背後に迫る影⑥
「朝矢」
弓道場を出るとすぐに野風と呼ばれた白銀の狼が話しかけてきた。
「お前が気にしていた女子になにかついているようだぞ」
「そうか」
「どうする? 放っておくか?」
「……俺が勝手に動くわけにはいかないだろう」
「とりあえずは帰るか」
「ああ。まずは店長に……」
「ちょっと待てよ」
背後から自分を呼び止める声が聞こえて振り返る。
先ほど出会った杉原弦音という少年だ。
小柄で短髪の黒髪。
黒い肌に丸っこい眼。
「ひどいです。そんなひどいこといわれる筋合いない。俺は俺なりにがんばっているんだ。たしかに下手です。認めます。でも、おれなりに少しずつうまくなっているんです。楽しくもなってきているんです。だから、そんなふうに言われるのはすごく癇に障る」
「楽しくなってきたか。なんかさあ。お前……。弓舐めてるだろう」
「え?」
「つうか。お前って他に向いていることあるんじゃないか? 無理して弓する必要あるのかよ?」
「別に無理なんてしてません。俺はただ弓がやりたいと思ったんです」
そういいながらも、弦音はかつての栄光を思い出す。もしも、あのまま続けていたならば、弓がうまくできないことに苛立ちを覚えることはなかっただろう。この男はそこを見透かしている。正直、いけ好かないやつだと思った。けど、なぜ弓がやりたいのかと改めて考えてみる。
「……音……」
脳裏には弓を射る祖父の姿があった。祖父の放つ矢から聞こえる音がいまだに忘れられない。
「あの……。音がいいっす」
「は?」
「あんたがしていたんですよね。俺が入る前に弓を射ていたのはあんたですよね」
「そうだけど?」
「俺、本気なんです。俺が向いているかどうかはわかりません。でも、もしもあんな音がたてられたから、俺の矢もちゃんと当たるんじゃないかと思ったんです。あんなきれいな音を出すことができたら、ぜったいに思うように射ることができるのではないかって……」
「音ねえ。そんな音が出せるのか? お前には……。それになんか優柔不断だな」
「えっと……」
優柔不断。
そんなつもりはない。でも自分が話しているうちは果たして自分が必死になってやっているのかという疑問が生まれなくもない。なぜ、弓道をやろうとしているのか。音なら、弓ではなくてもきれいな音を奏でる自信があるものがあったのではないか。
いや、それでも、弦音は奏でてみたいのだ。
弓から放たれる音に耳をすませてみたい。
「音か……。それは弓だけじゃないだろう。バレーだろうとバスケットだろうと同じだろうな。いい音を出すことができたら、自分も満足できるものだ」
「あの……」
「むかし、そんな表現したやつがいたよ。お前の感覚ってそいつと同じだな」
「……」
弦音は首を傾げた。
「まあ、俺には関係ないな」
朝矢は弦音に背を向けて歩き出した。
音
世界にはたくさんの音がある。
── 街中に流れる音楽
人々の話声
車の音
動物の泣き声
世界のいたるところに木霊す音
それって、どれも素敵かよね──
だれかが言った。
── こんななにもない田舎にもたくさんの音があるとよ
それを聞くのが楽しか ──
誰だろうか。
この都会の言葉ではない懐かしい響き。
最近、どうもぼやけて見えてしまう面影。
そんなに遠い昔ではなかったはずなのだが、どうしてこんなにもあいまいなのだろうか。
朝矢はそんなことを考える。
音がある。
世界に響く音。
激しい音。
穏やかな音。
それがいたるところで奏でられている。
しかし、時折その音が不協和音に聞こえるときがある。
聞こえるのだ。
自然の声が泣いている。
泣いている?
朝矢は、はっとする。
「どうしたんですか?」
後ろにいた弦音はーは朝矢が突然立ち止まったことをいぶかしむ。
朝矢が怖い顔をしながら、なにかを見ている。
「江川?」
弦音がそれにつられて視線を向けると、その先に江川樹里の姿が見えた。しかも顔面蒼白で友人に支えられながら歩いているではないか。
「江川?おい、江川」
弦音は慌てて彼女たちのほうへと駆け寄った。
「杉原くん」
「江川。どうしたんだ?」
「わからないわ。突然苦しみだしたの」
「苦しみだした?」
「とにかく保健室に連れて行こうと思って……」
「江川さん。どうしたの?」
べつの方向から声がした。振り返ると、園田先輩たちがこちらへ近づいてきた。
どうやら彼女たちも樹里を心配してきてくれたようだ。
「わかりません。突然倒れて」
弦音にいったことを繰り返す。
「おかしいわね。さっきまでピンピンしていたのに……」
たしかにそうだ。さっきまで元気だった。
それなのに今は、いつ倒れてもおかしくない状態である。
「どうした?」
別の方向からも声がした。
秋月だ。秋月とその友達たちもまた彼女の下へと集まってくる。
「江川さん? 大丈夫」
秋月が彼女のほうへと近づき話しかけた。
すると、虚ろだった彼女の眼が見開き、秋月を見る。
「……」
口を開いたまま、食い入るように見つめられた秋月は思わず仰け反る。
彼女は秋月へと手を伸ばそうとした。
秋月はバランスを崩して、尻餅をついた。
「秋月?」
「秋月くん。大丈夫?」
いち早く駆け寄ったのは、園田先輩だった。
「その子から離れろ」
「きゃあ」
朝矢の切羽詰まった叫び声が響くと同時に突然彼女を支えていた麻美たちの身体が樹里のもとから吹き飛ばされた。
「え?」
自分たちになにが起こったのかわからずに麻美たちは呆然とする。
「江川?」
「樹里?」
そして、彼女のほうを見る。
彼女は立っていた。
まっすぐに立っている。
顔は相変わらず青白い。
ヘアゴムで結んでいた長い髪がほどけ、まるで生き物のようにうなりながら広がっている
目は虚ろ。
けれど、怪しい影が滲んでいる。
風が吹く。
彼女を中心に突風が吹き付ける。
匂いがする。
何の匂いかわからない。
でも嗅いだことのある匂い。
彼女の眼は宙をさ迷い、やがて秋月と園田先輩のほうへと注がれる。
虚ろな目が見開き、怪しい光が宿る。
「ひい」
園田先輩が悲鳴を上げ、秋月に抱き着く。秋月の顔も真っ青になり、体中に震顫を起こしている。
恐怖。
理性的に激しい恐怖が襲う。
まるで蛇に睨まれたカエルのような感覚だ。
弦音もまた動けない。どうしてなのか。
なぜその目に恐怖を感じてならなかった。
ただ全身が凍り付いて動けない。
だめだ。どうにかしないといけない。
動け
動け
止めないと
いけない
そう感じたが、まったく動けなかった。




