第五話 二.管理人の苦悩
カレンダーのページはいよいよ9月。夏から秋へと移り変わる長月である。
日の落ちる時刻が早くなったとはいえ、それでも日中はまだまだ暑く、秋らしい秋を感じられないそんなある日の朝。オレの心は空しくも冷たい空っ風に吹かれていた。
「はぁ・・・。」
オレは空気までも重くするような溜め息をつく。管理人室の机に置いた参考書の上に、オレは崩れるようにひれ伏した。
大学受験へスパートをかけるべく9月だというのに、受験勉強が一向に捗らないオレ。予備校のゼミにすら、ついていけなくなっていく自分がここにいた。
二浪している立場、もう後がないというプレッシャーが、このオレの精神を追い込むように掻き乱していく。だからといって、うつぶせている余裕などない。挫けることなく、参考書とノートに向き合うしかないのだ。
「・・・そうだ、盆栽の水遣りしなきゃ。」
やる気を奮い起こそうにも、目の前に浮かぶのは管理人の仕事ばかりだ。受験勉強との両立が大変なのは事実だが、それを言い訳にしたら、それこそ敗北を認めることになってしまう。
オレはぶつくさと独り言を言いつつも、しっかりと玄関先にあったじょうろを手にしていた。
じいちゃんの大切な盆栽一つ一つに、オレが声を掛けながら丁寧に水を遣っていると、玄関のドアを勢いよく開けて飛び出してくる住人がいた。
「マサ、おはよう。やっぱりここにいたんだね。」
「おお、奈都美か。オレに何か用かい?」
奈都美は身軽なスポーツウェア姿でサッカーボールを持っていた。彼女はさわやかな笑顔のまま、オレのところへと歩み寄ってくる。
「あのさ、ちょっとだけ練習に付き合ってくれないかな?」
ドリブルの練習をしたいから、ボールを奪う役になってほしいと懇願してきた奈都美。彼女はいつも、何の前触れもなく練習相手にオレを指名してくる。その姿格好を見たら、あらかた予想はできてはいたが。
受け入れる姿勢をすぐに見せなかったオレに、奈都美は寂しそうな顔で問いかけてくる。
「・・・もしかして都合悪かった?」
「あ、いや、そういうわけじゃないんだけど。水遣りが終わったら、勉強しようと思っててさ。」
受験生のオレに一定の理解を示すも、奈都美はあくまでもマイペースで接してくる。
「ほら、根詰めるのもよくないし。息抜き感覚でどうかな?30分、いや15分でもいいから。」
根詰めるのもよくないから、息抜きのために盆栽の水遣りをしていたんだけど・・・。オレは喉元まで出掛かったその台詞を無理やり押し殺した。
ひたむきに頼み込む住人を前にして、冷たくあしらうことも、不意に断ることなどできるはずもない、自己嫌悪に苛まれるオレだった。
「・・・わかったよ。30分ぐらいなら付き合うよ。お手柔らかに頼むな。」
「ありがとう、マサ!」
大喜びを絵に描いたような顔ではしゃぐ奈都美。そんな彼女を見つめながら、オレは苦笑しつつも自分自身の愚かさを正当化しようとしていた。
===== * * * * =====
ここは「山茶花中央公園」のサッカーフィールド。朝早めのせいか、フィールド内にはオレと奈都美の他には誰もいない。
すがすがしい天気の下、フィールド上でボールを転がし合ったオレたち二人。さわやかに吹く風が周囲の青葉を振るわせて、汗をかいたオレたちに心地よい涼しさを与えてくれた。
練習を始めてからおおよそ30分ほど。ドリブル練習を終えたオレと奈都美は、休憩しようとプラスチック製のベンチに腰を下ろした。
「ありがとう、いい練習ができたよ。合宿も終わって、ちょっと体がなまってたんだよね。」
タオルで顔を拭きながら、奈都美はニコニコしながらそう話していた。
奈都美は現在、強化合宿も無事に終えて、少しばかりの休暇期間中だった。努力家の彼女にしてみたら、時間を持て余して仕方がないといったところだろう。
試合の方もリーグ戦の前半戦が終了し、これから上位チームだけ出場できるトーナメント戦へと移行するという。奈都美のチームは参加できないので、その期間中は、気合の入らない練習がダラダラと続くとのことだ。
「奈都美、合宿も終わったけどさ。住まいのこととか、これからどうするつもりなんだ?」
オレが藪から棒にそう尋ねると、奈都美は顔をポリポリ掻きながらはにかんでいた。
「・・・あんまり考えてないんだ。試合には出れたけど、まだレギュラーってわけじゃないしね。」
先月8月の最終日曜日に開催された試合に、奈都美は時間こそ短かったものの、公式戦出場という夢を実現することができた。しかもそれだけではなく、同点弾をアシストするという記録まで残すことができた。
そんな実績を残せても、奈都美の気持ちとしては、レギュラーを獲得するまでは一人前とは言えない。プロとして一本立ちするその時までは、このまま居候させてほしいと彼女は切なる思いを口にした。
「もちろん、オレは構わないよ。じいちゃんの誓約書がある限りはね。」
オレに反対する理由などなかった。むしろ、アパートの住人として、そして管理人の仕事の助っ人としても、オレの方からアパートに留まることをお願いしたいぐらいだった。
「ありがとう、マサ。わがままばっかりで、ゴメンね。」
「気にするなって。住人たちのわがままを聞くのも、管理人の役割みたいなもんさ。こういうの、もう慣れっこだからね。」
奈都美はニヤッと笑って、もうすっかり一人前の管理人だねとつぶやくと、冷やかすようにオレの頬を優しく突いてきた。
いつものオレだったら、からかうなと言い返しているところだが、この時ばかりは、自分の成長を認めてもらえたような気がして、むず痒くなった照れ顔を掻くことしかできなかった。
「あたしさ、もうちょっとだけ練習していくから、マサは先に帰っていいよ。」
そう伝言のように言い残すと、奈都美はボールを蹴り出して颯爽とフィールドへと駆け出していった。その後ろ姿はあまりに格好よく、プロの女子サッカー選手なのだと実感させられてしまう。
奈都美の練習風景を横目に見ながら、帰ったらいよいよ勉強だとやる気を起こし、オレはそよ風の舞うサッカーフィールドを後にした。
===== * * * * =====
「山茶花中央公園」を離れてアパートへ辿り着いた頃には、時刻は午前9時に到達していた。
寄り道せずにまっすぐ玄関をくぐると、一目散に管理人室へと向かうオレ。カギを開錠し、ドアを開けて、ひっそりとした管理人室に入る、と言うよりは”こもる”と言った方が正解だろう。
「よし、やるぞ!」
オレは机のそばにどっかりと腰を据えて、放っておかれたままの教材たちを手に取る。そして、萎えかけた向上心を今一度奮い起こそうとしたそんな矢先、悪運が強いのだろうか、またしても邪魔者が登場する。
「・・・マサぁ、いる?」
ドアの向こうから響いてきた小さい声。この間延びした声の持ち主は、紛れもなく潤であろう。
このまま居留守を使おうと考えもするが、潤が相手では正直言って無駄なのだ。なぜかというと、彼女はオレが返事をしようがしまいが、ドアを勝手に開けてしまうからだ。
「もー、マサ!いるなら返事ぐらいしなよぉ。」
「返事も何も、オレが返事する前に、潤がドアを開けちゃってるんだよ。」
薄青色のTシャツにショートパンツという格好の潤は、化粧っ気のない顔で口を尖らせている。
この自由奔放ぶりに呆れてしまい、怒る気にもなれなかったオレ。用事があるなら早く言ってと急かすと、潤はリビングルームを指差しながら、困ったような顔つきで問いかけてくる。
「ニャンダフルどこにいるか知らない?リビングにいないんだけどぉ。」
そんなどうでもいいことのために、と言ったら潤とニャンダフルに失礼だが、今のオレはそう言いたくなるほど苛立ちを募らせていた。捜している理由を尋ねると、ただ遊び相手が欲しいだけと言ってきたから尚更だ。
潤は念のために、ゴミ置き場の周辺や庭先の辺りも覗いてみたらしいが、ニャンダフルの姿はどこにもなかったそうだ。
「ニャンのことだから、どこかへ散歩に行ってるんだろ。そのうちふらっと帰ってくるさ。」
オレの投げやりな言い方が癇に障ったのか、憮然とした顔で不快感をあらわにした潤。
「あんたさぁ、ニャンダフルが心配じゃないの?もしかしたらさぁ、交通事故に遭ったりとか、誰かに誘拐されたりしてたらどうするつもりよぉ!?」
潤の言い分も間違ってはいないが、そんなことを言い始めたらキリがない話だろう。それだったら、普段から鎖につないで面倒みたらどうだと、ついつい声を大にして叫びたくなってしまう。
イライラしているオレなど気にも留めず、潤は心配だから一緒に捜してほしいと涙目になってせがんでくる。彼女のこのお得意のパターンに、オレはもう沈み込むようにうなだれることしかできなかった。
「オレ、勉強があるんだよ。」
そんなオレの苦悩など知る由もなく、潤はとうとう愚痴のような不平不満まで言い始める。オレがうなづくまで、きっとこの金切り声が治まることはないだろう。
「・・・わかった、一緒に探す。だからもう、わめかないでくれ。」
「マサ、ありがとぉー!ほらほら、早く行くよぉ。さぁ、立って立って!」
無邪気に笑う潤に手を引かれて、オレは猫捜しのためにアパートの玄関まで連れ出されてしまった。
行方知れずのニャンダフルを捜索するのはいいが、オレと潤が一緒になって歩き回っても意味がない。そう思ったオレは、二手に別れて行動する方が望ましいと進言した。
もう一つ、時間を掛けてしらみつぶしに捜し回っても無駄に終わる可能性がある。今から30分経ったら、一度アパートへ戻ってくるという条件もそこに付け加えた。
「オレは商店街の方を捜してみるよ。潤は公園の方を捜してみて。」
「りょーかい。見つかったら、お互いのケータイにコールねぇー。」
潤はボサボサの髪の毛を後ろで結うと、オレに背を向けておぼつかない足取りで歩いていった。それを見届けたオレも、不本意ながらもニャンダフルの捜索に乗り出した。
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「だいたい、自由気ままで風任せに生きてる猫なんだから、それを見つけろなんて無理難題だよ。」
そんな愚痴をこぼしながら、オレは近所の商店街付近を途方もなく歩いていた。
いくら住人のお願いだからといって安請け合いし過ぎだろうと、オレは今さらながら、お人よしな自分自身にとことん愛想が尽きていた。
「ニャンのヤツ、どこに行ったんだろう?」
こうやって猫を捜して歩いてみると、思いのほか、いろいろな生き物に遭遇するものだ。ところが、そのほとんどが似ても似つかぬ飼い犬や野良猫ばかりで、白と黒のぶち猫のニャンダフルは一向に見つからない。
時刻もまもなく午前10時になろうかとしている。太陽も程よい高さまで昇ってきて、残暑の暑気が心なしか強まり出したのを感じていた。
「さすがに、商店街の中まではやってこないだろうな。」
商店街の人だかりに混じることはないと予想し、来た道をそのまま折り返すことにしたオレ。というよりも、30分も経たないうちにアパートへ帰りたかったというのが本音だ。
受験勉強もおろそかにして、こんなところで何をしているのかと、自分のことを戒めていたオレは、背後からいきなり声を掛けられてびっくりしてしまう。振り返るとそこには、馴染みのある女性が立っていた。
「ああ、紗依子さん。」
「こんにちはー。こんなところで会うなんて偶然ね。」
エスニック柄のアジアンチックな装いで、愛想のいい笑顔で挨拶してきた紗依子さん。
商店街そばの交差点でボーっとしていたオレが、急転回してアパート方面に引き返したので、どうしたのかと気になって呼び止めてしまったそうだ。
「どうかしたの?浮かない顔してるけど。」
紗依子さんは心配そうな顔でそう尋ねてきた。隠していたつもりでも、オレの顔に映る気苦労という文字が、どうやら彼女にだけは見抜かれていたようだ。
「いや、実はですね、ニャンダフルを捜してるんですよ。」
「あらら、ニャンダフルって、アパートで飼ってる猫のことよね?まさか、家出か何かしちゃったの!?」
お散歩しているであろう猫を、潤に頼まれて泣く泣く捜していることを伝えると、紗依子さんは顔をほころばせて、苦労人のオレに同情の眼差しを向けてくれた。
ニャンダフルは白黒のぶち猫よね?と確認してきた紗依子さんは、その数秒後、何かを思い出したように手を叩いて目を大きくした。
「そうそうそう!きっと、あれはニャンダフルよ。」
「え?紗依子さん、ニャンのこと、どこかで見かけたんですか?」
オレの急くような問いに、紗依子さんはここまでの道のりを振り返りながら答える。
「すぐそこの一本道からここまで歩いてきたんだけど、その途中で白と黒のぶち猫とすれ違ったわ。すれ違いざまにね、その猫、わたしに、にゃあって愛らしく鳴いたから、きっと野良猫じゃないわね。」
紗依子さんの見た印象から、その猫はどうもニャンダフルに間違いなさそうだ。彼女が言うには、ニャンダフルはその後、アパートのある方角にのんびり歩いていったという。
ニャンダフルとすれ違ったのが今から10分ほど前らしいので、もしかすると、もうアパートに帰っているかも知れないとのことだ。
「紗依子さん、ありがとうございます。それじゃあオレ、アパートに戻ってみますね。」
オレは紗依子さんに別れを告げるなり、アパートを目指して颯爽と歩き出していった。
アパートへ続く道のりを、オレは脇目も振らずに突き進んでいく。ニャンダフルが帰っていようがいまいが、一分でも一秒でも早く辿り着きたい気分だった。
汗ばむ不快感をも我慢して、アパートのリビングルームに到着したオレを待っていたのは、ちゃんと帰宅していたニャンダフルと、一緒に戯れていた保護者の潤であった。
「あ、マサ。遅かったねぇー。」
捜し回っていた途中の路地で、偶然ニャンダフルと出会ったので、仲睦まじく一緒に帰ってきたという潤。そんな経緯を伝え終えると、彼女は猫なで声でニャンダフル相手にじゃれついていた。
「潤、あのさ。ニャンが見つかったら、携帯電話に連絡くれるはずだったよな?」
潤と二人で捜索に出発する前に、お互いの携帯電話で報告し合う約束をしていたはずだ。オレがそのことを指摘すると、彼女は呆気に取られながら反論するように言い返してきた。
「えー、ちゃんとメールしたよぉ。あんた、ケータイ、チェックしてないの?」
「メ、メール・・・!?」
オレは慌てて、ズボンのポケットから携帯電話を抜き取った。そして液晶画面を見据えると、潤からのメールを受信したことを告げるマークが、これ見よがしにしっかりと点灯していた。
今さらではあるが、受信したメール本文をチェックしてみると、潤の言っていた通り、”ニャンダフル発見♪”という簡便なメッセージだけが表示されていた。
あまりメールのやり取りをしないオレは、メール受信はメロディーなしのバイブレーション機能だけにしている。電話が来るものとばかり考えていたせいで、メール受信時の振動に気付かなかったようだ。
「・・・なるほど、メールね。ははは。」
潤とニャンダフルが遊んでいる姿を見つめながら、オレは恥ずかしさを通り越して、あまりのバカさ加減に自嘲するしかなかった。
げんなりとしていたオレは、蚊の鳴くような声で潤たちに声を掛けてから、リビングルームをすごすごと立ち去っていった。
当然やる気など沸いてくるはずもなく、オレはその後、参考書を一ページもめくることのないまま、正午という時刻を迎えてしまうのだった。
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