空っぽの青年
降りしきる雨が、アスファルトの熱を奪っていく夜でした。
都心から少し離れた廃ビルの一室。そこは、警察が「組織的な闇取引の現場」として数ヶ月前からマークしていた場所です。突入の合図とともに飛び込んだ捜査員たちが目にしたのは、取引相手の無残な遺体と、その傍らで呆然と立ち尽くす、一人の青年でした。
「状況を報告しろ」
低く、温度のない声が部屋に響きました。
結城玲一は、泥や血に汚れるのを嫌うかのように、磨き抜かれた革靴の先で慎重に床を歩きます。彼は現場を飾る「正解」だけを求める、警察組織の若きエリートです。
「……それが、。この男、自分が誰かも、ここで何があったのかも分からないと言っていまして」
部下の報告を聞き、結城は眼鏡の奥の瞳を鋭く細めました。
視線の先にいる青年——湊は、びしょ濡れの白いシャツを肌に張り付かせ、焦点の合わない瞳で自分の掌を見つめていました。
「名前は?」
結城が目の前で問いかけても、青年は反応しません。ただ、部屋の隅に落ちていた「何か」を指差しました。
「……あそこに、もう一人いるよ。……泣いている人が」
指の先には、何もありません。ただのコンクリートの壁です。
結城は鼻で笑いました。
「幻覚か、あるいは演技か。どちらにせよ、重要参考人だ。連行しろ」
翌朝、取調室の対面。
結城の手元には、湊の「鑑定結果」が置かれていました。
指紋、DNA照合: 該当なし(データ抹消の形跡あり)。
所持品: ゼロ。
記憶: 近時および遠隔、すべてのエピソード記憶の消失。
しかし、結城がこの男をただの「迷子」として処理しなかった理由は、別のところにありました。
「湊……と呼ぶことにしよう。昨夜、君が指差した壁の裏から、三十年前の未解決事件に関わる遺留品が見つかった」
結城は、資料を机に叩きつけました。
「君の記憶喪失が嘘か真かはどうでもいい。だが、君には『何か』がある。警察のデータベースにも載っていない、事件の核心を射抜く異様な直感がな」
湊は、窓の外を飛ぶ鳥を眺めながら、ぼんやりと答えました。
「直感……? よく分からないけど、あそこに誰かがいた気がしたんだ。寂しくて、震えている誰かが」
結城は冷ややかに微笑みます。その笑顔には、隠しきれない「黒い」野心が混じっていました。
「いいだろう。君のその『勘』を、私の手駒として使わせてもらう。記憶が戻るまで、あるいは君の利用価値がなくなるまで、君の身柄は私が預かる。二十四時間、私の目の届く範囲でな」
「え、それって……一緒に住むってこと?」
湊が初めて結城を真っ直ぐに見ました。
「『監視』と言え。……それと、朝食はゼリー飲料で済ませろ。私の時間を一分たりとも奪うな」
これが、冷徹なエリート警官・結城玲一と、正体不明の自称名探偵・湊の、歪な共同生活の始まりでした。




