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幸田露伴「さんなきぐるま」現代語勝手訳(2)

 其 二


「あれあれ、ご覧なされ、お嬢様もとうとうお疲れになったと見えて、新様と一緒にあの御堂(みどう)の上で休んでいらっしゃいます。それにしても、余程新様とお別れになるのがお厭と見えて、よくまあここらまで歩いておいでなさいましたこと。私等でさえくたびれましたのに」と、お小夜等を指さして、下女が話すと、日傘をさし傾けて彼方(かなた)を見ながら、

「本当に、児童(こども)というものは一方(いっぽう)()後前(あとさき)なし。心に張りのある(うち)は何もかも忘れてしまっているもの。しかし、お小夜がここらまで歩いて来ようとは私も思っていなかった。牛に()かれて善光寺ではなく、子どもに引かれて、図らずも観音様にお詣りするようになりました。けれど、きっと帰路(かえり)はお小夜はがっかりしてしまってお前の世話になりましょう」と、お静が言うと、その後を取って清兵衛が、

「いかにも、いかにも。帰路(かえり)には()われてでなければ済まない程お疲れでございましょう。お元気とはいえ、よくお歩きなさったのには驚きました。男の足でもこの蒸し暑さでこれだけの道程(みち)を歩いては、私などは結構辛くて、(もも)がちっとだるくなったように感じます。丁度燐寸(マッチ)もありますので、御堂で煙草休みといたしましょう。床は高いし、屋根は厚く、風通しの好い涼しいお堂。あなたもお休みなさいませ」と言い言い、歩いて堂に上り、(たもと)の燐寸を取り出してしゃがみ込みながら、すっぱすっぱと煙草を吸えば、お静も堂のご本尊を礼拝して(のち)、二、三服。しばらくは四方(あたり)を見晴らしながら疲れを休めていた。


「さあ、新三もう充分に休んだだろう、これから木更津(きさらづ)まで歩けばそれでいいのだから、思い切って出掛けよう。いつまでお送りになっても切りがございませんので、お嬢様もこれでお帰りなさるがよろしい。本当にご苦労さまでございました」と、清兵衛が煙草入れを腰に挿して立ち上がりかかれば、お静もちょっと会釈をして、

「それなら清兵衛様、ここでお別れいたしましょう。お気をつけていただけるとは思いますが、海というものも、船というものもまるで知らない子のことでございますので、船の中などでは気をつけてやって下さいませ。もし、船にでも酔いましたら、さっきあの子に薬を持たせておりますので、どうぞ飲ませてやって下さい。又、東京へ着きましてから、町馴れするまでの間だけは(いたわ)ってやって下さるよう、先方(さき)のご主人様によおくお願いして置いて下さいませ」と、我が子でもあるかのように親切の(じょう)が溢れる頼み。聞いて清兵衛ぐっと受け込み、

「いやもう、それはご心配なさいますな。新右衛門殿とは古くからの馴染みの私、その点はよく承知しております。この度江戸へ出すようにしたのも実は私が勧めてしたと言ってもいいくらいのこと。今のように朝から晩まで小突かれ通しでいるよりは、この子のためだと東京へ出す訳でございますので、(むご)い所へ遣るでもございません。そういう積もりですので、あなたのお言葉がなくても充分先方(さき)へも頼んでやりますが、それにしても酷いは新右衛門殿、富之助だけが子でもなかろうに、どれ程悪妻のお力めに巻かれたと言っても、他人のあなたが此地(ここ)までも送ってやって下さるのに、親の身でありながら門口から二、三間も見送って遣らず、又、悪妻めのすることとは言え、着替えの衣服、手拭いなども(ろく)に持たせてやらないとは、傍観(よそめ)からしても余りに情愛(なさけ)が薄過ぎるように思えます。けれど、まあ何も好し()にも好し、この子が立派な一人前になれば皆消えてしまう些細なこと。悪口を言うでもなく出て来ましたが、よろしゅうございます、ご心配には及びません。一切私が気をつけてやります。今度荷物にして既に船に廻しておきました大豆やら米、麦やらがあちらへ着きさえすれば、私も少しは余裕も出来ますので、奉公前に一日か二日、東京見物もさせてやりましょう。アア、これは余計なことを喋ってしまいました。時に新とお嬢様は……、おお、あそこに居たか。何をして遊んでいることか」と、お静も一緒に立ち寄ってみれば、肩を寄せ合い、(うなじ)を並べて、互いの片手に輪を作った一篠(ひとすじ)の細い色糸を()って、五つの指頭(しとう)に入れ違わせ、それ猫又よ、水よ、障子よ、今度は鼓で難しいと、二人して取る(あや)取り遊び、「かたあや」というたわいもないことをして夢中になって遊んでいる。思わず清兵衛、笑いを含んでお静の顔を一寸見て、

「これを分けるのは(むご)いよなぁ」と、我知らず独り言を言ったが、

「さあ、新、出掛けよう」と言い出すのと同時に、

「さあ、お小夜、もう帰りましょう。ここでお別れしましょう」と、お静も言えば、新三は清兵衛を、お小夜は母を、これも同じように同時に見たが、

「母様、(あや)は一人では()れないものを……」と、お小夜は(うる)み声をして言うかと思えば、早くも涙を新三の袖に(そそ)ぐのであった。


つづく

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