結 ある記者の警鐘
どうして彼にあれほど英雄的な行動が取れたのか。
それはやはり、幼少期における両親の教育に起因するだろう。
滝の父は、この国を守る自衛官だった。
母は、この国の将来を担う子供たちを育てる保育士だった。
ともにもうこの世にはいない。母親は彼が十二歳のとき、父親は二十一歳のときに他界している。
もちろん死因におかしなところはなく、若くして病を得てしまったということらしい。
「自分のことより他人様のこと、という教育方針だったそうだよ」
志藤検事が言う。
公園のベンチ。
とことこと鳩たちが餌を求めて集まってくる。
この教育と、幼少の頃より父親から習っていた軍隊式の格闘術が、彼を正義のヒーローたらしめたわけだ。
しかし、そのヒーローに下された一審判決は死刑だった。
戦意を喪失して逃げようとしている相手まで殺した、という点がとくに重く扱われたらしい。
正当防衛とは呼べないし、過度の残虐性がある、というわけだ。
ボス格のAを除いて、すべて一撃で息の根を止めているから。
笑止である。
本当に滝が残虐なら、一瞬で命を奪うようなことはしなかったろう。
外道どもが女性たちにやったように、時間をかけて嬲りものにしている。無用な苦しみを与えることなく命を刈っていったのは、まさに慈悲というものだ。
Aだけは、女性たちの意趣返しとして苦しませた上で殺したが。
ともあれ、この判決に世間が激怒した。
誰一人として、この英雄の死を願ったりなどしていないのに。
法律という、たかが便宜上の物差しではかり、死なせて良いのか、と。
滝雄一を救え、という署名は、すでに二百万人を超えているという。
しかし、滝本人が控訴しないと明言しているのだ。
もうできることはない。
「滝の勤めていた会社な。死刑が執行されるその瞬間まで、社員登録を消さないそうだよ。有給休暇の扱いだそうだ」
「それは……すごい決断ですね」
「世のため人のため正義のために戦ってくれた男を、どうして解雇しないといけないのか、と、社長が息巻いていたよ。私はさんざん罵倒されたがね」
肩をすくめる検事。
悪役にされるのは仕方がない、と。
世間一般からは、国が英雄を殺そうとしているように見えるから。
そしてそう見えるように私は記事を書いたのである。
私は女性たちを助けることができなかったが、彼女たちを地獄から救い出したヒーローを助ける、その手伝いくらいはできるはずだ。
「そのくらいはさせてもらいたいんですよね」
「英ちゃんの英と、滝雄一の雄で、英雄になるしな」
言ってから、志藤検事が辟易したような顔をした。
自分の冗談のセンスに嫌気がさしたのだろう。
私が突っ込むまでもなく。
ごほんと咳払いする。
「控訴は、検察からするよ」
決然とした言葉。
この人もまた、前代未聞のことをしようとしている。
最高刑である死刑判決を不服として、検察が控訴するという。
「無茶をしますね……」
「求刑とは違う判決が出たんだから、不服としたっておかしくはないさ」
それは論理のアクロバットというべきだろう。
だが、もちろん私に否やはない。
また戦えるのだ。
彼を救うために。
「法律やルールってのはさ、英ちゃん。べつに正義のためにあるわけじゃないんだよな」
「はい」
ぽつりと言った検事に、私は短く返事をする。
会話を継続したいというより、なにか語りたいことがあったように見えたので、先を促すための合いの手だ。
「世の中を効率よく回すためなんだよな」
こうしたら上手いこと回るから、ということで定められてきたのが法律である。
これが正しいのだから、と、決められた法律は多くない。
そもそも正義など時代によって異なるものだ。
多くの敵将を倒した者が称揚される時代だってあるし、要塞に立てこもって戦った反乱主導者が最終的に大臣となったケースもある。
だから法の女神アストリアは、片手に秤を持っている。
正しいか間違っているかを計るために。
バランスを見極めるために。
つまり、多くの女性に対して死にも勝るような屈辱を与え続けていたクソムシどもを殺したのは悪ということだ。少なくともこの国においては。
もっとも、これは詭弁だ。
司法の判断としては、「誰だから殺して良い」という話にはならない、というものなのだから。
Aたちに罪があるのは明白だが、それを裁くのは法廷でなくてはならない。
けっして私人が断罪の剣を振り下ろしてはならない。
そういうことだ。
ひどく当たり前で、ひどくつまらない結論である。
「効率よく回した結果、誰かが困っていても泣いていても、見過ごす人が増えるかもしれませんね」
私は検事に軽く肩をすくめて見せた。
判決に対する精一杯の皮肉を込めて。
「言うなよ。英ちゃん。まだ戦いが終わったわけじゃない」
ありふれた国産たばこの先に火をともし、志藤検事はストレスとともに煙を吐き出す。
それは冬の訪れた空に消えていった。
少し離れたところから、主婦たちが咎めるような目で彼を見ている。
たばこを吸っているのが気に入らないのだろう。
あるいは、平日の昼間に大の男が公園のベンチに座っているのを気持ち悪がっているのかもしれない。
視線に気づいたのか、二口しか吸っていないたばこを携帯灰皿に押しつけ、志藤検事が立ち上がった。
「生きにくい世の中になっちまったな」
「まったくですね」
正義を為した男に死刑が言い渡され、ベンチに座っているだけで奇異の目で見られる。
たばこは、まあ、本人の健康のためにもやめた方が良いだろうが。
ビルの谷間を吹き抜ける風が、やたらと身に染みる。
私はコートの襟を立て、背を丸めた。
まるで動物の防衛本能のように。
三週間後。
東京高等裁判所は、検察の控訴を棄却した。