第1話 捨てられた願い
その日、私の人生が終わった。
王城の大広間。
磨かれた大理石の床に、私の膝が落ちる音が響いた。
「セレスティア・ヴェイル」
正面の階段の上から、ジュリアン様の声が降ってくる。
婚約者の声。
けれど、その響きはひどく冷たかった。
「お前を、盗みの罪で断罪する」
盗み。
その言葉が、頭の中でうまく形にならない。
私は顔を上げた。
ジュリアン様の隣に、妹が立っている。
アリエス。
金色の髪を波打たせ、両手で顔を覆っていた。
「お姉様……どうして、あんなことを」
妹の声は震えていた。
瞳には、ちゃんと涙が浮かんでいる。
私は妹の手の中を見た。
指の隙間から、こちらを見る目が光っていた。
濡れていない目だった。
――泣いてなんて、いない。
根拠はそれだけ。
けれど私は、その目を昔から知っていた。
「アリエス」
私は妹の名を呼んだ。
できるだけ、静かに。
「私は、何も盗んでいないわ」
「証拠があるのですよ、セレスティア嬢」
割り込んだのは、宰相だった。
彼の手には、小さな宝石箱がある。
「あなたの部屋から見つかった。
王家に伝わる、星屑の首飾りです」
見覚えのない箱だった。
私の部屋に、そんなものを置いた記憶はない。
「それは、私のものではありません」
「では、なぜあなたの寝台の下に?」
答えられなかった。
答えを、私が持っていないからだ。
誰かが置いた。
そう言いたかった。
けれど、置いた誰かを、私は見ていない。
見ていないことは、言ってはいけない。
お父様に、そう躾けられて育った。
見たことだけを話しなさい、と。
だから私は、口を閉じた。
「ジュリアン様」
私は、最後に彼を見上げた。
この人なら。
三年間、隣に立ってきたこの人なら。
一度くらい、私に問い返してくれるかもしれない。
本当なのか、と。
その一言を、待った。
「……失望した」
ジュリアン様は、そう言った。
私から、目をそらしながら。
待っていた言葉は、来なかった。
胸の奥で、何かが小さく音を立てて折れた。
それが何だったのか、もうわからない。
私は立ち上がった。
膝が痛かった。
けれど、痛いと言う相手が、この場にはいなかった。
「ヴェイル侯爵家は、お前を娘とは認めん」
階段の下に、お父様がいた。
私を見ていなかった。
自分の靴の先を、見ていた。
それが、答えだった。
私は、大広間を出た。
誰も、追ってこなかった。
*
城の門を出ると、雨が降っていた。
細い雨だった。
肩に落ちて、すぐに服の中まで染みてくる。
行く当てはなかった。
馬車もない。
ドレスのまま、私は歩いた。
石畳が途切れ、土の道になる。
靴の底に、泥がまとわりついた。
どれくらい歩いたのか、わからない。
足の感覚が、途中で消えた。
やがて、灯りが見えた。
小さな村だった。
家々の軒先に、細長い笹が立てられている。
枝には、色とりどりの紙が結ばれていた。
風に揺れて、紙がかさかさと鳴る。
私は、その一本の前で足を止めた。
「お嬢さん」
声をかけてきたのは、年老いた女の人だった。
頭に、色あせた布を巻いている。
「濡れているよ。中へおいで」
私は首を横に振った。
この人に、迷惑をかけたくなかった。
女の人は、私の顔をじっと見た。
それから、笹を指さした。
「これは、星祭りの笹だ。
東の国から伝わった風習でね」
「星祭り」
「一年に一度、天の川がいちばん細くなる夜。
この紙に願いを書いて吊るすと、川の向こうへ届くのさ」
川の向こう。
私には、川の向こうなんて、どこにもなかった。
「ほら」
女の人が、一枚の紙と、細い筆を差し出した。
断る力も、もう残っていなかった。
私は、紙を受け取った。
筆が、雨で滲む。
うまく書けそうにない。
それでも、私は考えた。
何を、願うのだろう。
実家に戻りたい――違う。
汚名をそそぎたい――それも、違う気がした。
私はもう、あの家の誰にも、望まれていなかった。
望まれない場所に、戻りたいとは思えなかった。
雨が、頬を伝う。
雨なのか、そうでないのか、自分でもわからなかった。
私は、筆を動かした。
――今度こそ、誰かに大切にされたい。
たった、それだけ。
子どものような願いだった。
書き終えて、私はその紙を笹に結んだ。
指がかじかんで、何度も結び目を落とした。
ようやく結べたとき。
笹が、光った。
結んだ紙が、青白い光を放っている。
雨に濡れているのに、燃えるように。
「……あんた」
女の人が、後ずさった。
私を見る目が、変わっていた。
紙から立ちのぼった光が、細い糸になる。
糸は空へ伸び、雲の切れ間へ吸い込まれていく。
そこに、川があった。
夜空を、白い川が横切っていた。
さっきまで、雲しか見えなかったのに。
糸は、その川へと繋がっていく。
私は、手を伸ばした。
なぜ伸ばしたのか、自分でもわからない。
指先が、光の糸に触れた。
温かかった。
この一日で、初めて触れた温かいものだった。
視界が、白く溶けていく。
足元の土が、消える。
落ちる。
そう思った。
けれど、落ちる先が、上なのか下なのか、
もう、わからなかった。
遠くで、女の人の声がした気がした。
言葉は、聞き取れなかった。
私は、目を閉じた。
最後に思ったのは、たった一つ。
――誰か、一人でいい。
この願いを、聞いていてくれたら。
*
目を開けると、そこは星が“地上に降る”世界だった。




