叛乱軍内でも大将軍と呼ばれるに足る実績を有するのは実のところ宇貫だけで、その他の大将軍号は趙大可が山賊時代からの彼の腹心に、王郁の口を借り気前よく称号をばら撒いた結果である。春醍も含まれる将軍に至っては、同じ事情で数だけはもはや三桁近くの大台にまで達していた。


「なあ……海狼のことなんだが」と、宇貫は話題を変える。

「あいつも一応お前と同格の将軍だ。だが他の大将軍は皆扱いに困っている」

「奔放過ぎるから?」

 という春醍の問いに、宇貫は頷いた。武人としてはいい仕事をするのだが、気分が乗らないと働かない。その点海狼は生粋の侠客であった。何時裏切るとも判らないから斬ってしまえという意見まであり、特に文官たちがこれに同調している。女が濫りに戦場に出て、しかも男子を斬り伏せるという構図が、彼らの主義に合わないからでもあろうと春醍は推し量っている。

「何なら、お前が海狼を配下にするか?」

「まさか……!」

 不意に持ち掛けられ、慌てて春醍は拒否する。

「……行きたいなら、行かせてやればいいじゃないか」

外に眼を流しつつ、春醍は言った。叛乱軍を出奔する海狼の後姿を想像し、そこに大封に帰る自分の姿を春醍は重ねる。

「誰かがあいつに兵を率いるってことを触りだけでも教えてやりゃあ、あの女は化けると思うんだがな」

「…………?」

 宇貫の言葉を怪訝な表情で受け止め、そこで二人の会話は終わりを告げる。王郁が郭玄方ら主要な文官を伴い――――否、郭玄方が王郁を伴い廟議の間に入って来たのだった。春醍はその文官らの中に騎煩生の姿を認め、煩生もまた自分に注がれる春醍の険しい目を自覚し、ばつ悪そうに笑い掛けた。同時に思い出される、知りたくも無かった香南への旅の真実――



「――煩さん!……これはどういう事なんだ!?」

 あの日、赤蓮軍の扱いについて持たれた廟議が終わるや、春醍は煩生に詰め寄った。同年代の若者ではあっても片や官服姿、もう片方が帯剣した庶服姿とあっては、道端で侠客に因縁を付けられる下級官吏といった趣があった。それ故に場内の文官の中からどよめきの声が上がり、それに慌てた春醍は場を変える必要を感じる。煩生の袖を掴み、議場の外へと連れ出すのに躊躇いは無かった。

「まあ聞け春醍、これはお前のためでもあるんだ」

「香南に来てから今日に至る全てが、悉くおれのためになってないよ! 訳が判らない!」

 色を為して言った春醍を宥める様に、煩生は言う。

「おれが香南に逃れたのは、淕家軍の大封入城を見越してのことさ」

「煩さんも知っていたのか……淕家との内通を」

「誰に聞いた?」

 煩生の顔から柔和さが消えた。それに気圧されまいと自然、春醍の語気も荒くなる。

「大桑のために、おれ達には話せないことをしているというのか煩さんは」

 煩生は苦笑した。

「まあいい……お前さんはおれの数少ない頭の回る友人だ。大封にいて朝廷の内紛に巻き込まれるぐらいなら、ここの幹部にでもなった方がずっとマシだろうと思ってな」

「それだけの理由でおれを此処に向かわせたのか……?」

「それだけじゃない。大封の状況を伝える手紙も持たせたじゃないか。あれが無ければ春醍、お前は今頃……」

 慶邑の門を潜ろうとした時に直面した検問を、春醍は思い出した。確かに煩生が持たせてくれた書状が無ければ、その時点で自分の生は終わっていたかもしれない。結局のところ自分は、眼前の騎煩生という男に体よく使われただけなのだ。その結果が――

「――それで、淕家が新帝を倒したらおれたちはどうなる?」

「よく聞いてくれた。大桑に身を呈して諫言申し上げた郭先生は朝廷の重臣に、そしておれ達も淕家の擁立した新帝の下で晴れて仕官ってわけだ。どうだ?」

 臆面も無く煩生は言い、対する春醍は鼻白む。そこに畳みかけるように煩生は聞いた。

「悪い話じゃないだろ?」

「もしそうならなかったら……?」

「どうすれば、そうならなくなるんだ?」

 春醍の問いに、真顔で煩生は聞き返した。彼の信奉する郭玄方に、騎煩生という青年がその心底から従おうとしていることの、それは何よりの証明であった。気がいい男だが、時として周囲に流され易い男……友として付き合い始めた頃から春醍には煩生のその点が気掛かりで、今となってはそれが煩生自身の死命をも制することになってしまうのではないかと春醍は懸念している。

「叛乱が成功したら役人にしてやると、淕家がそう確約しているのか!? 玄方どのは淕家とどんな密約を結んでいる!? 知っている限りを教えてくれよ!」

「それは……」

 困惑して俯き、しかし次の瞬間には目を剥き、煩生は春醍に声を荒げた。

「……でも、おれたちが浮き上がるにはこれしかないじゃないか! 春醍!」

「…………」

 唖然とする春醍の背後で、呼ぶ声がする。煩生の同僚たる文官であった。怒声一過、ぎこちなく微笑み、煩生は春醍に背を向けて歩き出す。数歩を進んだところで煩生は足を止め、そして春醍を顧みた。

「春醍……」

「…………?」

「おれは郭先生を信じている……だから、お前にはそんなおれと一緒にいて欲しいんだ――」



「――煩さん……」

 過去を思い、目から憂色を隠せないでいる春醍の眼前で、騎煩生は郭玄方の傍らにあってぎこちなく着座している。彼の着ている官服に自らの身の丈を合わせようとして四苦八苦している様が、春醍のような若者でも手に取る様に判った。かつては大封に在ってうだつの上がらない商売人だった彼はいま、いまや香南一帯を支配する叛乱勢力に在って主要な文官のひとりにまで昇り果(おお)せたが、それは彼にとって幸福な人生を約束するものとなり得るのであろうか?……そこに王郁の側近が、上座に就いた王郁への拝礼を一同に命じ、春醍は皆に一瞬遅れて平伏する。

「王郁様、赤蓮教団からの返書を携えし使者を――ご引見――!」

「…………!!?」

 発声と同時に文武両官からどよめきの声が上がった。さらには悲鳴すら上がった。当初の目論見通り、使者は石臨海の妻子を連れて来た。しかし――立ったまま曳かれてきた妻子が王郁の前に達するや、毀れた首が議場の床を重々しく転がる。生首であった。

「――――!」

 絹を裂くような悲鳴を上げて首に飛び付いたのは石臨海であった。完全に動転し、妻子の名を叫びつつ彼は生首を抱く。そこに近付いたのは朱宇貫であった。首を失った家族の身体を、衣類の襟を肌蹴かせ、袖を捲らせつつ宇貫は見聞する……

「……人形では無い。生身の躯だ!」

 正確には、首も含め一度寸断した躯を繋ぎ、人形のように仕立てていたのであった。並みの神経で為し得ることではない。そしてこの点だけでも、晋安からの要求に対する赤蓮教……否、張葉堅の回答は明快であった。動揺が恐慌に転じ、生首に正対する形となった王郁に至っては、上座から転げ落ちんばかりに驚き戦慄(おのの)いている。文官の中には騎煩生を始め、耐えられずに吐く者すらいた。一同の中で、やはり口を手で抑えて眼前の惨劇を見遣る春醍の耳に、使者の震える声が聞こえる。

「……申し上げます……張葉堅到着の暁には速やかに兵権を明け渡し、以てその命に従うべし……と」

「拒否したら?」と、郭玄方。

「我、滅我の神兵を以て晋安の城壁を破り、晋安の民の屍を以て其を修築せん、と葉堅は申しております」

「無茶苦茶だ……」

 思わず春醍は言った……これでまた、戦になる。



 もっとも、幽関からさらに南の、赤蓮教団の支配地域について春醍はかねてより気を配っていた。具体的には騎兵斥候を少数ずつ出し、赤蓮教軍の動向を探らせている。寄遇している袁家に戻るべく、廟議の翌日朝早くに馬を駆り晋安を出たのだが、やはり道の途上で老馬がへばり始めたため、それから先は歩き通しであった。

「…………?」

 背後に広がる、元来た道のさらに向こうから蹄の馳せる音が聞こえる。それが歩く自分を急追していることに気付き、春醍は慌てて道端まで退きのく。海狼か?……という何とはなしにした予想は、当たった。疾風が目に見えるが如く土埃が生まれ、同時に瞬馬の手綱を引く海狼が、馬上より春醍に笑い掛けている。

「阿春! 宇貫から言伝だ!」

「言伝?」

「王郁たちは晋安から逃げないことに決めた。それを踏まえて作戦を考えて来いってさ!」

「……完全に他人事だな」

 呆れる春醍を見遣り、海狼はにやりと笑った。

「宇貫はあんたに二万の兵を指揮させるってよ」

「は?……二万!?」

 目を見開く春醍を、海狼は一瞬慈しむように睨む。

「伝えたぞ!」

 海狼は風のように瞬馬を翻し、行ったと思った次の瞬間には、元来た道の彼方まで遠ざかっている。来るのも疾ければ、退くのも疾かった。その様を愉しんでいる自分が、春醍には未だ受け入れられなかった。


 袁家の門を潜る頃には、すでに日は落ちている。広大な袁家の邸宅の裏門を、躊躇せずに見つけて入るまでに今の春醍は袁家の暮らしに慣れ切っていた。よくない兆候だと思う。戸を叩き、名を告げれば家人が戸を開けてくれるのだが、その夜は少し様子が違った。


「遅いお帰りですね」と、開き掛けた戸の向こう側から聞こえて来た声に、春醍は思わず仰け反った。戸の向こうにいる筈のない、この邸で恐らくは二番目に偉い人間が、控え目な微笑と共に春醍の帰りを待っていた。主の娘……正確には養女たる袁優華。その美貌は、深まりゆく夜に向けてざわめき始めた星明りの下でも変わらなかった。同じく星明りの下、彼女の癖のある頭髪を飾っている宝玉が星の冷たい光を吸い込み、淡く輝いていることに春醍は気付く。控えめだが、暖かい宝玉の光、その名前こそ知らないが、相当に貴重なものであることは何となく察せられた。


「…………」

 馬を引き入れたとき、優華がその様を怪訝そうに注視しているのに春醍は気付く。やがて納得したように馬の腹を摩り、優華は言った。

「馬を変えた方が良さそうですね」

「まだまだ乗れますよ」

「それは可哀そうよ」と、真顔で優華は言う。その様が息を呑むように美しく、春醍は思わず見入ってしまう。

「新しい馬が手に入るまで、王儀様に言って馬を借りるといいわ」

 そう言って優華は春醍から手綱を取り、手早く馬を引いて行く。その後を慌てて追いつつ、春醍は優華の馬の扱い方が巧いことに内心で驚いた。彼女の手綱捌きにあっては、馬はまるで彼女に引き寄せられるように付いて行くのだ。自分だと、とてもこうはいかない。

「荷役用としては、まだまだ働けるわね」

 やはり巧みな手付きで馬を厩舎に結わえ、優華は春醍に付いてくるよう促した。使用人用の食堂だった。囲炉裏の上で火に掛けられた鍋の中で煮立っているものを見、春醍は今更のように自分が腹を空かせていることに気付く。

「芋粥ですか……」

「お嫌いかしら?」

「いえ! 大好物です!」

 優華は頷き、手ずから椀に粥をよそってくれた。山芋の地味に恐らくは甘蔓の汁であろうか、仄かな甘味が加わっていてそれ故に箸が進む。旺盛な食欲を剥き出しにして粥を啜る春醍を、優華は黙って神妙な顔と共に窺っている。それが春醍の関心を惹いた。

「何か……?」

「また、戦が始まるそうですね」

 粥をかき込む箸が、思わず止まった。

「……敵の動静はちゃんと探っていますので、その点はご心配なく」

「春醍様は、ひょっとして戦がお好きなのではありませんか?」

「好きでは……ありません」

 嫌いだ、とははっきりとは言えなかった。明らかにそのことに優華は表情を曇らせたのが判った。嫌いだと自分が明確には言わなかったことを、彼女は明らかに問題にしている様に春醍には思われた。

「今のところは……嫌いでも……ありませんが」

「負けない内なら、そんな考えも起こるのでしょうね」

「…………!」

 自分に向けられた優華の眼差しが、何時に無く悲しげであることに、春醍は気付いた。息を呑む春醍を前に、優華は切り出した。

「兄上を始め、あなたと一緒に戦おうとしている人たちは、負けるとは思っていないようですよ? 何故なら……」

「何故なら……?」

「……春醍様、あなたがいらっしゃるから」

 優華の瞳から憂いが消え、次には真摯さが鈍い光となって春醍を鼻白ませた。

「兄上や魯哀様が教えて下さったことには、あなたは数々の奇策を弄しては功を挙げ、一人の兵も傷付けずに諌軍を救ったそうですね。それが悪いこととは私は申しません……でもね春醍様、今度の戦はあなたが今までなさってきた戦とは全く違う、どう策を弄したところで人が死ぬ戦になりますよ?」

 語を継ぎ、優華は言った。優華の言うことは正しい、次の戦で春醍は確実に、寧原のような大軍同士の激突を目の当たりにすることになるだろう――

「――その御覚悟は持っていらっしゃるの?」

「確かに、人は死にます」そう言って、春醍は粥を一気に啜った。持っていない、と軽々しく言いたくは無かったし、かといって持っていると安請け合いもしたくは無かった。空になった椀を置き、春醍は優華に向き直る。

「私は、戦場で私に出来ることを成し遂げるのみです」

 直後、有無を言わさず優華は春醍から空になった椀を取り上げた。唖然とする春醍の眼前で二杯目をよそい、黙って差し出す。

「さあ、食べて」

「頂きます」

 ぽつりと言い、春醍は二杯目を啜り始めた。そこに優華の声がばしばしと突き刺さる。

「春醍様、逃げては駄目ですよ。一度逃げたら、人は自分の戻るべき処、あるべき処に戻れなくなるのだから」

 もはや優華の言葉には何も言わず、春醍は黙って芋粥を食べる……そうだ、これは戻るための戦い、あるべき処に帰るための戦いなのだ――意思を固め、芋粥と共に飲み込む内に二杯目が忽ち減り、空になった椀を優華はまた取り上げた。有無も言わさずによそった三杯目が、春醍の眼前に突き出される。よそい振りが、何とはなしに気合いが入っていた。

「春醍様、食べて」

「……もうお腹がいっぱいです」

「む……!」

 前髪の陰に隠れた眼が、険しく光る。それに気圧される様に、春醍は黙々と粥をかき込むのだった。



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