5.
誰もいない家の中に、チャイムが響いた。
一度目の後、しばらく待ってからもう一度。それで諦めたのか、カチャカチャとキーホルダーの立てる小さな金属音がして、鍵が回った。暗い屋内に、矩形の光が差す。
「小夜子? 小夜子、いないのか?」
ドアを開けた男は、玄関口から奥へと声をかけた。チャイムの時と同じように、しばらく待つ。
が、妻からの返答はなかった。
「どうせ未夜がいなくなったというのも嘘なんだろう? お前に任せたのが馬鹿だった。あの子も私が連れて行く」
声音に苛立ちが混じるが、反応は、やはりない。
彼はひとつため息をつき、それから怪訝に眉を寄せた。
家の中に、人の気配はまるでしなかった。動くものを感知して自動点灯する外玄関のもの以外、夜だというのに照明のひとつとて灯っていない。
彼の妻は──小夜子は心の不安定な女だ。交際中は「自分が守ってやればいい」などと浮かれた事を考えていたが、それがとんだ思い上がりだと、結婚生活において思い知らされ続けた。
悪い事は全て他人の責で、正しいのは常に自分だけ。
そんな小夜子の気性は、近所でも園でも、ありとあらゆる生活圏で常に問題となった。
しっかり話し合おうとしても、糾弾の矛先が自身に向けばすぐにヒステリーを起こして、それこそ話にならなくなってしまう。
だから彼女の浮気を知った時、彼の胸に湧いたのは怒りではなく、これで肩の荷を下ろせるという安堵だった。
そしてそういう女だと知悉しているから、この状況に最悪の可能性が頭を過ぎった。
──まさか、未夜を道連れに。
不貞の事実すら恣意に捻じ曲げて自己弁護する姿に辟易したとはいえ、可愛い娘を残して家を出てしまったのは、どうしようもないしくじりだった。
男は慌ただしく靴を脱ぎ、娘の姿を求めて駆け上がる。
真っ先に、台所に行こうと思った。
小夜子はあの薄汚れた台所を、聖域のように考えている節がある。自分にも娘にも立ち入らせず、まるで特別な己の城の如くに振舞っていた。だからもしあの女が、何か大事に及ぶとすれば、きっとそこでに違いない。
台所へと続く居間もまた、どこもかしこも暗かった。
カーテン越しに差し込む街灯りが、わずかに物の輪郭を浮かばせるばかりだ。不十分な視界が、不安を一層に掻き立てる。
「未夜? 小夜子?」
二人を呼ばわりながら、薄闇に目を凝らした。そうしながら、背後の壁に手を伸ばす。壁面を這う指先が、電灯のスイッチを探り当てた。パチリと蛍光灯の白く明るい光が広がり、居間中を照らし出す。
彼はもう一度室内に視線を巡らせ、そして落胆した。娘と妻は見当たらない。
──やはり、台所か。
スイッチに手を添えたまま、男は思う。
夜闇に包まれたその冷たい床に、二つの死体が転がっている。うち片方は、助けられたかもしれない娘のものだ。そんな光景が脳裏に浮かんで、胃の中からせり上がってくるものがある。
胸元に手を当てて、男は吐き気を堪えた。
仮令そこに家族の死体が転がっていようとも──いや、転がっているかもしれないからこそ、自分は行かなければならない。
そう思いはするのだが、けれど足は動かない。
悪い予感はますます膨らんでいく。頭の中で、何かが激しく警鐘を打ち鳴らしている。
額に嫌な汗が滲んだ。激しく動いたわけでもないのに、呼吸は荒くなっていく。
警報を発する本能と行かなければという理性の板挟みになった男は気づかない。
己が背にする壁面が、音なく細やかに波立ち始めたその事に。
彼の立てる物音に感応したものだろうか。
白く照らされた居間の壁へ。
腕を差し伸べる魚の影が、ぐうと浮かびつつあった。