第四話 二.ボールを追いかける女の子
その日の午後、オレは講義のため予備校へ行ってきた。
日頃からの勉強不足のせいか、授業のペースについていくのが精一杯だった。他の予備校生たちに水をあけられて、オレは更なる危機感を募らせていた。
予備校からの帰り道、オレは気晴らしとばかりに駅周辺をふらついていた。どのぐらい時間を無駄にしたのだろうか。外はすっかり薄暗くなっている。
「もうこんな時間かぁ。お腹が空いてきたけど、今日の夕食どうしよう。」
アパートに戻ってから、食事の支度をするのも面倒だと思って、オレはどこかで食べて帰ろうと考えた。
ラーメン専門店や中華食堂、回転寿司屋といったお店を片っ端から覗いてみたが、時間が時間だけに、どのお店もお客さんでいっぱいだった。行列に加わってまで、オレは混雑したお店に執着するつもりはなかった。
結局、悩みに悩んだ挙句、オレは駅西口の繁華街へと足を向けていた。オレが向かった先は、アパートの関係者にお馴染みのあの店である。
「やっぱり、ここしかないよな。」
オレは「串焼き浜木綿」までやってきた。灯る提灯を見届けながら、オレは掛けてある暖簾を潜った。
すでにお客が来ているのか、店内には白い煙が立ち込めている。香ばしい香りが漂ってきて、オレの食欲をますます掻き立てた。
「いらっしゃい!」
威勢のいい声が響いた。オレに気付いたマスターが、満面の笑顔で迎えてくれた。
「お、マサくん。また来てくれたね!毎度ありがとう。」
「今日もお世話になります。」
ここ浜木綿は、隠れ家的なイメージが強いのか、どの曜日もどの時間帯も混み合っていることは少ない。オレにとっては気兼ねなく来れるから嬉しいが、マスターにとっては喜べないことだろう。
さっと店内を見渡してみると、座席に一組、それにカウンターに一人だけお客さんがいた。
「マサくん、今日はタイミングがいいね。顔見知りが来てるよ。」
「え?」
マスターがカウンターを指差している。カウンターにいるお客さんは、店員の九峰紗依子さんと何やら話し込んでいた。
「マサくん、いらっしゃい。」
紗依子さんの挨拶に続いて、そのお客さんもオレに向かって声を掛けてきた。
「マサくん、お疲れさまー。」
「あ、麗那さん!」
カウンターにいたお客さんは麗那さんだった。ビールジョッキ片手に、彼女は大好物の串焼きを口にしている。現役ファッションモデルのこんな光景は、とても違和感があった。
紗依子さんに勧められて、オレは麗那さんの隣の席へと腰掛けた。
「びっくりしましたよ、麗那さんがいるなんて。」
「フフ、今日はちょっと紗依子に用事があったの。今日は仕事も早く終わったから、話ついでにここで夕食済ませようと思ってね。」
微笑しながらそう答えた麗那さん。いろいろな話に花が咲いたのか、二人ともご機嫌な様子だった。
オレはいつもと同じく、紗依子さんに生ビールを注文した。すると、麗那さんが串焼き盛り合わせをオレの方へ差し出してくれた。
「食べ切れそうにないから、よかったらどうぞ。」
麗那さんの厚意に感謝しながら、オレは鶏皮の串焼きを口に運んだ。少し冷めていたけど、おいしさに変わりはなかった。
「はいはいはい、生ビールお待ちどうさまー。」
お通しと生ビールを持ってきてくれた紗依子さん。その生ビールジョッキを掲げて、オレと麗那さんはお疲れさまの乾杯をする。
乾杯の一口で、生ビールを一気に飲み干してしまった麗那さん。間髪入れず、彼女は生ビールを追加注文していた。
「麗那さん、相変わらずの飲みっぷりですね。」
「だって、まだニ杯目だもの。フフフ。」
仕事明けの楽しいひと時を満喫するように、麗那さんはおどけながら笑っていた。
「・・・あ、そうだ。奈都美さんのこと。」
オレはふと、奈都美さんのことを思い出した。もしかすると、麗那さんなら奈都美さんの居場所か何かを聞いてるかも知れない。
「麗那さん、いきなりですけど、昔アパートの二階に住んでいた六平奈都美さんの現住所とか知ってます?」
「えっ!?」
奈都美さんの名前が飛び出したせいか、麗那さんはびっくりしたようだ。
オレは写真を取り出して、唖然としている麗那さんに手渡した。その手にした写真を、彼女は食い入るように眺めている。
「あら、この写真。どうしてこれをマサくんが持ってるの?」
オレはこれまでの経緯を麗那さんに説明した。空き部屋でこの写真を見つけたことや、引っ越した後の所在がわからないこと、そして、勤務先をすでに辞めていたことなどを簡潔に話した。
「奈都美さん、この写真なくして寂しい思いをしてるんじゃないかな、と思ったんです。住人のみなさんとの思い出と一緒に、この写真を大切にしてほしいから、何とか彼女にこれを届けたいんです。」
思い悩んでいるオレに、麗那さんは真剣な眼差しを向けている。そして、彼女は懐かしむように、手にした写真へと目を移した。撮影した時のことを振り返っていたのだろうか。
オレは改めて、麗那さんに奈都美さんの居場所について尋ねてみたが、残念ながらわからないとのことだった。手掛かりとなる手段が少なくなっていくたびに、オレの中の焦燥感が強くなっていく。
「マサくん、諦めないで。奈都美の居場所につながる何かが、きっとどこかにあると思うよ。わたしもそれとなく調べてみるね。」
優しく気遣うように、麗那さんはオレを励ましてくれた。
「あらあらあら、その写真はなーに?」
生ビールを届けにきた紗依子さん。興味津々の様子で、彼女は写真を覗き込んだ。
「一年ほど前にアパートの前で撮ったものよ。ほら、奈都美のこと憶えてるでしょ?あの子が引っ越す前の記念に撮ったの。」
「もちろん、憶えてるわよ。奈都美がアパートにいた頃が懐かしいわねー。」
「そうね。ここに連れてきても、あの子お酒ダメだから、いつもふて腐れていたわね。」
麗那さんと紗依子さんは、奈都美さんとの思い出話で盛り上がっていた。そんな二人の話を聞いていたら、奈都美さんの人柄や性格なんかをうかがい知ることができた。
ますます、奈都美さんに写真を届けたい思いが強くなったオレは、萎えていく気持ちを今一度奮い起こして、諦めずにがんばろうと心に誓っていた。
===== * * * * =====
「麗那さん、オレそろそろ帰りますね。」
浜木綿で有意義な時間を過ごしたオレ。お腹の具合も丁度よかったので、そろそろおいとますることにした。
麗那さんは、左腕に締めたアンティークな腕時計に目をやる。もうこんな時間かと、彼女はちょっぴり残念そうな顔をしていた。
「紗依子、今日の帰りはどうするの?」
「・・・今夜はマスターにお願いしてるから。」
紗依子さんはそう言いながら、マスターの方へ顔を向けて目配せすると、麗那さんはホッとしたような表情を浮かべていた。
「それじゃあ、一緒に帰ろうか、マサくん。」
麗那さんは会計を済ませて、オレと一緒にアパートへ帰ることになった。
「ごちそうさまでした、おやすみなさーい。」
別れの挨拶を交わして、オレたち二人はお店を後にする。夜も更けてきたせいか、繁華街の路地を行き交う人影も随分少なくなっていた。
ほろ酔い加減で心地良さそうに歩いている麗那さん。そんな彼女のすぐ後ろで、オレは付かず離れず歩いていた。
「あ、そうだ。」
突然、麗那さんが何かを思い出したように語り始める。
「マサくん、実はね。昨日の夜、いつものようにリビングで晩酌してたらね・・・。」
昨夜、いつもの晩酌を終えた麗那さんが食器を洗おうとしたところ、誤って手を滑らせてしまい、お皿とグラスを割ってしまったそうだ。割れた破片が細かくて、片付けるのに相当苦労したらしい。
「怪我とかしませんでしたか?」
心配無用とばかりに、麗那さんはすべすべの手のひらをオレに見せて、無傷で済んだと教えてくれた。
「明日にでも代わりの物、買ってきますよ。」
アパートにある食器類が破損や破壊してしまった場合、アパートの管理維持費から補うことになっている。つまり、住人たちからの月々の家賃から補填しているのだ。
ただし、故意に壊したことが発覚すれば、個人から別途負担してもらうが、今回のケースは明らかに意図的ではないため、管理維持費から出費するというわけだ。
「ごめんね、面倒掛けちゃって。」
「気にしないでください。オレ、管理人・・・代行ですから。」
麗那さんはクスっと微笑んだ。オレも照れくさくなって、彼女と一緒に微笑んだ。
「あ、何だか降りそうな雰囲気ですね。」
夜空を見上げると、濁った雲が星の輝きをすっかり消し去っていた。雨が近づいているのか、肌寒い風が吹き抜けて、薄着のオレたちの体温を奪っていく。
雨に打たれるのは御免とばかりに、オレたちは肩を並べながら、焦る気持ちで家路へと急いだ。
===== * * * * =====
次の日の午後、空を見上げると、曇り空からわずかに太陽が顔を出していた。未明に降り出した大粒の雨は、小さな水溜りでその面影を残していた。
「いい天気になってきたなぁー。」
商店街の百円ショップで食器類を購入した帰り道、オレは寄り道がてら「山茶花中央公園」へ立ち寄ることにした。
今日は土曜日ともあって、小学生や中学生らしき子供たちが公園内で遊んでいる。ベビーカーを押しながら、若い主婦たちが談笑する姿もちらほら見られた。
日光浴でもしようと思って、オレは公園内の芝生へと足を踏み入れた。しかし、未明の雨でまだ濡れていたため、オレは慌ててその場から跳び出した。
「おお、危ない危ない。せっかく買った食器が壊れちゃう。」
慌てて買い物袋を覗き込んだオレ。この中には、新聞紙で包んだお皿とグラスが入っている。麗那さんが壊してしまった食器の代わりとして買ったものだ。
「これじゃあ、芝生に座れないな。どこかのベンチで休憩するか。」
この公園内にあるベンチはほとんどが木製なので、一度濡れてしまうとなかなか乾かない。乾きやすいプラスチック製のベンチとなると、サッカーフィールド辺りまで行くしかないのだ。
「ここまで来たんだ。面倒だけど、サッカーフィールドの方まで行ってみるか。」
サッカーフィールドに向かって、オレはのんびり歩き出した。穏やかな日差しのおかげで、地面だけではなく、湿った空気まで乾いていくようだった。
わずかに残った水溜りを避けながら、オレはサッカーフィールドそばのベンチまでやってきた。幸運にも付近には誰もおらず、遠くで遊んでいる子供たちの声がかすかに聞こえる程度だった。
「乾いているかな・・・?」
オレは指でベンチに触れてみた。しばらく太陽の日差しに晒されたせいか、ベンチはすっかりと乾いていた。多少汚れてはいたが、気になるほどではなかった。
「う~ん。気持ちいいなぁ~。」
買い物袋をベンチの隅に置いて、オレは伸びをしながらベンチの上に横たわった。
オレは寝転んだまま上空を見つめる。いつの間にか、鈍色の雲はどこかへ消え去り、眩しいほどのスカイブルーの空が広がっていた。ここ数日、湿っぽい天気が続いていたので、この陽気はこの上なく心地よかった。
微風に包まれるベンチの上で、あまりの気持ちよさに、オレは思わずうたた寝してしまうのだった。
「すー、すー・・・。」
ぼんやりとした真っ白い空間の中にオレはいた。これは夢の中だろうか。
オレは何かに追われるように逃げ惑っていた。向かう先がどこなのか、何があるのかもわからず、ただひたすら走り続けていた。
誰かの大きな叫び声が、オレの背後から響き渡る。危機を知らせるようなその叫びが、オレの耳元を激しく打ちつけた。
オレ目掛けて、白と黒の二色の物体が飛んでくる。咄嗟に身を翻し、オレは間一髪、その物体をかわした。しかし、悲鳴のような破壊音がオレの耳をつんざいた。
「・・・!」
オレはハッと目を覚ました。意味不明な夢から醒めたようだ。おぼろげな意識のまま上半身を起こし、オレは両足を地面に下ろした。
「何だ?」
オレの足が何かに接触したので、足元を見てみると、そこにはサッカーボールが転がっていた。泥水で汚れていて、随分年季の入ったボールだった。
「サッカーボールがなぜここに?」
サッカーフィールドの方から人の声が聞こえてきた。ユニフォームを着た人が、オレのいるベンチまで駆け寄ってくる。
「大丈夫ー?」
声を掛けてきたのは、ついこの前、ここで一人サッカーをしていたあの女性だった。
「ボールに当たらなかった?何かさ、変な音が聞こえたから、心配になっちゃって。」
「変な音?」
オレはすぐさま、ベンチの上にある買い物袋へ目をやる。なぜか、買い物袋に泥水と思われる水滴が付着していた。
「まさか!」
慌てて買い物袋に手を突っ込んで、オレは新聞紙に包んだ食器を取り出した。
手触りに不穏な感触を残しつつ、恐る恐る新聞紙を剥がしてみると、嫌な予感通り、お皿とグラスは数個のガラスの破片と化していた。
「あー、割れちゃってる!」
そのあまりの無残さに愕然とするオレ。ところが、目の前にいる女性は安堵したような顔をしていた。
「どうやら怪我してないみたいだね。よかったよ、壊れたのがそれぐらいで済んで。」
そう言い切ると、その女性は転がっていたサッカーボールと一緒に、オレの前から立ち去ろうとした。その失礼な態度に憤慨したオレは、荒げた声で彼女を呼び止めた。
「ちょっと待ってよ!」
オレの怒号に、その女性はキョトンとした顔をしている。
「壊れたのがそれぐらいで済んでよかったって、ちょっとおかしいんじゃないかな。きみのボールが、オレの持ち物を壊したんだよ。きちんと謝るべきじゃないか?」
「謝る?あたしが?どうして?」
その女性は悪びれる様子もなく、この事故がまるで、不可抗力であったかのような口振りだった。
オレがとにかく謝罪するよう要求するも、その女性は開き直ったようにそっぽを向いている。それどころか、彼女はイライラを募らせて、オレに対して文句を言い始める。
「あのさぁ、ハッキリ言っちゃうけど、こんなところで昼寝してるキミが悪いんじゃない?ここって、サッカー場なんだからさ、ボールが飛んでくることぐらい予想できるじゃない。あたし一人の責任のような言い方されちゃうと、ちょっとムッときちゃうんだよね。」
「どこにも昼寝しちゃいけないって看板もないよ。それに、オレが来た時、きみはまだここにいなかった。それじゃあ、どう考えても、オレがきみのサッカーボールを防ぐことはできなかったはずだ。」
この女性に罪の意識を感じてもらおうと、オレは必死になってまくし立てる。彼女も激高しながら、語気を強めて噛み付いてくる。
「そんなの単なる屁理屈じゃない!だいたい、サッカー場のベンチで昼寝することそのものが非常識だよ。昼寝だったら、おうちに帰ってからにしなよ!」
「非常識なのはどっちだよ。人の持ち物を壊しておいて、謝らないなんておかしいよ。人として考えを改めるべきだ。」
オレとその女性は激しく言い争った。しかし、お互いに主張を崩さず、終わりのない罵り合いが続くだけだった。
このエンドレスな言い合いに、ついには、その女性もうんざりしてしまったようだ。
「もういいよ!今後はお互いが注意すればいいんでしょう?それで終わりでいいじゃん。あたしもそんなに暇じゃないんだよねー。」
「そんな言い方しないでよ。責任があると認めるなら、それに対してきちんと誠意を見せるべきだ。ただ一言謝るだけでいいんだよ。」
オレにも、折れるに折れないプライドがある。ここまで来てしまうと、オレも引っ込みがつかなくなっていた。この女性が頭を下げるまで、オレはひたすら謝罪を要求し続けていた。
熱弁を振るうこと数分間、オレの執念に屈服したのか、その女性はうつむきながら吐息を漏らした。
「ふぅー、わかったよ。あたしが悪かった、ごめん。」
その女性は悔しそうに頭を下げた。長かった口論の末、オレは彼女を打ち負かすことができた。
「キミって、ホントにしつこいね。その割れた皿とグラス、弁償するから、もう勘弁してくれないかな。」
弁償までしてもらえることになったので、駅西口商店街の百円ショップで買ったものだと、オレはその女性に伝えた。
こちらからも連絡が取れるようにと、オレは女性の電話番号を確認しようとした。ところが、ばつが悪かったのか、彼女は断るような仕草を見せた。
「あたしさ、実家の・・・、電話使えないんだ。それに、あたし携帯電話持ってないから。あたしから電話するから、キミの連絡先教えてよ。」
そう言うと、その女性はウエストポーチからボールペンを取り出す。
そのボールペンを受け取ると、オレはメモ用紙代わりに持っていたレシートの裏側に、アパート名と電話番号、そしてオレの名前を書き込んだ。
「それじゃあ、これ渡しておくよ。」
オレからレシートを受け取ると、その女性は目を細めてオレの連絡先を見つめる。
「えっ!?」
驚きの声を上げた途端、その女性は口をつぐんでしまった。一呼吸置いてから、彼女は消え入りそうな声で口を開く。
「ハイツ一期一会・・・キミ、このアパートの住人なの?」
「いや、オレこのアパートの管理人の代行・・・あ、いや、まあ、そんなことをしてるんだ。」
「え、管理人・・・!?」
アパートに管理人がいることに驚いたのか、それとも、オレのような若い管理人が珍しかったのか。その女性は動揺したように、何だか落ち着かない様子だった。
「と、とりあえず、もう行くよ。近いうちに連絡するから。」
「うん、面倒かけちゃうけど、よろしく。」
冴えない表情のまま、その女性はレシートをユニフォームのポケットに突っ込んだ。そして、壊れた食器の入った買い物袋を手にして、オレのもとから走り去っていった。
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